奥穂高岳(3190m)山頂へ
3人でミーハ―・クライマーズ・クラブ(MCC)を結成
奥穂高岳山頂
1988年の年賀状に「今年は穂高岳に登ろうと思います」と書いた。この小文は夏には忙しくて山へ登る時間が取れなかったが、時間的にみて無雪期として最後のチャンスである10月10日〜12日の期間に奥穂高岳へ登る計画を立て、職場の同僚である赤石沢、鎌倉両君とパーティを組み登頂した時の記録であり、同時にミーハ―・クライマーズ・クラブが結成された時のものである。
10月11日(火)快晴
準備を終え明神の吉城屋山荘を6時に出発する。芝生のキャンプ地のある徳沢へは6時40分に到着。霜が降りているためにバリバリと音をたてるようなテントが約30張りほど張られている。徳沢では休憩せずに梓川の左岸を上流の横尾へと向かう。
横尾山荘へ着いたのは7時30分であり、ここで30分の休憩を兼ねた朝食を摂った。朝食といっても昨夜泊まった吉城屋山荘で作ってもらった握り飯2個と香物、それにソーセージが1本である。今日も快晴なのだが、横尾は山に囲まれた谷間にあるため陽が射しこまず、霜で凍ったベンチとテーブルにかじかんだ手指。1杯のお茶を飲むことによってホッと一息つける。
左前方には明神岳を従え、井上靖原作の『氷壁』の舞台として登場する前穂高岳の勇姿が望め、正面には昨年、日本登山史上に残る落石事故が発生した屏風岩の上部が見える。食事中に行き交う登山者は20名ほどだ。
食事が終ると横尾谷に入るために道を左にとり梓川を渡り熊笹や黄色、橙色に色づく雑木の中を涸沢へ向かう。本谷橋の手前で休憩となるが、この場所は見晴らしもいいし横尾と涸沢の中間地点でもあるので周りには休憩を取る人が多い。本谷橋を過ぎると本格的な登りとなるが、それに伴って周りの木々の紅葉も一段と鮮やかなものとなる。前方に大キレットからやがて北穂高岳の北峰、南峰が視界に入ってくる。涸沢ヒュッテの名物である吹流しも見え始めキャンプ地まではあと少しである。涸沢一帯はナナカマドやヤマウルシが紅に、ダケカンバが黄色に色づき、紺碧の大空と見事な光景を展開していた。今年も来て良かったと思う。
2300mの涸沢ヒュッテに到着したのは10時30分であり、12時までを昼食を兼ねた休憩となった。早速、売店からビール3本とワイン1本を買い求め3人で乾杯する。目が痛くなるほどに空はどこまでも蒼く、前穂高岳、吊尾根、奥穂高岳、涸沢岳から北穂高岳へと連なる穂高連峰の稜線。反対側に位置する常念岳や蝶ヶ岳もなだらかな姿を浮かび上がらせ、私たちの周りは連休を外して山に入っているために登山者も少なく非常に静かである。涸沢カールに張られているテントも12〜13張りが最後の頑張りを見せているだけである。ワインを傾けているすぐそばまでイワヒバリが人なつっこく近寄ってくる。雷鳥にしてもそうだが登山者が驚かさないから人を怖がらないのだ。
1時間半の休憩後、石畳で整備されているパノラマコースを再び歩き出す。涸沢岳の斜面をトラバースしてザイテングラートの岩尾根へ取り付くまでのコースは楽だし見晴らしも抜群である。ハイマツと岩のザイテングラートを登りだすと、今まで休憩していたヒュッテが見る間に小さくなり一歩一歩高度をかせいでいるのが実感できる。道は直登のためかなり急峻であり、片手を岩に当てサポートする体制が多くなる。
2度、3度と休憩を取りながら2996mの穂高岳山荘へ到着したのは14時であった。13時頃より湧き出した雲の流れは異常に早くなり天候が崩れ出す前兆だ。山荘で宿泊手続きを済ませ、30分後には奥穂高岳に向けて登山を再開する。
山荘の左手からいきなり鉄梯子2基と鎖を頼りに50m程の直登が待っていた。ワインの酔いなのか3000mの高度による酸素の稀薄によるのかは分からぬが、頭がボーッとしているので落ちないように慎重に行動する。もっとも慎重になるのは200m程の距離であり、あとは岩だらけの稜線を30分ほど歩くと右手にジャンダルムが現れ、富士山、北岳に次ぐ日本第3位の高さを誇る3190mの奥穂高岳山頂へと到着した。
頂上には方位図が置かれ、かたわらには2mほどの石積みの上に石の祠が祭られている。笠ヶ岳、槍ヶ岳、南岳、燕岳、常念岳、蝶ガ岳、御岳の山々が360度のパノラマでグル〜リと展望できる。ヤッタネ!!と思わずピースサインでも出そうかという気分を、何も遮るもののない頂上に立つ時、飛騨側から吹き上げてくる西風が容赦なく体温を奪い去り、10分と頂上に立ち止まっていることは出来なかった。
