ツール・ド・モンブラン

 

ツール・ド・モンブラン概要

 

 成田空港を飛び立ったエミレーツ航空のEK-319便は10時間40分後にアラブ首長国連邦のドバイ空港に着陸した。約5時間の待機時間の後、EK-89便に乗り換えスイスのジュネーブ空港へと飛んだ。イタリアからスイスに入るときにマッターホルンの上空を飛び、レ・マン湖の青緑に輝く水面に機影を写しながらEK-89便はジュネーブ空港に滑るように着陸した。

 

 ドバイ空港からジュネーブ空港に向かう途中のアルプス山脈を越えるとき、飛行機の左窓から白銀に輝くモンブランが眺められた。周りに屹立する尖峰に対して皿を伏せたような穏やかなモンブランの山頂であった。私にとって初めて出会うモンブランの姿だった。

 

モンブラン山頂

 

 ちなみにフランス語でモンは山、ブランは白を意味し、モンブランは白い山という意味である。イタリア語では白い山はモンテビアンコと呼ばれている。お菓子のモンブランは、この山の形に似せて作ったのでその名前がついている。

 

 ジュネーブ空港からは高速道路を1時間30分ほど走り、モンブランの北麓の街シャモニ―に着いた。ここが今回の山旅の出発点である。到着してまもなく街の散策に出かけた。オープンカフェには午後の紅茶を楽しむ人々がおり、洒落た感じの街の印象を受けた。シャモニーの街の規模は大きくはないが、1924年の第1回冬季オリンピックを開催したアルペンスキーの聖地として、また世界中の観光客が訪れる高級リゾート地としても有名であり、塵ひとつ落ちていない落ち着いた清潔な街だった。

 

シャモニーの街

 

 ツール・ド・モンブランと言えば自転車レースが国際的に有名であるが、今回の山旅はヨーロッパ最高峰のモンブラン4810mの北麓の街であるフランスのシャモニーを出発点とし、フランス、イタリア、スイスの国境に聳えている4000m級のモンブラン山群の雄姿を眺めながら徒歩で足元に咲く華麗な花々を眺め、反時計回りにイタリア、スイスを経由してフランスのシャモニーに戻ってくるというモンブラン山群ぐるっと一周7泊8日のサーキットトレッキングである。

 

シャモニー谷を取り巻くモンブラン山群の大展望

 

ドリュ、グランドジョラス、シャモニー針峰群

 

 ツール・ド・モンブランに出発する前日に足慣らしとモンブラン山群の概要を理解するため、シャモニ―谷の北側に位置するランデックス・ハイキングに出かけた。シャモニーのバス停から隣のプラ村までバスで行き、ロープウェイでフレジェール駅まで登り、そこからリフトに乗り換えてランデックスまで行った。2595mの岩山であるランデックスには沢山のロッククライマーが岩登りを楽しんでいる姿があった。

 

 リフトの終点から眺めたモンブラン山群は素晴らしいものであった。白銀に輝くモンブランはもちろんのこと、空に突き上げるシャモニ針峰群、奥に屏風のように立っているグランドジョラス、ドリュとヴェルト針峰群、それらの山群から流れ出ている氷河の数々がシャモニ谷を挟んで一望できるのである。素晴らしいの一言に尽きた。

 

 ランデックスから氷河湖の脇に建つラックブラン小屋まで岩屑登山道のハイキングである。沢山のハイカーが楽しんでいた。家族連れが多かったように思う。ラックブラン小屋の脇の丘で眼前に広がる大展望を眺めながらランチタイムだった。女性ガイドのベアさんがメロンを差し入れてくれた。男性ガイドのヘルビックさんともども二人には今回のトレッキングで大変お世話になった。

 

 ラックブラン小屋からロープウエイのフレジェール駅まで戻りプラ村まで降りた。プラ村にある教会から眺めたドリュが素晴らしいというので、バス停で同行者と別れて教会に行ってみた。美しい光景だったので写真を撮った。芝生に置かれたベンチに一組のカップルがいた。バス停に戻るとバスはまだ発車しておらず同行者とともにシャモニーに戻った。

 

白い山=モンブランを指さす

 

