チベットへの山旅

 

ロンボク谷から望むチョモランマ峰8848m

 

 旅の目的

20161014日〜25日までの12日間の日程でチベットの山旅に出かけました。私にとって今回の山旅の目的は2つありました。

 

1つ目は、世界で標高8000mを超える山は14座ありますが、殆どはネパールとパキスタンにあります。しかし、ひとつだけチベット領内にも8000m峰があります。その山はネパールでは「ゴサインタン=神の座」と呼ばれ、チベットでは「シシャパンマ=草地のある山」と呼ばれています。その山を直接この目で見ることが1つ目の目的でした。

 

2つ目は、1924年のイギリス第3次エベレスト登山隊に参加し、世界の最高峰8848mの山頂を目指してパートナーのアービンと共に出発したマロリーは、そのまま帰ってきませんでした。それ以降、1953年にイギリス隊のヒラリーとテンジンが初登頂するまで、果たしてマロリーとアービンは登頂したのかどうか議論が続きました。その2人が登ったルートは北側のチベット側からのものであり、それをベースキャンプ地から確認することが2つ目の目的でした。

 

今回の山旅は、東京から9名、大阪から3名、合わせて12名の参加者に添乗員が1名、現地ガイドが2名、ドライバーが2名というものでした。私はチベット旅行をするのは初めてでした。旅のなかで山とは別に現在のチベット人の置かれている環境に深く感じざるを得ないことがたくさんありました。

 

 チベットという地域

チベットは1956年の「農奴解放」という名目の中国人民解放軍の侵攻以来60年間、チベット自治区という形で中国に編入されていますが、チベット人が住んでいた地域は現在の自治区以外に青海省、雲南省、甘粛省、四川省にも広がっており、人口600万人のうち約3分の1が自治区に住んでいるといわれています。

 

青い空に浮かぶ真っ白な雲と放牧されているヤク

 

チベット人のガイドであるドルジさん(33)は、日本が台湾を植民地支配していた当時と同じことを中国中央政府は現在チベット人に対して行っている、と話しました。どういうことかというと、インフラである道路や鉄道を整備することによって輸送を確保し、中国国旗である五星旗を強制的に掲揚させ、学校ではチベット語での教育をせずに中国語で授業をし、就職するにしてもチベット語では就職できず中国語が必要というもので、その行先はチベット民族の消滅です。

 

それは、戦前、日本が台湾や朝鮮を植民地にし、日の丸を強制掲揚させ、日本語教育を推進していたことと同じだったのです。日本では過去の歴史のこととして考えもしない人が私を含めて多いと思われますが、チベットでは現実問題だったのです。ドルジさんは私たち日本人を批判しようとして話したことではないのですが、一つの民族が消滅しようとしているという言葉は重く響きました。

 

 シシャパンマ・ベースキャンプ地へ

以前、篠田節子さんの『ゴサインタン』:文春文庫という小説を読んだとき、その表紙は鋭く尖った氷雪を纏った岩山に満月が輝いているというものでした。「神の座」というサブタイトルのついた山が今回訪れたシシャパンマ峰です。

 

ネパール側では登山のベースキャンプ地に行くには上ったり下ったり長いキャラバンを必要としますが、チベット側ではチベット高原台地が平らで道路が整備しているため車に乗車したままベースキャンプ地まで行くことができます。

 

私たちを乗せた専用車はホテルを6時20分に出発し、西へ西へと走り、東の空が明るくなる2時間後にベースキャンプ地に到着しました。まさにその時、シシャパンマ峰の山頂に朝日が差し出したのです。気温は-8.4。風は吹いていないものの手袋をはめた指先はジンジン痺れるように痛く足先も痛くなります。川の流れは凍てつき割ってみると1.5cmほどの厚さでした。

 

シシャパンマ・ベースキャンプ地

 

ベースキャンプ地(標高5000m)の左側に位置するシシャパンマ峰から右側のカンペンチン峰まで続く見事な雪氷に覆われた白き峰々が連続する景色は絶景でした。ベースキャンプ地内の石垣の脇には2張りのテントが確認でき、その傍らをチベット犬のジョンが見回るように歩き回っていました。

 

「シシャパンマ=草地のある山」と呼ばれているとのことでしたが、ベースキャンプ地は茫漠としており草地は見当たらず、放牧できるような場所はもっと標高の下がったところのようでした。この山はネパールの首都であるカトマンズからも遠く望むことが出来るとのことですが、ベースキャンプ地から雲ひとつない快晴の下で直接見るシシャパンマ峰は朝日に輝き神々しく見えました。これで今回の山旅の一つ目の目的が達成されました。

 

チョモランマ・ベースキャンプ地へ

世界の最高峰の山がチベット語ではチョモランマ、ネパール語ではサガルマータ、通称は誰でも知っているエベレストです。今回の山旅の2つ目の目的はイギリスの第3次エベレスト隊に参加したマロリーとアービンの北面登頂ルートの確認にありました。

 

やはり昨年(2015)、ネパールのエベレスト街道を歩いてゴーキョ・ピーク(5483m)やカラ・パタール(5545m)に登った時に、実に堂々とした黒く輝く三角形の山頂を望み、あれが世界の最高峰かと感じ入ったものでした。

 

ネパール側から望むサガルマータ峰は前山が邪魔をして裾野は見えず、全体の上半分しか見えませんが、チベット側から望むチョモランマ峰はロンボク氷河上に雄大に切り立っています。断然、チベット側から見たほうが山の素晴らしさが実感できると思います。

 

ベースキャンプ地の向こうにロンボク氷河の舌端が望め、その先に雄大なチョモランマ峰が聳え立ち、頂上三角形の左側直下のサードステップと呼ばれている場所から強風のための雪煙が左側に流れていました。1999年にマロリーの遺体が発見された北面スノーテラス(標高8160m)も確認できました。

 

チョモランマ・ベースキャンプ地

 

当日は雲ひとつない快晴のためチョモランマ峰の全てが見えました。マロリーとアービンが登って行ったであろう北東陵もはっきり望むことができ、コース上では登山用具であったアイスアックスや酸素ボンベが発見されており、同行のサポート隊員が2人の姿を見たというセカンドステップもはっきり確認できました。

 

発見されたマロリーの遺体と同時に、ゴーグル、マッチ、時計、手袋、メモなど様々な遺品が残っていましたが、山頂に登頂したかを確認できるカメラは発見されませんでした。このことによってエベレストの初登頂者は謎のままですが、一応、1953年にイギリス隊のヒラリーとテンジンが初登頂したことになっています。もし、エベレストが話すことができたならば初登頂者が誰であったのかを語ってくれますが、それは一つの話題として置いておき、私は白く輝くチョモランマ峰に深く魅入っていました。マロニーの遺体発見についての詳細は『それでも謎は残った』:文藝春秋に調査隊のレポートとして詳しく書かれています。今回の山旅の2つ目の目的であったマロリーとアービンの登頂ルートも、絶好の快晴の下で十分すぎるほどに確認でき満足満足でした。

 

チョモランマBC近くのロンボク村ロッジでは欧米人の姿も多く、シシャパンマBCやチョ・オユーBCとは全く違い、さすが世界の最高峰の観光地という感じを受けました。彼らは標高4900mでも普通にビールを飲んでいました。ただ、ロンボク・テント村からベースキャンプ地までのシャトルバスが運休になっており、お土産屋が閉店されていたのは残念でした。チベットの人たちの特徴的な手作りである石のブレスレッドやネックレスはお土産にぴったりだと思います。