幸せなるかな雲上の散歩道

広河原〜北岳〜中白峰山〜間ノ岳〜西農鳥岳〜農鳥岳〜広河内岳〜奈良田

北岳から農鳥岳従走路

 8月31日(快晴)

 雲海の上に細く長く引かれていたオレンジ色の帯が薄くなるのと反比例して明るく輝きを増していた一点から赤い横縞の丸いものが徐々にゆっくりと雲海の中を昇ってくる。赤ちょうちんのような玉の頂点が雲海から出る刹那、光りの矢が走る。最初弱々しい光りは1分間のドラマによって完全にその姿を雲海上に現す。

 北岳山荘からの眺めは、後方の中白峰山頂はモルゲンロートで赤く染まり、右手に標高日本一の富士山、左手に第2の北岳を配し、その中央から太陽が昇ってくるのだ。この色の変化、この光景、それは筆舌しがたいものであり出会ったものでしか味わえない感動であろう。石川五右衛門ならずとも、たたらを踏んで「絶景かな、絶景かな」と叫びたくなるというものだ。時に5時17分。気温零下1度であった。

 

 さあ、6時。間ノ岳〜農鳥岳へ向けての縦走を開始する。雲海のほかには雲ひとつなく晴れ上がっている。申し分のない絶好の縦走日和だ。登り始めて30分、中白峰山頂に到達する。朝食中の登山者2名に挨拶を送る。先ほどまで滞在していた北岳山荘は遥か下に沈み、中央に北岳、左に甲斐駒ケ岳、千丈岳、右に地蔵岳、観音岳、薬師岳、後ろに八ヶ岳が遠望できる。丁度、1ヶ月前に登頂した北アルプスを代表する槍ヶ岳も「おいらはエライんだぞ」とばかりに天空に尖がり、左へ大喰岳、中岳、南岳、北穂高岳、奥穂高岳、前穂高岳と連なる穂高連峰。更には中央アルプスの木曽駒ケ岳の向こう側には御嶽山。目を南に転ずればこれから歩む南アルプスの峰々。間ノ岳から塩見岳へと幾重にも幾重にも途切れることなく連なる山々。山が好きな私にとってはいつまで見ていても飽きがこない光景である。

 

 中白峰山頂から間ノ岳への道は西側をトラバースしており、早朝の時間帯では日陰のため岩が露で濡れておりスリップしやすくとても歩きづらい。それにしても常に左手前方に端正な姿の霊峰・富士を仰ぎ、遮るもののない雲上の散歩道はとっても気持ちがいいものだ。この爽快感が精神をリフレッシュさせるひとつの糧となるのだ。今日、この縦走路を歩いている登山者は10人に満たない。夏山の喧騒が過ぎ、10月の紅葉までのしばしの間、山々には静寂の時が訪れている。

 間ノ岳から左右に分かれる稜線は右に三峰岳、仙塩尾根へとつながり、その先に塩見岳がドカッと居座り見るものを圧倒させ、左に西農鳥岳、農鳥岳へと連なる稜線を形成している。間ノ岳と西農鳥岳のコルに建っている農鳥小屋への下降は岩屑が多いためスリップし易く神経を使う。花期の過ぎ去ったチングルマやハイマツの中に朱色に色づき始めたタカネバラの実を足元に見ながら下降していく。

 

 農鳥小屋には黒と茶の2匹の犬が鎖につながれていたが、つながれた犬はよく吠える。顔を会わせた登山者には挨拶がわりなのか全ての人に吠えている。どうせなら肩の小屋にいた犬のように人なっつこいほうが登山者には喜ばれるだろう。

 西農鳥岳への40分の登りはコルからの登り返しだけに足にこたえる急登だった。その疲れを秋の代表的なトウヤクリンドウがファイト、ファイトと励ましと同時に癒してくれる。西農鳥岳山頂からの眺めは先ほどとは随分違ったものになってきた。8時30分頃より湧き出してきた雲はみるみるうちに3000m峰を包み始めた。北岳、間ノ岳しかりである。一斉に雲の中に包み込まれていった。8月中旬から9月上旬という季節の変わり目だかだろうか。夏山ではこのような変化にはまず会わない。

 

 「へのへのもへじ」の描かれたペイントマークに心を和ませながら農鳥岳山頂に着いたのだが周りは見えない。視界50mほどのガスの中であり昨日の北岳山頂と全く同様であった。乳白色一色の世界である。一等三角点の置かれた山頂は結構広いのだが標柱とともに大町桂月の歌碑が立っていた。桂月が大正13年夏、登頂した際に詠んだ次のような歌であった。

      「酒のみて高根の上に吐く息は

           散りて下界の雨とならん」

風流だなぁと思う。酒の飲みはこうでなくちゃと思う。

 昭和32年7月に立てられた碑は残念ながら真二つに割れてしまい、その後、何度か修復を試みたがうまくいかず、近年、新たに御影石で立て替えられたものであるという。新旧ふたつの石碑が山頂に立てられているのであった。

 

 縦走路はなおも続き大門沢への下降点までは、お花畑の南面をトラバースして行く。ハハコグサ、ヨツバシオガマ、ウサギギク、チングルマと賑やかであり、それらの花から花へと白・青・橙の紋も鮮やかなクジャクチョウがヒラヒラ舞っており、時折、チリリ、チリリとイワヒバリはハイマツの小枝で囀る。そのハイマツを這うようにしてひっきりなしにガスが上がってくる。全く静かだ。行き交う登山者はいない。北岳山荘で作ってもらった弁当を広げウイスキーの水割りを飲みだす。鰯の缶詰を開け、ソーセージにチーカマのツマミでゆっくり飲んでいく。本当に静かだ。全く静寂の時が流れる。ガスは絶えず南側の谷から湧き上がり稜線を越えて北側の谷へと流れ込んでいく。視界30mのなかで時が静かに流れていく。

1990年8月31日

                                     大門沢小屋にて

 

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