 4時間のランディックス・ハイキングは天候に恵まれ素晴らしい足慣らしとなり、ツール・ド・モンブランの成功を保証しているように感じられる一日だった。

 

 ホテルに戻り、作務衣に着替えて街に出た。スーパーでワインを選んでレジに並んでいると「日本人の方ですか?」と40代と思われる女性から声をかけられた。「そうです」と答えると、「水を探しているのですが何処にあるのでしょうか?」と質問された。作務衣を着ていたのでシャモニーに住んでいると思って声をかけてきたのだろう。レジに並んでいなければ一緒に探してやるところだが、レジの順番がきたので「ワインを買いに来たので・・・」と答えた。女性は「分かりました」と答え、奥のほうに水を探しに行った。

 

 ちなみに、スーパーで買い物をする場合、お客はマイバック持参である。小売店の場合は袋をサービスするが、スーパーの場合はない。従って買い物をしたものを素手で持ち帰えるか、レジのそばにあるマイバックを買って持ち帰らなければならないのだ。私は素手で持ち帰った。

 

 シャモニーに住む人たちや観光客は水など買わない。街の広場に行けば清水が流れ出ており、それを飲んでいる。私たちもトレッキングに出かけるときはペットボトルに清水を入れて持って行った。私が子どものころは水は買うものではなかったが、都会で生活するようになると水道水がまずいため、やむなく買って飲むようになったのを思い出した。

 

フランスからイタリア

 

フランス、イタリア国境のセーニュ峠

 

 今回の山旅は公共交通機関が走っている区間はそれらを利用した。シャモニーからバスでレ・ズーシュという場所まで行き、ロープウェイで1801mのベルビューに上り、そこがトレッキングのスタートだった。その場所は緑の草原であるアルプが広がり桃色のヤナギランや黄色のオトギリソウが咲く花園だった。

 

 快晴の下で観る景色は空気の透明感が違って視界に入るものすべてが輝いて見えた。日本の山では出会うことがない桃色のアリアリアエの大群落や赤いリンドウの大群落にも出会った。

 

 氷河は手が届きそうな近くまで迫り、融けだした水はいく筋もの白い滝となって岩壁に架かっていた。深く切れ込むU字谷の眺望も日本では無い景色だった。広々とした草原の中でブルーベリーの藍色に熟した甘酸っぱい実を口に含み空の大きさを実感した。

 

  歩いている途中でキューィ、キューィと警戒音を発しているマーモットに何回も出会った。大きな地鼠である。そのマーモットを狙った鷲が上空でホバーリングしながら急降下して狩りをしている場面も見たが、結局マーモットは餌食にならなかった。動くのも大変なように感じる物凄いメタボのマーモットにも出会ったが、草だけ食べてよく太るものだと感心した。

 

 よく耳にするアルプというのは森林帯を越えたところに拡がっている牧草地をいうのものだが、草の丈は一定となり緑の絨毯をすっぽり被せたようなっている。山の形も岩山を除いては山そのものが緑の草原になっているところもあった。日本では決して出会うことのない景色である。そこに茶や黒の牛、あるいは白の羊たちがのんびり草を食んでいた。『アルプスの少女ハイジ』の世界が目の前にあった。峠を降ると緑に囲まれたなかに木造の家屋がゆったりと存在している。このような場所に1年間くらい住んで周りの風景を描いたいと思った。

トコリ峠

 

 2120mのトリコ峠、1730mのトリュック峠、2329mのボンノム峠というように峠まで登ると今度は谷に下り、再び峠に登り返すという繰り返しの連続のなかで、間で山小屋に宿泊しながら歩を進めていき、2510mのセーニュ峠を越えるとフランスからイタリアへの入国だった。セーニュ峠に国境があった。

 

 私は今まで徒歩で国境を越えたことがなかった。パスポートの提示も入国審査もなかった。あったのは国境の印としてケルンが積まれているだけだった。あっけないフランスからイタリアへの国境越えだった。フランス側からイタリア側へ風が吹いていた。峠から望むことができるモンテビアンテは雲の中に隠されていた。氷河に削られた尖峰とU字谷へのトレイルがイタリア側のヴェ二谷へと続いていた。

