紅葉を眺めに蕎麦粒山へ その2
蕎麦粒山のブナも黄葉に染まった
11月1日 金曜日 晴れのち曇り 2日目
3時30分に小用のために外に出て空を見あげると、満天の星空のなかにサソリ座が見えた。今日も晴れるだろう。外壁に吊るしてある寒暖計は7℃で、想ったよりも高い気温だった。再びシュラフ(寝袋)にもぐりこみ、ひと寝入りするとオスジカのメスを呼ぶ切ない声に起こされた。
一杯水の水場はチョロチョロだった
朝食を済ませてお世話になった避難小屋を出発すると、ほどなく一杯水の水場に着いた。水場は上の方からホースで引き込んでいるが、流れはチョロチョロだった。一杯水からの縦走路はとても歩きやすかった。周りの紅葉を眺めながら、落ち葉の上をサワサワと進んでいった。
紅葉は真っ盛りだった
ブナの黄葉に茶色が混じりだし、すでに葉を落とした木もあるので、輝くような黄葉になることなく、お終いになるのだろうか。たくさん散ったブナの葉を踏みしめて縦走路を歩いていく。右側には木の枝越しに富士山が均整の取れた形で裾野まで現れていた。すっきりとした素晴らしい姿だった。
「通行注意!道セマイ!」の標識は反対側にも付けたほうがいい
仙元峠にさしかかり、尾根道は高度を上げていくので、楽をしようとトラバース道(巻き道)を進むと、とんでもない悪路で失敗だった。右側は下が見えない谷底で桟道は腐って穴が空き、道幅が30cmに満たない場所も度々あった。滑落しないように慎重に歩き、尾根道からの道と合流する手前に「通行注意!道セマイ!」の標識があったが、反対側にも設置すべきだろう。巻き道は踏み跡もほとんどなく、桟道の付け替えもしないだろうから、やがて「通行止め」で封鎖されるだろう。
蕎麦粒山の山頂は岩が折り重なっていた
蕎麦粒山(1472m)の手前で富士山が素晴らしく見える場所があった。まだ富士山頂には初雪が降っていないけれど、どこの山に登っても私が最初に確認するのは富士山だ。登りついた蕎麦粒山の山頂は岩が折り重なっていた。小さな手作りの山名表示板が木に着けられていた。東京都が立てた道標には『東京都多摩環境事務所東京レンジャー』が今年4月に付けた「鳥屋戸尾根は悪路につき通行注意!死亡事故多発!」が鳥屋戸尾根方向に吊るされていた。奥多摩は都内からも近く登山者も多いのだが、山はいずれも急峻で油断のならない場所が多々あるのだ。
水が溜まったイノシシのヌタ場
蕎麦粒山からは幅が10mほどの防火帯のなかを歩いていくので、見通しもよく今までと比べると楽だった。水が溜まったイノシシのヌタ場もあった。イノシシは身体に着いた寄生虫などを洗い落とすために、定期的に泥んこになって身体を洗うのである。スズメやコジュケイなどの野鳥も砂あびをするが、理由は同じで身体に着いた寄生虫を落とし清潔にするためである。
クマたちは怒っている
日向沢ノ峰で眺めた富士山は7合目まで雲に隠されていた。まもなく雲のなかに姿を隠すだろう。日向沢ノ峰から降りた場所に棒ノ折山への分岐があった。その分岐板はクマに壊され齧られた跡があった。クマたちは自分たちのテリトリーが人間たちに荒らされるので怒っているのだろう。
幅10mほどの防火帯は歩きやすかった
川苔山分岐に着いたので、1度登った山頂だが再度訪れてみた。途中で出会った50歳代と想われる夫婦連れに、今年の紅葉のことを色々尋ねられた。知っていることを話すと、次に避難小屋への泊まり方を尋ねられた。ひと通りの説明をすると、「来年には挑戦してみましょう」とのことだった。元気のいいふたりだった。
川苔山山頂に寄ってみた
川苔山(1363m)の広く平らな山頂は、冷たい風が吹き抜けていた。曇り空の山頂にノースフェイスのジャンパーを着た30代と想われるひとりの男性が寒々とベンチに座っていた。セルフタイマーで写真を撮ったあと、富士山が姿を現すのを待っていた男性と話した。私が「朝のうちは晴れていて富士山もよく見えたけれど、天気は下り坂で雲が厚くなって富士山を隠したので、これから再び富士山が姿を現すことはないと想うよ」と言うと、男性は納得したようで帰り支度を始めた。
通行止めが奥多摩エリアで多発している