雲の流れはより早くなり、発生したガスはみるみる視界を遮り始める。寒さのために流れっぱなしの鼻水も強風に吹き飛ばされっぱなしである。ほうほうのていで登ってきた道を山荘まで戻っていく。20分ほどで山荘まで戻ってきたが飛騨側はガスのため視界は全くなく、風力発電のための3基の風車が勢いよく回っているのみであった。
10月12日(水)雨
一晩中うなりをあげていた強風と屋根を打つ氷にうつらうつらとした朝が明けた。−36度の真冬並の寒気団が上空に流れ込んでいるとの天気情報が流れるなかで、午前6時の外気温はー2度であった。山荘の外に出てみると昨日登った奥穂高岳への鉄梯子や岩肌は氷で真っ白に凍てつき、50mほど上部からはガスのために全く見えない。昨日頂上まで登っておいて良かったとつくづく思う。当初の予定だと今日の朝一番で登る予定にしていたが、昨日の行動が思ったよりも早かったので登頂しておいたわけだが、予定通りにしていたならば登頂は確実に断念していただろう。季節の変わり目は気圧配置も変化しやすく、特に山行の場合は「山の天気は変わりやすいので注意しろ」という言葉を実感する。
朝食と身支度を済ませ7時に下山を開始する。西側の飛騨側は勿論、右手の奥穂高岳や左手の涸沢岳、北穂高岳、そして前方に見えるはずの常念岳や蝶ヶ岳も全く見えず雲の中である。下山方向の涸沢はカール状になっているので風もなく見通しは良かった。ザイテングラートの岩肌は「海老の尻尾」の形をした氷が無数に張り付き、滑りやすいのでゆっくり慎重に下山する。
紅葉の懐に抱かれた涸沢小屋に着いたのは8時であった。そこでこれから奥穂高岳へ初めて登るという50才代の3人連れの女性たちと話を交わす。彼女たちが元気に出発していく横で、氷がへばりついた岩肌を見て登頂を断念した単独行の20才代の男性。この対照的なふたつの行動をみて、どちらの行動が良いか悪いかではなく、冷静な判断というものは難しいと思う。なぜならば、山行はきちんと立てた計画とそのうえでの自分の経験と直感と冷静な判断が組み合わさって成り立っていくものだが、穂高連峰一帯は12日の9時前から吹雪き始め、13日は下の上高地までが吹雪状態となり稜線上では70cmの積雪となる。吹き溜まりでは1mを越す積雪となり、本格的な冬山へ文字通りの「雪と岩の王国・穂高連峰」へと移行していったわけだが、あのおばさんたちは無事に穂高山荘へ辿り着いただろうか。それともザイテングラートあたりで断念し引き返したのだろうか、という思いがいつまでも頭から離れなかった。
事実、この日に到来した寒波によって谷川岳で2パーティ6人が遭難し4人死亡。八甲田山でも3人が遭難し、こちらは全員救助され、尾瀬では寒さと疲労で一人死亡。槍ヶ岳でも大阪の会社員が一人死亡した。私自身よく山に登るが単独行が多く、今回のようにパーティを組むのはめずらしいが、これからも判断を誤らないように心掛けていきたいと思う。紅葉を眺めてのルンルン山旅気分が一転して自己の死へと繋がる自然の厳しさに、同じ山に登るものの一人として亡くなられた人たちに合掌。
涸沢小屋で10分ほど休憩したあとカールを横切り、涸沢ヒュッテ横からパノラマ新道へ入り屏風の耳に登る。昨日登った奥穂高岳を正面に眺めたが、南岳から槍ヶ岳へと連なる大パノラマもガスのために迫力半減であった。霰が降り始めたので下山を再開すると雹は雪に変わるや否や、雪は風を呼び、アッいう間に吹雪状態に巻き込まれてしまった。この間、5分とたたない時間であった。それから2日の間、北アルプス一帯は吹雪の中に包み込まれたのであった。
氷混じりの雪を強風がいやというほど身体に叩きつけてくるが、下山の足を速めるのにつれて雪は雨に変わり慶応尾根を越え、奥又白谷をそのまま下って新村橋へ出る。吊橋を横殴りの強風にバランスを崩しながら渡りきれば徳沢園はもうすぐである。冷え切った身体に一杯の月見ソバがじんわりと温かく心からホッとする。ここまで降りてくれば上高地は目と鼻の先である。一刻も早く温泉に浸かって冷えた身体を温めたいのと、帰りのバスの待合時間を計算に入れるとどうしても早足にならざるをえない。2時間かかる距離を1時間強で歩いて上高地唯一の温泉である「上高地温泉ホテル」に着き、500円を払って露天風呂に飛び込む。同行者に後で聞くと地獄のような行進だったというが湯上り後のビールの美味さはたとえようがない美味さだった。本当にいい気分だった。
1988年10月20日、記、
このようにして「山に登り、酒を飲み、温泉に入る」という「ミーハ―・クライマーズ・クラブ(MCC)」は発足したのです。