 

マーモットとクモノス・バンダイソウ

 

  国境を越えたことによりトレッカーに出会った時の挨拶が、フランス語の「ボンジュール」からイタリア語の「ボンジョルノ」に変わった。しかし普段使い慣れていないのでとっさの挨拶が口に出てこず、つい日本語の「こんにちは」が出てしまった。

 

 宿泊した山小屋は完全予約制で2段ベットが多かったが、マットレス、枕、毛布または布団が用意されており、利用者はシーツ持参というものでユースホステルと同じシステムであった。日本の山小屋の最盛期のような1枚の布団に2〜3人寝るようなことは1度もなくゆったりして安眠できた。

 

ツール・ド・モンブランの前半が終了

 

荒々しいモンテビアンコ

 

 イタリア側の最初の宿泊地はクールマイユールだった。クールマイユールはイタリア・アルプス屈指のリゾート都市でモンブランの南側に位置し、モンブランを貫くトンネルによってフランス側のシャモニーにつながっている。バスに乗れば45分で到着する距離である。私たちは山道を4日間歩いてやってきた。

 

 クールマイユールへの到着はツール・ド・モンブランの前半が終了したことを意味していた。イタリアに入りモンブランはモンテビアンコと名前を変え、フランス側から見る光景とは全く違った荒々しい岩壁を見せていた。私はフランス側から見る白く穏やかな山容ではなく、イタリア側から見る猛々しい岩壁の山容のほうが好きだ。隣に牙のように聳えている奇峰はデンテ・デル・ジガンデだ。右側に雪で化粧されたグランドジョラスの岩壁も見ることができた。

 

 クールマイユールはシャモニーに比べて太陽の光が明るく感じられ肌が焦げるようだった。ホテルに荷物を置き街の散策に出た。街の中心に白く輝く高い教会が建っており、隣にはアルプス博物館とガイド協会を兼ねた建物があった。街中には観光列車が走り、イベント広場で公開討論のようなものが開催されていたが言葉が分からない。脇で暇そうにしていた警察官がいたので写真を撮らせてもらった。

 

 人気のジェラート=アイスクリーム屋に寄ってヨーグルト味のものを買った。美味かった。骨董品屋を覗いたら6人で同時に飲む酒器が売られていた。イタリア北部では伝統的な「友情の杯」というものだった。買いたいなぁと思ったが陶器製品であり、残りの行程と運ぶ苦労を考えて断念した。シャモニーで見つけたら間違いなく購入していたと思った。

 

 果物屋に寄ると親父さんが実にフレンドリーな対応をしてくれ、写真撮影を頼むと満面の笑みを見せて撮らせてくれた。楽しい親父さんだった。私は帰りに瓶ビールを買った。栓抜きを持っていなかったので店で栓を開けてもらい、ホテルに戻ってツール・ド・モンブランの前半が終了したことを祝して乾杯した。

 

街の散策は作務衣

 

 夕食は豪華だった。同室者が夕陽の写真撮影のため早めに離席したので、ほぼ二人分を食べることになった。クジャクの形をしたアルミフォイルが出てきたので開けてみると中味はスパゲッティだった。美味かった。メインはビーフステーキで焼き方をミディアムに頼んだが中は半生でとても美味しかった。更にサーモンを焼いたものがあり、デザートのアイスクリームとケーキは隣の人に任せたが、ワインをボトルで頼んであったのを飲みながら満足満足の夕食だった。

 

3月頃から痛めていた左膝関節周囲炎の症状も出ることはなく、トレッキングは快調に進んでいた。毎日ビールとワインを飲みながらのトレッキングは、これまでのパキスタン、ネパール、チベット登山とは一味も二味も違う山旅となっていた。

 

イタリアからスイスへ

 

イタリア、スイス国境のグラン・フェレ峠

 

 クールマイユールに宿泊した夜から天候が崩れた。イタリアに入って2日目の翌朝は雨が降っていた。朝食後、青空が見えたが傘や雨具を離せない歩きとなった。本来ならばモンテビアンコやグランドジョラスの素晴らしい展望の尾根歩きとなる予定だったが天候悪化は人間の手ではどうしようもなかった。

 

