世界遺産:大峯奥駈道を歩く
世界遺産:大峯奥駈道の碑
世界文化遺産に登録されている大峯奥駈道を8月10日〜17日の7泊8日で歩いた。大峯奥駈道は奈良県吉野と和歌山県熊野の二大霊地を結ぶ170kmの山岳道である。大峯山脈の標高1200m〜1900mの急峻な山岳を連ねて南北に紀伊半島を縦断する修験道の道である。この山岳道は1300年前に修験道の開祖役行者によって切り開かれ、高野山に金剛峯寺を建てた真言密教の開祖弘法大師空海も歩いた修行の道でもある。
私は吉野駅を起点とし山中7泊の計画を立て熊野本宮大社まで歩いた。歩くといっても主だった山は30座を超え、急峻の峰のいくつかは鎖や梯子が連続し、一瞬たりとも気を抜くことのできない長く厳しい山岳トレイルだった。
真夏の渇水期のためボウフラが泳ぐ水を濾して飲料水とし、避難小屋は全て無人のため食料と水を背負い、容赦なく照りつける真夏の太陽のもとでの厳しい山岳道の縦走は、67歳にして大変良い経験を与えてくれた修行の山旅だった。縦走を成し遂げた後の体重は50年前の高校生当時の体重であった57kgまでに落ちた。その山中7泊8日のレポートを綴ってみた。
【8/09火】 東京バスタ新宿4F、23:15→奈良交通夜行バス\9500→近鉄奈良駅6:35
1日目 吉野〜二蔵宿小屋
【8/10水】 近鉄奈良駅:6:58〜7:06大和西大寺7:11〜7:42橿原神宮前7:48〜8:36吉野駅(2:00)〜奥千本(40)〜青根ヶ峰(2:10)〜四寸岩山(1:00)〜二蔵宿小屋 徒歩5:50
8/10:朝:奈良駅前購入お握り、昼:駅前購入お握り、夜:駅前購入お握り、味噌汁、ウィスキー水割り、
水場:近鉄奈良駅前で水2L確保 二蔵宿小屋から森の中の1本道を歩いて往復12分、
近鉄吉野線終点の吉野駅はなんとなく侘しい感じがした。駅前のお土産屋で名物の柿の葉寿司が売られている。吉野葛餅も名物のようだ。日本で一番古いといわれているロープウェイ駅に行くと始発には40分も間があるので歩いて金峯山寺に向かう。七曲では草刈りをしている作業員が二人見受けられた。吉野は下千本、中千本、上千本、奥千本の桜で有名だ。桜公園で育っている桜の木は見事だが楓の木も多く、秋の紅葉も素晴らしいのではないかと感じた。
金峯山寺に到着すると仁王門はすっぽりと工事用の布に覆われ、2年後から始まる大規模工事に備えているようだ。怒れる青い不動明王が奥に控えているといわれている蔵王堂に入ってみた。蔵王堂の正面には幕が下ろされており、奥を窺い知ることは残念ながらできなかった。不動明王を拝むことはできなかったが建物全体から威圧感のようなものを感じた。蔵王堂の横に建っている観音堂の前のベンチに座り、近鉄奈良駅前で買ってきたお握りを食べていると60代の夫婦と思われる観光客が蔵王堂の中に入っていった。朝早いので観光客の姿は少ない。
金峯山寺蔵王堂の前で
奥千本口までバスが通っているようなのでバス停で待っていると通過時刻を過ぎてもバスがやってこない。時刻表を再確認するとバスの運行は土休日祝日と但し書きがあった。念のためバス会社に連絡を入れると平日運休とのことだった。残念。奥千本口まで2時間歩かねばと思って歩き出すが、途中で道を間違え、結局3時間歩いてしまった。
奥千本口の金峯神社で昼食を摂り、いよいよ奥駈道の登山道へと足を踏み入れる。青根ケ峰、薊岳、四寸岩山と超えていくのだがアップダウンの連続である。南側が切り開かれている場所に来ると、これから歩いていく南紀州の山々が青く重なり合って遥か彼方まで続いていた。
四寸岩山を降りてくると足摺茶屋小屋が建っていた。屋根はコールタールを塗ったばかりのようで臭いがきつかった。中に入ってみると奥のガラスケースに老人の男女が祀られていた。板の間はなく土間のみの小屋だが掃除が行き届き、小屋は宿泊のためのものではなく村の祭事に使われているような印象を受けた。
林道吉野大峯線と歩いてきた奥駈道が交わって間もないところの旧百丁茶屋跡に宿泊予定の二蔵宿小屋が建っていた。離れたところにトイレがあり、水場は森の中を歩いて往復12、13分ほどの谷川だった。小屋はログハウスで中央にストーブがあり、2階にはロフトもあり、右奥にビニールに包まれた寝具があった。この寝具は講中の方々が使うようだった。
