緑の森にヤマツツジが朱の色を添えていた

 

遅咲きのヤマツツジが朱の色を添えていた

 

 6月19日 木曜日 晴れのち曇り

関東地方も6月初旬に梅雨入りしたのだが、それ以降雨が降っておらず、連日30℃を越える日が続いていた。今回のハイキングは、この暑さから逃れるために、富士山近くの山をふたつ歩くことにしたのだった。登る山は精進湖の北側にある精進山(しょうじんやま・1409m)と三方分山(さんぽうぶんざん・1422m)を選び、緑に覆われた落葉広葉樹のなかを歩き、富士山をまぢかに見ることが目的だった。河口湖駅で降りて4番バス乗り場から、平日のみ3本運行している新富士駅行きの路線バスに乗った。バスの運転手も大変である。ワンマンカーのため各バス停案内はテープで流しているが、運転手はもっぱら英語で乗客対応である。河口湖駅前はインバウンドの外国人で溢れかえり、日本人は数えるほどだった。異常事態である。

 

淡々と急な山道を登っていった

 

精進湖西側の山田屋旅館前でバスを降りたのは9時41分だった。子抱富士のビューポイントと呼ばれているところだが、富士山は雲のなかに入って残念ながら見えない。スマホのYAMAPアプリを呼び出し、GPSを設定して精進峠に向かって歩き出した。最初は幅3mほどの砂利道である。私の歩く前をニホンジカのメスが走っていった。尻のハート型の白さが目についた。

 

大きな堰堤を乗り越した

 

植林された森のなかに入っていくのでザックにクマ鈴をつけ、トレッキングボールを出した。最初の登りだしこそ分かりづらかったが、登っていく過程は要所要所に赤テープがついており、幅50cmほどの山道はよく踏まれ、はっきりしていたので迷うことはなかった。夏鳥としてやってきたツツドリの鳴き声が遠くから聞こえてきていた。大きな『屋敷川第1堰堤』に出会った。昭和60年3月に着工し、平成2年3月に竣工したという銘板がついていた。堰堤を乗り越しロープ伝いに山道へ降りていった。急登の途中で単独の男性ハイカーと出会った。今日初めての出会いで、周りからはハルゼミのシャカシャカという鳴き声がひっきりなしに耳に届いていた。ハルゼミはヒグラシのような透き通った翅をしており、名前が示すように夏に鳴くのではなく、4月〜6月ころの春に鳴くセミである。

 

緑の森のなかで遅咲きのヤマツツジが朱の色を添えていた

 

登り始めてから30分経つと、スギ林を抜けてブナやクヌギなどの落葉広葉樹の森のなかへと入っていった。木々の葉は太陽に照らされ明るく輝いていた。その葉が太陽の日差しから私の体を守ってくれた。遅咲きのヤマツツジの朱色が、緑一色のなかでパッと明るく色を添えていた。山道を登るに伴い額から汗が滝のように流れ落ちていた。網目のベストを着ていたが、それを脱いで半袖Tシャツになった。Tシャツも汗でぐっしょり濡れていた。

 

精進峠に着いた

 

精進湖畔から登りだして、1時間後にようやく精進峠1259mに着いた。標高を350mほど上げたことになった峠は、木々に囲まれており見通しはなかった。登り口から休憩していなかったので、ここで初めての休憩をとった。忘れ物のブルーの汗拭きタオルが、だらしなく垂れ下がっていた。

 

 

精進湖を見おろせる展望台があった

 

少しの休憩後に精進峠を右に折れて登ったところに、精進湖を見おろせる展望台があった。富士山は残念ながら5合目から上が雲のなかだったが、小さな精進湖が眼下に見えた。精進湖を眺めたあとゆったりとした尾根道で徐々に標高を上げていった。精進山までの半分ほど歩いたところから岩がゴツゴツ出てきて、岩角や木の根を掴みながらの急な登りとなっていった。

 

精進山に着いた

 

精進峠から40分ほどで精進山に着いた。頂上は木々に囲まれていたために見晴らしはなかったが、3等3角点が打たれ、手作りの山名表示板が立ち木に吊り下げられていた。中央の岩の上に小さな木の祠が置かれていたので、登頂記念写真を撮り休憩していると、夫婦と思われる50代くらいのカップルがやってきて、私が登ってきた精進峠の方に降りていった。今日の2人目、3人目に出会った人だった。今回登っている山は低山でも有名な山ではないので、歩く人も少なく静かな山旅が出来るのである。

 

気持ちのいい散歩道

 

休憩を済ませて歩き出すと精進山から三方分山まではほぼ水平の尾根歩きで、ハルゼミの声を聴きながら木漏れ日のなかを歩いた。とても気持ちのいい散歩道だった。山道の両側にはヤマツツジやミツバツツジが生えており、花が咲いた頃は見事なものであったろうと想像した。数珠つなぎの白い花が咲くアセビの木も見られたし、足元には紫の花を咲かせるミヤマトリカブトがたくさん生えていた。ホウノキが生えていたが白く大きな花は葉に隠れて見えなかった。