 イタリアに入って3日目の天候も崩れた。周囲の山々も姿を見せなかった。前半が快晴続きだったせいか黙々と歩くのが余計に空しかった。

 

 イタリアに入って4日目はイタリアからスイスへの国境にある2537mのグラン・フェレ峠越えが待っていた。朝起きると小雨が降っていた。雨具を着込み出発した。やがて小雨は霰に変わった。吹き付ける風も一層強くなり、気温も低下してきて体温が低くなるのが分かった。傘をさしていられる状態ではなかった。トレイル脇には雪がうっすら積もっていた。そのなかを黙々と峠を目指して歩を進めた。

 

 到着したグラン・フェレ峠にも国境の印としてケルンが積まれていた。霰がたたきつけ風が強すぎ寒いので記念写真を写したのみで国境を越えた。国境越えの余韻に浸ることなくスイス側のフェレ谷へと下っていった。

 

 久しぶりに太陽が顔を出したシャンぺ湖でゆったり昼食を摂った。シャンぺ湖は観光地であり湖畔にはボートがたくさん浮かんでいたが乗っている人は見かけなかった。シャンぺ湖からアルペット小屋までの水路脇の登りは気持ちよかった。ちょっとした芝生の広場におばあさん、おかあさん、子ども2人でピクニックに来て、太陽のもとでゆったりしながら一緒にランチを楽しんでいるほのぼのとした姿があった。

 

スイスのシャンぺ湖とチロルハット

 

 私は今回の山旅でチロルハットを被っている。私がNTTを6年前に退職する時にお世話になったビルの受付嬢にお礼の意味を込めて葉書大の花の絵を描いて贈った。その返礼と退職祝いに頂いた帽子である。日本の山ではあまり被らないが、ヨーロッパアルプスを歩くにあたって、そのチロルハットにシャモニーで買ったピンバッジを付けたのを被って山旅を楽しんでいる。

 

 山小屋の食事は、朝食はパンにチーズ、それに紅茶かコーヒーという簡単なもので、昼食はサンドイッチのパックランチが多く、リンゴ、チョコレート、水などがついた。夕食はスープの次にメイン、最後にデザートというパターンが多く、メインにはジャガイモの巨大オムレツ、鹿肉の煮込み、チーズフォンデュなど山小屋の得意料理が出てくることが多かった。いずれもワインを飲みながら美味しく食べられ満足満足だった。帰国後に体重を計ると出国前よりも増えていた。

 

スイスから再びフランスへ

 

スイス、フランス国境のバルム峠

 

 スイスからフランスへ戻る前日に宿泊した山小屋はフォルクラ峠に建つマウンテンヒュッテだった。ホテルのような山小屋だった。夕食時にはいつもは白ワインを飲んでいたが、その山小屋はワインの値段が高かったため生ビールを飲んだ。メイン料理も鳥の煮込み、野菜の炒め物、ポテトチップだったのでビールに合っていたようだった。そのせいか翌朝はトレッキング始まっていらい最高の体調だった。ホテルから望む山々は夜に雪が降ったようで白く薄化粧をしていた。

 

 トレイル脇の針葉樹の根元に葉を積み重ねた蟻塚があった。蟻塚の表面には無数の蟻が蠢いていた。蟻塚の中がどのようになっているのか棒を入れて塚を崩してみた。蟻塚の中は白い卵と右往左往する蟻が無数にいた。その中に右手を入れてみた。あっという間に手のひらは蟻だらけになったが、蟻は刺さなかった。ガイドのベアさんは「クレイジー!」と叫んだ。手に乗った蟻を振り払ったが、手に着いた蟻酸の強烈な臭いは暫く消えなかった。後で考えると毒針を持った蟻だったら相当やばかったと思った。

 

蟻塚を説明する女性ガイドのベアさん

 

 トレイル脇の赤いラズベリーを目にとめ口に含むと甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。谷沿いを登っていくとマウンテンバイクに度々出会う。トレイルランにせよマウンテンバイクにせよヨーロッパの人たちは自然の中で遊ぶのが日本人に比べて好きなようだ。

 