金峯神社から山道に入って二蔵宿小屋までの山中で出会った登山者は一人もいなかった。1日目の行程は吉野駅から二蔵宿小屋まで6時間45分かかり、万歩計の歩数は31200歩だった。
小屋で寝ていると時たま天井からボタッと何かが落ちてきて、しばらくするとガサガサモソモソ動き出す。同じことが数回あったので、何だろうと確認するとゴキブリのような虫だった。気にしてもしかたないので無視して寝ていた。その虫に噛みつかれたり刺されたりはしなかった。
2日目 二蔵宿小屋〜小笹宿小屋
【8/11木】二蔵宿小屋(1:20)〜大天井ヶ岳(40)〜五番関(1:50)〜洞辻茶屋(1:00)〜山上ヶ岳(40)〜小笹宿小屋 徒歩5:30
8/11:朝:お握り、レトルトカレー、味噌汁 昼:行動食 夜:お握り、レトルトカレー、ソーセージ、味噌汁、ウィスキー水割り、
水場: 小笹小屋の裏側に水量十分な小川が流れている 周りはキャンプ地に適している
昨日18時ころにシュラフに入って寝ていると熊野本宮大社まで行くという若者が入ってきたが、水場を聞いてきたあと、小屋前でテント泊をしたようだった。
朝6時の山小屋室内の温度は20℃だった。近畿地方各県に異常乾燥高温注意報が出ていることをラジオが伝えていた。朝食を済ませ小屋を出ると、登山地図上では1km先に天井岳と在来道の分岐があるように記されているが、実際の分岐は山小屋の敷地内にあった。役行者の像が入っている祠の脇から天井岳への登山道が分岐していた。私は水場が2か所ある近畿自然道に指定されている在来道を進んだ。1か所目も2か所目の水場も十分の水量だった。途中に崩落個所が2か所あったが補修されており十分注意して歩けば問題ないと思われた。
在来道と天井岳を超えてきた道が合流する点が五番関だった。そこはこれから向かう山上ケ岳が女性登山禁止の山であるために「女人結界門」が建っていた。大峯奥駈道が世界資産に登録されたときに大峯山寺側から信者側に女性登山禁止解除を提案したが、信者から反対され現在に至っているとのことであった。大峯山寺が宗教上の歴史的経過で現在も女人禁止の措置が取られている旨の理解を求める看板に対して、「サベツ」とか「男性登山禁止」などの落書きや「女人結界門」の文字を壊すなどの行為がなされていた。
女性結界門を過ぎ奥駈道に入ると、近畿自然道と別れるため一気に踏み跡程度の道となった。左側の在来道を選択すると先の鍋冠行者堂行場の手前100mで奥駈道と合流するのだが、登山地図上には記されていないため私は右側の奥駈道を進んだ。奥駈道は踏み跡程度の落ち葉の中を歩いていくため一度は道を見失い直登して登山道に出たこともあった。登山道を歩いていると赤ガエルや蛇が登山道を横切った。
洞辻茶屋横に立つ不動明王像
鍋冠行者堂行場には祠が建てられており直径60cmほどの鉄製の丸鍋が吊り下げられていた。手に持っていたトレッキングポールのグリップで鍋を叩いてみると低い音が林の中に響き渡っていった。鍋冠行者堂行場を過ぎ、気持ちのいい明るいブナ林の中を歩いていると突然50mほどの岩場が現れ、ロープと真新しい鎖が取り付けられていたのにはびっくりした。その岩場を登りしばらく歩くと緑に覆われた山上ケ岳の平らな頂上と宿坊が望めた。ここから山上ケ岳までは尾根続きになっているようだった。
洞川登山口から山上ケ岳への日帰り登山者と出会うことが多くなったのは洞辻茶屋からだった。出会う登山者は男性ばかりである。登山道は洞辻茶屋の平屋の建物の中を通過していた。両側に茶店が並んでいる形となっており、白装束に拵えたグループが腰を下ろして休憩中の姿も見られた。お酒も売られているようで、お参りの帰りに再度茶屋に立ち寄り、お酒を飲んでから下山するようなことを茶店の人とやり取りしているのが聞こえた。茶屋の入口と出口にそれぞれ一体ずつの不動明王像が睨みを利かせていた。日帰り登山者の挨拶は「こんにちは」ではなく「おまいり」というものだった。この挨拶も独特だと思った。登山者というよりも参拝者という立場からのものと思われた。
