梅ケ瀬渓谷ハイキング

 

登山道には既に散ってしまった楓の葉の絨毯

 

 「関東地方で一番遅い紅葉が楽しめる梅ケ瀬渓谷 千葉県一の紅葉の名所」というキャッチフレーズにつられて12月中旬に梅ケ瀬渓谷を訪ねてみた。梅ケ瀬渓谷へのルートはJR内房線の五井駅で小湊鉄道に乗り換え養老渓谷駅で下車しハイキング開始となるが、小湊鉄道はディーゼル車が走るローカル鉄道のためSuicaは使えない。五井駅の小湊鉄道ホームへ降りる階段下に駅事務所があり、そこが切符販売所だった。駅員は「往復切符のほうが運賃が安くなるし得だよ」と1700円の一日フリー乗車券を渡してくれた。小湊鉄道は五井駅から終点の上総中野駅までの18駅を約1時間で結ぶ鉄道だが、殆どが無人駅のため車内に車掌さんが乗り込んでおり、乗り越しや下車の際の切符確認を行っていた。車掌さんは女性でのんびりした旅が充分味わえるのである。下車駅の養老渓谷駅では売店のかたが切符を確認していた。

 

 乗り換えの五井駅小湊鉄道ホームに置かれていた「房総半島どまん中 養老渓谷を歩こう」というチラシが目に止まったので手に取ってみると、「滝めぐりコース」「バンガロー村・弘文洞跡コース」「大福山・梅ケ瀬コース」の3つのハイキングコースが紹介されていた。私は『房総四季歩季』というパンフレットを持参していたがチラシには地域全体の位置関係が掲載されていて参考になった。

 

 養老渓谷駅を下車し車道を30分ほど歩くといよいよ山道に入っていく。山道は渓流に沿った自然道で沢を何回も渡り返しながら上流へと進んでいく。周りの木々は既に紅葉の時期を過ぎてしまい艶やかさはなく脱色した初冬の景色が広がる。時おりシジュウカラやヒヨドリの鳴き声が聞こえてくるほかは静寂に包まれている。それでもたまにハイカーと擦れ違う。コースの途中には度々「落石注意! この先ガケの下を通る場合 落石に充分注意して下さい」という看板が立っているところも有り、見上げてみると高さ3050mの梅ケ瀬層と呼ばれる侵食崖である。岩が砂岩や泥岩で出来ており、脆いが故に日常的に落石崩壊が起こっているのだろうと思った。

 

 50分ほど歩くと日高邸跡という場所に出た。日高邸跡というのは九州高鍋藩出身の教育者、日高誠実の隠棲の跡地という場所だが邸宅跡には楓の大木が立っている。私は、この楓の紅葉を見に来たのだが残念ながら既に時期は去り葉を落としたあとで地面は落葉した黄色の絨毯が敷き詰められているのみだった。持参した『房総四季歩季』には、梅ケ瀬渓谷の紅葉は例年12月上旬が見頃となる、と記載されているので1週間から10日は遅かったのだろうと思った。私は今では苔むし静まり返った日高邸跡で考えたが、日高誠実という人はよくこのような人里離れた山奥で過ごしていたものだというある種の凄さである。仙人という言葉はあるが、まさにそのような環境と生活であったのではなかろうかと明治時代に生きた日高誠実の人となりに思いを馳せた。

 

 以下は「日高誠実-養老渓谷」のネット検索データである。

明治の偉人日高誠実(のぶざね)は、明治19年、50歳になって陸軍省を辞し、官有地229町歩を無償で借り受け、理想郷梅ヶ瀬を建設すべくこの地(当時の地名で市原郡白鳥村西沢)に居を移しました。 そして近隣十ヵ村の人たちの協力を得て、植林・養魚・畜産等に力をつくすかたわら、梅ヶ瀬書堂を開校し、近郊在住の師弟に国漢・英数・書道・剣道等を教授し有為な人材を育成しました。 従学する人々は市原・君津・長生・山武・夷隅の五郡(当時)にわたり、数百人に達したといわれます。 しかし、深山幽谷の地形はあまりにも地の利が悪く、台風や豪雨のたびに山は崩れ、川は埋まり、根付いたばかりの梅樹も根こそぎ倒され、養魚場も荒らされました。 誠実は私財を投じては復興に精を出しましたが、志は次々についえ、大正4年近隣の人々から惜しまれながら80歳の生涯を閉じました。 梅ヶ瀬書堂跡は往事を偲ぶよすがもなく、この地に日高誠実がいたことを知る人さえ少なくなっていましたが、その志を後世に伝えるため、有志により大福山休憩所近辺に顕彰碑の建立を計画したところ、多くの人々の賛同があり、平成111123日、書堂跡、大福山展望台、養老渓谷駅前の3箇所に顕彰の碑が建立除幕されました。

 

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