スイスからフランスの国境には2191mのバルム峠がある。峠には一軒の山小屋が建っている。その山小屋を目指して谷を遡っていくと、山小屋の左側に見覚えのある丸い雪の山頂が見えた。間違いなくモンブランの山頂だった。ドリュの特徴ある尖峰も見えた。いよいよフランスだと思うと胸が熱く高鳴った。

 

 バルム峠に達すると左側のモンブラン山群、シャモニー針峰群、ドリュ、グランモンテ針峰群の峰々、右側のランデックスから赤い針峰群が深いシャモニ―谷を挟んで一望のもとに見渡せた。素晴らしい景色だった。個人の記念撮影とともに今回の山旅で初めての集合写真を撮影した。シャモニ―谷から吹き上げてくる風が強かった。私たちはシャモニ―谷に向かって降りだした。とうとうフランスに戻ってきたのだ。

 

マウンテンバイクに度々出会った

 

 私たちは冬には大スキー場となるアルプの拡がる草原に咲く花々を見ながら気持ちよく降っていく。このなだらかなスキー場で滑ったら素晴らしいシュプールが描けるだろう。私たちの山旅も最後の大詰めを迎え、まもなく7泊8日のツール・ド・モンブランが終了するのだ。

 

ツール・ド・モンブランを終えて

 

モンタベール展望台でガイドのベアさんと

 

 シャモニーのポアン・イザベル・ホテルに戻った時、身体の節々の疲れとともに様々な感情が沸き上がってきた。長いようで短かった7泊8日のツール・ド・モンブランの花の山旅は終わった。

 

 ザックを部屋に置きシャワーを浴びたあと作務衣に着替えて街に出た。妻や娘や息子、群馬の家族、山仲間、水墨画の仲間にも土産を選んで買った。スーパーにも出かけロゼワインを買ってホテルに戻った。

 

 フロントで栓を開けて欲しいと頼むと対応してくれたソムリエが「このワインのことを知っているか?」と聞いてきた。「知らない」と答えると、「これはとてもいいワインで、フランスとスペインの境で作られているものだ」といいつつ栓を開けてくれた。ワイングラスを2つ借用し部屋に戻って同宿者と無事に山旅が終了したことを祝して乾杯した。美味いワインだったので打ち上げ会に出かける前に全て飲んでしまった。 

 

 翌日、ジュネーブ空港に向かう前に3842mのエギーユ・デュ・ミディ展望台に上るためにロープウェイ駅に行った。7時乗車の団体予約をしていたが1時間半待ったが風が強くロープウェイは運行されることはなかった。

 

 予定を変更して登山列車に乗りメール・ドゥ・グラス氷河と奥に聳えるグランドジョラスを観に行った。展望台に立つと谷間から流れ出す氷河の流れが手に取るように分かった。グランドジョラスの山頂は雲に隠れて見えなかったが氷雪に覆われた北壁は見ることができた。厳冬期の北壁に日本人として初めて臨んだのは小西政継率いる6人の精鋭だった。大寒波の襲来を受け苦闘の11日間の後に登頂に成功するが6人中4人が手足の指を凍傷で失った。その記録は小西政継著の『グランドジョラス北壁』に詳しい。後に一緒に登った植村直己も小西政継も別の山で遭難死している。

 

氷雪を纏うグランドジョラス北壁

 

 これで今回の山旅のスケジュールは全て終わった。私はこれまでペルー、タンザニア、パキスタン、ネパール、チベットの山旅を経験してきたが、今回の山旅はそれらの山旅とは全く違った体験だった。どちらが良いか悪いかという比較ではなく、今回は南ヨーロッパの明るく近代的な山旅だったと感じた。私は今後、マッターホルンが聳えるツェルマット、アルプス画家と呼ばれたセガンティーニの美術館があるサン・モリッツを訪ねたいと思っている。

 

 シャモニーからジュネーブ空港に向かい出国手続きの後、EK-90でドバイ空港に飛び、3時間のトランジットの後、EK-318に乗り継ぎ成田空港に帰国した。空港には妻が出迎えており、妻の笑顔と2週間ぶりの再会だった。妻への土産はエーデルワイスの花が胸とポケットに刺繍されているエプロンとスイスチョコレートだった。