雪雪雪、大雪の志賀高原スキー
焼額山第1ゴンドラ山頂駅
志賀高原スキーに3泊4日で出かけた。天気予報では3日連続して雪マークがついていた。今回の参加者は5人だった。毎年、ミーハー・スキーヤーズ・クラブ(MSC)のスキーツアーとして、1月下旬か2月中旬あたりで志賀高原スキー場に出かけているのである。今回のメンバーは長老のジェントルマン佐藤(81歳)、MSCの設立者で中学生の時から毎年滑っており、スキー歴は55年を超えるポパイ吉原(69歳)、最近、心臓手術をしながらも徐々に復活を目指しているチビッコ小沢(57歳)、群馬県の名物のひとつに焼きまんじゅうがある。焼きまんじゅう山口(56歳)は群馬県出身。今回のメンバーの中ではスキーが一番巧く、群馬の地の利を活かして群馬県内やや長野の各スキー場を荒らしまくっているスペシャリストである。それにエイトマン岩井である。
定宿のホリデープラザ志賀高原
1日目 2月20日 日曜日 マイナス9度
八王子駅北口で8時半に待ち合わせて車にピックアップしてもらい、志賀高原に着いたのは12時だった。ホテルは定宿にしているホリデープラザ志賀高原で、高天ヶ原ゲレンデの真ん前に位置している。ホリデープラザホテルは高校生の修学旅行宿として利用されているのだが、蔓延防止措置の適応によって予約は3月に変更になっているとのことだった。
高天ヶ原ゲレンデ上部
早速スキーウェアに着替えて13時からスタートする。チケット売り場でシニアの3日券を買うと14500円だった。まず高天ヶ原ゲレンデを滑り、タンネの森を通過して一の瀬ゲレンデから焼額山ゲレンデへ向かう。焼額山ゲレンデは第2ゴンドラのコースを滑る。雪が降り続いており視界はほとんどない。10mほどの視界だ。足元も見えず怖い。焼額山ゲレンデを2本滑ったあと一ノ瀬ゲレンデに戻り、寺子屋スキー場へ向かおうとするが、寺子屋スキー場が封鎖されていた。仕方ないので高天ヶ原ゲレンデに戻り、16時で1日目のスキーは終了した。明日明後日のスキーが思いやられる大雪の状態だった。
焼額山第2ゴンドラからの眺め
2日目 2月21日 月曜日 大雪 マイナス15度
あいかわらず雪が降り続いていた。北海道から北陸地方にかけての日本海側は大雪注意報が出され、北海道では風速41mを記録する爆弾低気圧の通過に伴って大雪に見舞われており飛行機も列車も止まっていた。その低気圧の影響を受けて長野県北部の志賀高原でも大雪が降り続いていた。リフトやゴンドラが動いているところは僅かばかりだった。2日目は沈殿の日となった。
ホテルの洞窟風呂
志賀高原には温泉が多く、ゲレンデガイドブックの温泉マークを見てみると、熊の湯温泉、ほたる温泉、石の湯温泉、木戸池温泉、幕岩温泉、志賀山温泉、発哺温泉、高天ヶ原温泉と数ある温泉のなかで、宿泊しているホリデープラザ志賀高原は高天ヶ原温泉を引き込んでいる。9時半から10時半の清掃時間の1時間を除いて、いつでも温泉に入れる形になっている。1日に4回温泉に入り、風呂上がりにはビールと日本酒を飲むというぐうたらな1日を過ごした。
栂海新道を拓く
休養の間に『栂海新道を拓く・夢の縦走路にかけた青春(山と渓谷社)』という持参した山の本を読んでいた。小野健という29歳の若者が、北アルプス北部に位置する朝日岳・標高2418mから日本海の親不知海岸・標高0mまでの約30kmの稜線に登山道を切り拓くために1961年に「さわがに山岳会」を設立し、山岳会の7人の仲間と共に周囲の様々な人たちの支援を受けながら、木を伐採し、枝を払い、草を刈り、岩を削り、橋を架け、避難小屋を建て、1971年夏に栂海新道という登山道を切り拓いた11年間に渡る苦闘の記録である。
大雪で埋まってしまった乗用車