 

三方分山に着いた

 

11時45分に2つ目の山頂である三方分山に着いた。精進湖畔から歩き出して約2時間がたっていた。三方分山という変わった名前は、この山の頂上が精進村、古関村、八坂村の3つの村の境界線ということから付いたとのことだ。ひとりの男性登山者が精進湖を眺めながら弁当を広げていた。ここでもハルゼミの大合唱は、ひっきりなしにシヤワーのように降り注いでいた。頂上は周りに木が生い茂り、精進湖方向だけが若干見通しが効く程度だった。三方分山は『山梨100名山』にあげられており、平らな山頂には2019年3月に甲府市が立てた「甲府開府500年記念事業」などの標柱を含めて6個の山名標柱が立ててあり誠に賑やかな頂上だった。

 

阿難坂(女坂)に着いた

 

三方分山の山頂でクリームパンや柿ピーなどを食べ、少し休んだあと滑落や転倒に注意しながら中道往還阿難坂(女坂)1205mまで降りていった。峠には富士河口湖町教育委員会名の説明板が立っていた。説明板を読むと、「中道往還は甲府市右左口町から富士河口湖町精進の区間において御坂山地をふたつの峠で超える。甲府盆地側のひとつが釈葉坂(右左口峠)で、もうひとつの精進側の峠が阿難坂(女坂)であり、阿難坂の難という字が示すように、中道往還のなかでも難所のひとつである。峠と坂は同じ意味を持ち、坂という名前のものは古い道に多く見られる」とあった。女坂という別名は、「昔、身重な女性が道中で出産後、母子ともに亡くなり、この場所に埋葬され供養のため石地蔵を建て、この石地蔵が女石と名付けられたことから女坂と呼ばれるようになった」とのことだ。この峠を越える時に急に産気づいたのだろうか。

 

峠には頭のない3つの石仏と2つの石碑が置かれていた

 

峠には頭のない3つの石仏と2つの石碑が置かれていた。頭のない石仏は明治維新後の廃仏毀釈の時に切られたものであろう。石碑には「生魚の二十里走る郭公鳥」という句が刻まれており、この中道往還が人だけではなく駿河から甲斐へと海産物を運んでいたことが分かるのだった。峠を右に折れて精進湖に向かって3kmの道を降っていった。

 

山道の両脇には石垣が随所に見られた

 

阿難坂から精進湖に向かう山道は、これまでとは違い道幅が広くなり、歩きやすくなった。江戸時代から昭和の初めまで車が発達する以前は河口湖からこの道を通って甲府へと抜ける街道であり、その頃の名残りとして山道の両脇に石垣が随所に見られるのである。私は淡々と精進湖に向かって降りていった。精進村まで降りる途中に水場が1か所あり、カジカガエルの鳴き声を聴きながら渇いた喉を潤したのだった。

 

信長や家康も歩いたかつての中道往還

 

中道往還は、駿河と甲斐を結ぶ3本の道であった若彦路、富士川街道の中間に位置する道のため「中道往還」と呼ばれたという。天正10年(1582年)4月3日、中道往還から甲斐に攻め入った織田信長は、武田の残党を匿ったとして恵林寺に150数人を押し込め、火を放って焼き殺し、高僧であった快川紹喜国師は「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉を残して炎のなかで亡くなったと記録に残る。恵林寺の焼き打ちから2か月後、信長本人が本能寺で焼き打ちに遭い自刃して果てた。

 

立派な藁葺き屋根の神社だった

 

精進湖まで降りていく途中の精進村に諏訪神社があった。諏訪神社から精進バス停までは目と鼻の先なので寄ってみることにした。鳥居をくぐり境内に入ると、大きく立派な藁葺き屋根の本殿に驚いた。説明板によると、神社の本殿は江戸時代末期の天保14年(1843年)の再建とのことだが、こんな大きな藁葺き屋根の神社を見た記憶がなかった。境内に国の天然記念物に指定されている大杉が立っていた。樹高40mの大杉は見上げれば首が痛くなる高さだった。

 

精進湖は波もなく穏やかで

 

精進バス停に着いたのは13時30分で、予定通りだった。目の前の精進湖に降りていくと、湖は波もなく穏やかで釣り人がボートからのんびりと釣り糸をたれていた。富士山は左側の山陰に隠れており、裾野が少し見えるだけだった。天空を覆っていた雲も飛び、青空が出ていた。真っ白な入道雲は、もくもくと勢力を拡げていた。無事に下山したことを家族LINEで連絡した。13時47分の路線バスで河口湖駅に向かった。

 

今回の登山データ

 

河口湖駅14時50分発の高速バスに乗り、新宿バスターミナルに16時30分に着いた。高速バスの乗客は10数人で空いていたが、私の外は全て外国人だった。今回の山旅の目的であった富士山を眺めることは出来なかったが、天候ばかりは仕方がないので富士山は逃げることはないので次回の楽しみということにした。車内では缶ビールとワンカップの地酒・富士桜を飲んだあとは昼寝だった。今回も満足満足の山旅だった。

 

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