白馬山荘の床は冷たかった

 

ヨツバシオガマ

8月3日

天気予報どおり前線が日本列島を通過するために昨夜から今朝方にかけて雨。川は茶色に濁りかなりの増水が見られる。ポツッポツッというレインウエアへの雨音はやがてピシッピシッへと変わり、それに横風が加わりビシッビシッという感じになってくる。

7月22日の梅雨明けから10日間、昨日までの夏空とはうってかわっての雨空。ま・しかたないか、これも自然のなりゆきだからと諦めつつ栂池から白馬大池へと歩を進める。北アルプスでも上高地、穂高、燕とともに最も人気を集め『天井の花の楽園』と呼ばれる白馬岳へのメインコースである。夏山シーズンは真っ盛りであり、老若男女、ファミリー登山、人人人の波である。いやーそれにしても多い。今日の山荘は布団1枚に3人のペースで詰め込まれるのを覚悟しなければ、と思いながら歩を進める。

 

山小屋の最盛期は7月中旬から8月中旬までの1ヶ月である。山小屋経営者はその1ヶ月に1年間の勝負をかける。最盛期の1ヶ月間、登山者は自分の肩幅である40cmが眠るときの割り当てとなる。これは夏山最盛期の常識であるが寝返りもまともに打てない状態になると、山好きのものでないと二の足を踏むかもしれない。

白馬大池山荘の売店に入ってみたが、風雨を避ける登山者でごったがえし立錐の余地もない混雑ぶりだった。晴れていたら空の青さを反射させた大池は見事なコバルトブルーに輝いていることだろう、と思い長居は無用と雷鳥坂を小蓮華山へと向かう。

ガスのために視界は極めて悪く20mくらいであろうか。視界は悪いがメインルートのためトレイルはしっかりしているので道に迷う心配はない。小ピークをいくつも越えたところに3mほどの鉾が突き刺さる小蓮華山山頂へ到着した。晴れていたらさぞかし絶景が… と思いながら雨の中で握り飯をほおばる。この山頂でも関西訛りの30名ほどの中高年登山者集団が雨にも負けずに元気一杯だ。

 

シナノキンバイ、ハクサンイチゲ、コイワカガミ、ハクサンフウロなどの可憐な花々が雨の中に静かに咲いている。カサッと小石が落ちるような音がしたので、アレッ、空耳かなと思いつつ周りを見渡すと3羽の雷鳥が霧のなかでこちらをジッと見つめているではないか。距離にして3mほどである。全てメスの成鳥なので、アレッ子どもはどうしたのだろう、いつもこの時期だと可愛い子ども連れなのに、と思いながらしばしの睨めっこ。

彼女たちはやがて霧の中へ丸い姿を消したので白馬山頂へと歩を進めると、またもや雷鳥と出逢う。今度はオスメスの夫婦である。花の実をさかんについばんでいる。雷鳥は空を飛びことが出来るが、よっぽど身に危険が近づかない限り飛ばない。いつもちょこちょこ歩いている。2〜3mの距離までは楽に近づくことが出来る。

雷鳥たちに出会ったのは山頂から50mほどのところであった。まったく周りが見えないガスの中に突然山頂の方位指示盤が現れた。作家・新田次郎は『強力伝』によって直木賞を受賞したが、その物語の舞台は白馬岳であり、方位指示盤が設置されている大石を強力が山頂まで担ぎ上げる内容であったが、その大石が目の前に現れたのである。

 

白馬山荘のレストラン『スカイプラザ』で流されているクラッシック音楽に耳を傾けつつ生ビールを飲む。山小屋は変わった。3000m山頂直下の山荘で飲む生ビールは格別の味がする。おもわずジョッキを重ねること5杯。いい気分だ。

夕食も終え、いよいよ寝る段階となったが予想通り1枚の布団に3人ずつのペースで詰め込まれているので、宿泊者は折り重なるようにして寝なければならない。私は4枚重ね着をして板の間へと逃げたが、2時間もすると底冷えでとても眠れる状態ではなくなってきた。本当に身体の芯まで冷え切ってしまい震えがきてしまう。しかし丁度運良く空きの布団が1枚転がっていたのを見つける。地獄に仏とはこのことで、その布団を二つ折りにして柏餅の要領になって眠る。たった1枚の布団であっても有ると無しでは天国と地獄。いやー、温かい。

 

8月4日

昨晩のうちに唐松岳までの縦走コースを鑓温泉への下山コースへと変更した。天候不良時のエスケープルートとして考えていたことである。

白馬岳から杓子岳を越え鑓ヶ岳への登りにかかる頃、ようやく霧が晴れ、陽が差し込みだした。足元にはコマクサ、ハクサンフウロ、ヨツバシオガマ、ベンケイソウ、イワギキョウ、タカネツメクサなどが咲き、岩陰にひっそりと咲くクロユリの花を見たときにはロマンさえ感じてしまった。

霧は晴れ、雲は飛んだ。白い杓子岳の向こうに右側からガスが吹き上げる白馬岳が見える。とても美しいと思う。反対側にはピダミダルの山容がひときわ目立つ剣岳が群青色に尖っている。今日、歩くはずであった天狗原に建つ山荘も遠望できる。唐松岳や五竜岳は依然として雲の中にあり、その姿を見ることは出来ない。

                                    1992年8月5日、記、

 

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