春まだ浅い残雪の北八甲田へ
「6月2日、午前8時、天候:キリ、気温:7度、風向き:西、風速:16m」と頂上駅の気象状況が八甲田ロープウエイの改札口に表示されている。上空を眺めれば雲の流れが異常に速い。昨晩は夜通し強い雨が降り続け、明け方は雷鳴が轟いていたので気象状態がとても不安定なのだ。
今日の登山行程はロープウエイ頂上駅から赤倉岳、井戸岳、八甲田大岳へ登り、上毛無岱、下毛無岱を経て酢ヶ湯温泉へ下山するというコースを考えていたが、案の定、頂上駅から外に出るやいなや強風をまともに受け視界もガスのためはっきりしない。
「まいったなあ」、青森で酢ヶ湯温泉行きバスに乗車する時は青空だったため、半袖シャツにヤッケの軽装登山スタイルなのである。ロープウエイに乗るために片道切符を買おうとすると、女子係員は「登山道は雪に覆われている所がありますから無理だと思ったら必ず引き返してください」と注意を促して来たのが思い出される。
赤倉岳、井戸岳、八甲田大岳も全く霧の中であり、足元の登山道が僅かに見える程度だ。田茂蔀岳山頂は遊歩道が整備されているのでこれ幸いと歩き出しながら、ガスの流れがだんだんと薄くなっていくのを確認しながら登山コースを赤倉岳から八甲田大岳をカットし、上毛無岱、下毛無岱から酢ヶ湯温泉へ下るものへと変更する。
登山コースは変更したものの雪解け水が流れる登山道の脇に建つ「熊出没注意」の看板を横目で見ながら、「ま、しょうがないか」と一人納得しながら残雪でしばしば覆い隠されている登山道を探しながら進んでいく。登山道が春スキーのコースになっているのか竹竿が所々に挿してあるところは比較的に捜しやすいが、全く竹竿がないところもあり沢筋に下りないことだけを考えながら登山道を探す。
熊はこの残雪の中ではまだ穴に入っていて冬眠中だろうとは思いながらも、時間にして1時間程度だろうが夏山ならばなんでもないコースを、行き交う人とていないガスがまとわりつく残雪の中を1人あれこれ考えながら道を探しながらの山行はいつもとは全く違う体験なのである。「酢ヶ湯」の指標にぶつかると正直ホッとした。単独山行にとって事故は常に付きまとうものであり、一歩間違って事故に直面した状況にあっては全て自己自身で解決していかなければならない覚悟が必要なのだ。
やがて登山道は高層湿原を保護する木道に出た。やれやれ一安心である。ここからは雪解け水に覆われ所々沈みながらも整備された木道をゆっくりと進むだけである。
周りの風景はまだ芽吹きも疎らで足元も茶色である。あちこちの地塘脇に水の妖精と呼ばれている水芭蕉が姿を現し、ショウジョウバカマもピンクの花を咲かせている。酢ヶ湯登山口から登ってきたハイカーにも三々五々出会うようになった。挨拶を交わすとみんな周りの春になったばかりの景色のようにゆったりとしている。
ガスは晴れ出した。時折、太陽も顔を出し周りのたおやかな山々の姿を浮かび上がらせてきた。今日、登るはずだった赤倉岳も八甲田大岳もすっきりとした姿を現している。
昨日は弘前から津軽富士と呼ばれている岩木山に登った。夜明けまでの雷鳴と降雨は今日と同じだった。西側の岳温泉からの登山コースを選び、登頂してから南側の岩木山神社への下山コースを進むが種蒔苗代の雪田から登山道は残雪に覆われ全く解らない状況であり、傾斜はますます急になり登山地図のルートでは危険箇所の坊主転がしに向かうはずだが、ピッケルをもたずアイゼンも履かない軽登山靴のまま進めば必ず滑落遭難するだろうと判断し引き返したのであった。その途中で残雪の脇に咲くミチノクコザクラとの初めての出会いはとても心に残った。
ツガルザサの中を降りだす岳温泉へのコースはやがてブナの林に入っていった。ブナの林の中を四方八方からのジージーという春蝉時雨の中の下山であった。関東には6月初旬に鳴く春蝉はいない。羽の透き通ったかなり大きな蝉であり珍しい体験であった。
明るい日差しの中で緑をいっぱい浴びながらの下山は本当に心を豊かにさせてくれる。私にとってこのような体感がエネルギーの元となるのだ。
岳温泉に下りて早速「山のホテル」に入り、飲めばレモンの味がする温泉で汗を流し、マイタケと鶏肉の混ぜご飯であるマタギ飯と土瓶蒸し、採れたての筍を始めとする山菜に舌鼓を打ちながら生ビールで喉を潤したのである。
岩木山山頂
単独登山はいつも自己判断の連続である。登山は時により自分の生命の危機に直面するスポーツであり、事故が起きれば全て自分の責任である。客観的に考えればなぜそんな厳しいところに自己を持っていくのか不思議に思う人がいると思うが、私は自然の中で遊ぶことが好きなのであり、難しいことを言っても登山は私にとってあくまでも趣味であり息抜きである。自らの足で歩いていかないかぎり頂上から見渡す爽快感は得られない。
頂上からの360度のパノラマの爽快感と五感で感じる体感は決してテレビの画面からは感じることが出来ないものであり、それらは山と反対側にある海に潜って魚たちの泳ぎや海草たちの揺らぎや入射する太陽光線に輝く珊瑚やウニたちの輝きと動きを自分の目で見ることによって体感するものと同じものなのだ。海に潜って水中から見上げた水面のキラキラする輝きは一度見たら決して忘れはしない光景だろうし、その体感と感動が言葉で表す以上のものを自分の中に残してくれ、その積み重ねが一人の人間をかたちづくっていくのだと思う。
今回の山行はNTT東日本の社内資格であるコックピットディレクタ試験対策会議が青森市浅虫温泉で開かれたのでその会議終了後に単独登山を行ったものである。山行では北八甲田の山々を縦走できなかった。しかし、これでいいのかもしれない。その時々の気象条件に合せながら最良と思えるコースを判断し安全登山をすべきなのだし、危険と判断すればあっさり中止の決定を下す必要があるのだ。
青森を代表する浅虫温泉、岳温泉、酢ヶ湯温泉に入り、地元では津軽富士と親しまれている岩木山、明治時代の陸軍歩兵連隊の雪中行軍における大量遭難で有名な八甲田山の両山で遊べたことはとても有意義な時間を過ごすことができたと思っている。再び訪れることがあったならば今度は錦織りなす紅葉の秋に訪れたいと思う。
2002、6、3、記