川苔山周辺もそうなのだが、2019年10月に襲った大型台風による被害で、土砂崩れによる通行止めが奥多摩エリアで多発しており、もはや使用されなくなった林道の復旧見込みはなく、それに繋がる登山道も通行止めが多数あるのが現状であり、登山計画を立てるときに事前確認は必須なのだ。
大根ノ山神様まで降りた
川苔山から長いヒノキやスギの植林地を歩いて大根ノ山神に降りた。4年前に歩いた山道だったが、植林のなかの単調な暗い山道は実に長く感じた。山神様には2本の清酒がお供えされていたが、いずれも栓が抜かれていた。傍に長ベンチが2つ置かれており、短いほうのベンチに座ってしばらく休憩した。
苔むした物言わぬ石仏
ベンチの横に苔むした物言わぬ石仏が置かれていた。石仏は何年に造られたのか文字は読めず、顔も削られていた。明治初期の廃仏毀釈運動により破壊されたものであろう。1868年(明治元年)明治新政府は、江戸時代まで続いていた神道と仏教が融合する神仏習合から神道を国家神道とするため「神仏分離令」を発令した。発令のあとに起った廃仏毀釈運動は、膨大な仏教施設の破壊をもたらしたが、単に仏教施設の破壊を超えて日本人の精神を破壊したのだった。全国的に起こった廃仏毀釈運動は、どこかの集団が村々を回って仏教関連施設を破壊したのではなく、その村に住んでいた人たちの手によって引き起こされたということが、マインドコントロールの恐ろしさをものがたっていると思う。その後、仏教は急速に人びとの精神の支えから衰退し、葬式仏教と揶揄されるまでに落ちぶれていったのだった。チベットなどを旅すると、現在でも仏教は人びとの精神の支えとなっている。
『奥多摩の風 はとのす』
6時過ぎに避難小屋を出発し、約8時間後に足も疲れて鳩ノ巣駅に降りた。その後は駅から歩いて3分の『鶴の湯温泉源泉・奥多摩の風
はとのす』の日帰り温泉に向かった。鶴の湯温泉の歴史は古く、開湯は今から700年も前の南北朝時代の延文年間(1356年〜1361年)とされているが、1957年に多摩川をせき止めて完成した小河内ダム(奥多摩湖)によって小河内村、丹波村、小菅村を合わせて945世帯が湖底に沈んだのに伴い、湯治場としての鶴の湯も姿を消してしまった。現在は源泉をポンプによって汲みだし、タンクローリーで要望のある施設に配湯し、それを暖めなおしているのである。
『奥多摩の風 はとのす』の浴室
フロントで日帰り温泉料金の1150円を支払って男湯に向かうと誰もいなかった。私ひとりの貸切り状態だった。内湯と露天風呂に40分ほどつかり山旅の汗を流した。ゆったりできて、とてもいい湯だった。露天風呂から眼下に鳩ノ巣渓谷を散歩している人が見えたが、紅葉はまだ始まっていなかった。
喫茶店『山鳩』の店内
湯あがりのランチは駅前から歩いて1分の『山鳩』という喫茶店に入った。私が店に入ったのは15時を過ぎていたので、お客は誰もいなかった。「お好きな席にどうぞ」と言われたので、窓際のテラス席に座った。席には双眼鏡が置かれており、すぐそばに大きなサクラの木があったので、やってくる野鳥やリスなどを見るのだろう。私が頼んだのはサンドイッチ、そばサラダ、さらに生ビールと地酒澤乃井の1合だった。食べているなかで、やはり酒が足りなくなったので、300mlの冷酒を追加した。会計は3870円だった。食べたなかでは、そばサラダが美味かった。
そばサラダとサンドイッチ
店を出る時に聞いたのだが、窓から見えていたのはヤマザクラだという。花が咲くころに訪れたならば、窓を額縁とした清楚なヤマザクラの絵に出会うだろう。店を経営しているのは、色白で髭面の30代の優しそうなイケメンと、可愛らしい連れ合い(妻)だった。想いもかけない清潔でステキなレストランだったので、また訪れたいと思った。
今回の1泊2日の登山活動データ
今回の山旅で奥多摩の鳩ノ巣から山梨県の瑞牆山までの長い縦走路を歩いたことになった。長い縦走では山小屋にお世話になったり、テントを担いて歩いたり、避難小屋を利用したりと、様々なパターンで山旅をしたことになったが、それぞれの山旅は私の心のなかに温泉や地酒の味とともに楽しかった記憶として残っている。私も来週には76歳となる。身体の柔軟性がなくなり、動きがどんくさくなった。まだ山道を昭文社の登山地図のコースタイムで歩けるのだが、若いころと比べると歩くスピードも遅くなったのを自覚している。これから同じような山旅を何回出来るだろうか。