私が「日本縦断てくてく一人旅」で3年前に新潟県の親不知海岸を歩いていた時に、栂海新道の登山口の表示を見て、ここがあの栂海新道なのかと感動したことを覚えている。また栂海新道登山口そばの国道8号線の旧道に、『日本アルプスの登山と探検』という著書によって、日本アルプスの存在を世界に知らせたウォルターウェストンの椅子に座った全身像が設置されているのを見たのだった。栂海新道も開通50周年を越え、先頭に立って登山道を切り拓いた小野さんは亡くなり、現在その遺志は「栂海岳友会」によって登山道の維持と管理が引き継がれている。私は2年後か3年後に白馬岳から親不知海岸まで栂海新道の縦走を考えている。
吹雪状態の高天ヶ原ゲレンデ
夕食後、ひとりで泊っているスキー客の話によると、広島県から車で8時間かけて志賀高原まで来ており、以前はグループで来ていたが、一人減り、二人減り、三人減りとだんだんと少なくなり、今では一人になってしまったとのことで、年齢は84歳だという。今日も吹雪のなかを滑ってきたとのことで、年齢もさることながらガッツの塊のような人だと思った。翌朝、ロッカールームでスキーウェア姿を見ると、白を基調にして青や緑が入った若者が着るような派手なウェアを着込んでいた。気持ちも若いのだろう。重要なのは戸籍年齢ではなく、いつまでも好奇心を失わない若々しい精神年齢と行動力を保証する肉体年齢だと改めて感じさせる人だった。
健康的な朝ごはん
3日目 2月22日 火曜日 雪 マイナス12度
ネットでゲレンデ状況を確認すると渋峠エリアは封鎖。寺子屋エリアも封鎖。奥志賀エリアも封鎖されていた。昨日に続いて大雪のために各エリアのゴンドラもリフトも動いていないのが大半だった。10数年も志賀高原スキー場に来ているが、こんなにひどいのは初めての体験で異常事態だった。いろいろ検討した結果、8時37分の奥志賀行きシャトルバスに乗って焼額山第1ゴンドラ前で降りた。初日に入った時は焼額山エリアの第2ゴンドラのみが運行していたが、今回は第1ゴンドラのみ動いたのである。
左から焼きまんじゅう山口、ポパイ吉原、チビッコ小沢、エイトマン岩井の面々
ゴンドラ山頂駅まで乗って滑り出すと、新雪が30cmも積もっているために、スキー板が雪のなかに潜ってしまい想い通りに動かない。膝まである新雪のなかの1本目をどうにか山麓駅まで滑り降り、再度山頂に向かった。焼額山エリアでは第1ゴンドラのみしか動いておらず、リフトも全て止まっているためゴンドラに乗る人たちで混んでいた。コロナウイルスの感染予防対策で別グループの相乗りを規制していたため、待ち行列は長く続いていた。2本目は山麓駅まで滑る間に5〜6回コケ、このまま続けていくと必ず怪我をするという予感がしたので、2本滑ったところでスキーを中止してホテルに戻ることにした。
地元の五一ワインで乾杯
4日目 2月23日 水曜日 晴れ マイナス10度
帰る日は朝から陽が射し、ときたま青空が覗いていた。この青空が3日ずれていれば最高だったのだが、天候だけはどうにもならない。山をおりて間山温泉ぽんぽこの湯に向かった。2年ぶりに訪れたぽんぽこの湯は大雪のなかで、シンボルの信楽焼きのタヌキも雪をかぶっていた。
雪のなかのぽんぽこ狸
ぽんぽこの湯は経営が中野市から民間に移り、様々な点で変わっていた。いちばん変わったのは食事処だった。畳の休憩所兼食事処の半分がテーブル椅子席に変わり、食堂のスタッフが地元のおばちゃんたちから街のチェーン店のような若者に変わり、メニューも変わった。メニューの品数は多くなったが値段が上がった。印象としては牧歌的にのんびりしていた地元色が消えて、どこにでもある食事処に変わった感じだった。私は舞茸そばを頼んだ。
垂れ下がる大ツララの向こうに中野市街地が見えた
変わらなかったのは、高台から見下ろした雪景色の中野市街地の拡がりだった。北信五岳といわれる飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山は残念ながら雲のなかだった。寒波に襲われているので屋根から垂れ下がる巨大なツララを久しぶりに見たのだった。