のんびり歩いた山の辺の道

 

三輪山と山の辺の道

 

 久しぶりに「山の辺の道」を歩いた。山の辺の道とは奈良県でも最も有名な古道で『古事記』や『日本書紀』にもその名前が登場する日本最古の道と言われている。桜井から奈良を結ぶ約35kmの古道であるが、今回はそのうちの標識が整備されている桜井から天理までの約16kmを歩いた。

 

 近鉄奈良駅構内で偶然にも近畿日本鉄道が発行している「てくてくまっぷ」というものが目にとまった。手にとってみると10種類ほどの近場のハイキングコースを詳細に紹介しているもので、そのなかに「山の辺の道コース」というものがあった。今回の3日間の奈良旅行日程のなかで晴れていれば1日を「山の辺の道」を歩こうと思っていたので願ってもない幸運であった。

 

私が持参した『奈良大和路』というJTB発行パンフレットには山の辺の道は6ページで編集されているが添付されている地図は概要だけであって、実際に歩いてみると「てくてくまっぷ」の詳細地図は非常に参考になった。桜井駅を起点として天理駅までの分岐位置、案内板位置、名所旧跡などが距離を含めて痒いところに手が届くように詳細に描き込んであるのだ。そのハイキングマップを手に入れたことによって、6時間30分に渡る16kmのハイキングを全く迷うことなく楽しむことができたのである。今回、30数年ぶりに山の辺の道を歩いたのだが、前回は山の辺の道の近辺にある大神神社、桧原神社、箸墓古墳、景行天皇陵、崇神天皇陵、石上神宮などを見て回ったのだが、16kmを通して歩いたのは今回が初めてだった。

 

天候は素晴らしい秋晴れだった。古道脇の1213箇所の名所旧跡を訪れながら天理駅までのんびりと歩いていった。最初に訪れたのは海柘榴市である。日本への仏教伝来年が538年であることは中学校の社会科の歴史で学んだが、その土地が海柘榴市であったことを今回のハイキングで初めて知った。現在の海柘榴市は鄙びた静かな田舎に過ぎないが、当時は大和川による大阪難波への水路があり交差する陸路を含めて非常な賑わいを見せていたようだ。「仏教伝来の地」の碑が立つ近くに海柘榴市観音が建っている。かつての歌垣の跡だが、『日本書紀』によれば、武烈天皇が皇太子のころ物部氏の娘であった影媛との恋をめぐり恋敵を追い詰め奈良山で殺害したことが記されている。その悲恋の歌垣の場所に小さな海柘榴市観音が建っており近隣の方によりきれいに掃除がなされていた。歌垣は男女出会いの場でもあるが1600年の昔の恋人を殺されてしまった影媛の悲しい心に思いを馳せた。

 

三輪明神を祀る大神神社は拝殿だけで本殿がない。三輪山自体が御神体だからだが、この神社形態が原初の自然宗教の形であって日本最古の神社に挙げられている。実に堂々とした神社として存在する。御神体である三輪山への登山は近くの狭井神社脇から登山道が付けられている。私は時間がなかったので登頂はしなかったが、登るためには現在でも信仰の山であるため社務所で初穂料として300円を納め、写真は撮ってはならない、山中で食事をしてはならない、ゴミは持ち帰る、などの諸注意を受けたあと往復2時間のコースである。

 

古道脇には宮内庁によって景行天皇陵、崇神天皇陵などに指定されている全長300mにも及ぶ大古墳が存在するが、一貫して古墳の学術調査を拒否している宮内庁が指定した天皇陵は考古学上で確認されたものではなく推定の域を出ないものである。はっきりしていることは4世紀から5世紀にかけて強力な権力を持った集団がその地域に存在していたという事実が古墳の存在から知られることだけである。宮内庁は今後も天皇陵に指定されている古墳の学術調査を拒否し続けるだろう。学術調査が入ることによって明治以降に神格化された神武天皇から続くという万世一系という天皇史観が一挙に崩れ去ってしまうのを宮内庁自身が一番知っているからだ。

 

古道は、たわわに実る柿の実や色づいた蜜柑の実の脇を通って伸びている。秋桜が柔らかく風のない陽を受けて元気に微笑んできた。頻繁に無人の野菜売店が設置されており、私はひと袋8個入って100円の蜜柑と一つ10円の柿を買って食べながら古道を歩いていった。私は水曜日に歩いたのだがパンフレットを持った人や団体ハイキングのグループとも度々であった。行き交う人に同じハイキング者として「こんにちは」と挨拶しながらのんびり歩いた山の辺の道は実にのどかでホッとするものだった。

 

戻る