洞辻茶屋を通過すると次に陀羅尼助茶屋があった。洞辻茶屋から一緒になった大阪から参拝に来たという男性と言葉を交わしながら大峯山寺まで前後して登って行ったのだが、陀羅尼助という珍しい名前は何なのかを質問すると、陀羅尼助は漢方胃腸薬の名前であり、身体への副作用がないために常備薬として自宅にもおいてあるとのことだった。その茶屋の出口に「左側行者、右側下り」という表示があった。その文字の意味するところは左側が行場の歩く厳しい道であり、右側はお寺にお参りした後の帰り道だろうと判断し、私は左側の行者コースを選んだ。思った通りに左側の道は行場である鐘掛岩までの間に鎖場が3か所、ほかは階段の連続であり、結構きつい登りだった。
鐘掛岩の根元は展望台になっていた。洞川の街並みと登山口の駐車場が緑の木々の中にぽっかり浮かんで見えた。私は初めて関西の山登りに来たので見渡せる山々の位置関係が全く分からないのだが、隣に立つ登山者が遠くに連なる峰々のシルエットを指さしながら金剛山と葛城山だと言っていたのが印象的だった。
展望台で連なる山々を眺めていると奈良県警のヘリコプターが飛んできて「山岳遭難が増加しているので無理のない計画で安全登山を心がけましょう」と呼びかけていた。8月11日が国民の休日法によって制定された初めての「山の日」であることを思い出した。大峯奥駈道を歩き始めて2日目であったが、行き交う登山者も少なく、登山道も踏み跡程度のところが多く、道に迷っての遭難が多いのではないだろうかと実感した。私は30分間隔ぐらいでコースタイムと比較しながら登山地図上のどこの辺りを歩いているのか、常に現在位置を確認しながら進んでいった。
鐘掛岩は垂直に立ち上がっている大岩で、その溝の中を足場を確認しながら登っていくようだったが、見上げただけで登るのは危険だと判断し、右側を通りぬけて先に進むと、テレビなどでよく放映される行場の「西の覗」に着いた。絶壁の上に左右2本の鎖がある。岩の上から絶壁の下を覗き込んだが、絶壁の元に茂る木々は見えたがオーバーハングになっているのか絶壁の元は見えなかった。「西の覗」の標示の前に大きな鐘が置かれていたので、思いっきり叩いてみた。鐘の音は隣にいた登山者が驚いたほど大きく響き渡った。
「西の覗」行場
山上ケ岳の頂上には大きな宿坊が数軒建っていた。その宿坊を過ぎ石段を上ると大峯山寺だった。蔵王堂の扉には「戸開式 5月3日午前3時、戸閉式 9月23日午前3時、平日 朝6時〜夕4時、土日祝 朝6時〜夕5時」と蔵王堂が開かれている期間と時間が記されていた。蔵王堂に入り、私は御朱印張を持っていないために被っていた麦藁帽子に文字を書いて朱印を押してもらおうと頼んだが、御朱印張に文字を書いている人も初めての体験だったようで戸惑っていた。結局、麦藁が墨を吸わないため文字を書くことができなかった。朱印は3個押してもらって代金400円を支払った。
参拝者が金剛杖に焼き印を押してほしい、と御朱印張に文字を書いていた人に頼んでいたので焼き印を押す場所まで一緒についていった。そこは絵馬堂だった。私は初めて絵馬堂という建物の中に入ったが、4つの三角天井に大小様々な絵馬が飾られており、平板に絵を描いたものばかりではなく立体に彫刻したものも飾られていた。絵馬堂入口の右側にガスボンベ、ガスバーナー、焼き印が置かれており、ガスバーナーで焼き印を熱し金剛杖に押印していた。500円の料金だった。蔵王堂で売っていた金剛杖は1本2500円だったので富士山で売っている金剛杖の1500円に比べると随分高額だと思った。
大峯山寺蔵王堂の前で
山上ケ岳から下って小笹宿小屋に向かうと1時間ほどで到着した。小屋の前に赤い祠があった。祠の左側は高さ30mほどの大岩の前が広場になっており役行者の銅像や石碑が建てられ、小屋の裏側には小川が流れており水量は十分だった。小笹宿は大峯山根本道場としての修験道の行場として大規模なものであったことが周りに残っている石垣の多さなどから推察され、修験道が盛んだったころの賑やかさが窺えた。赤い祠の前に不動明王の立像が設置され、その前は行者が護摩を焚くために円形に組まれた石の護摩壇が設置されており護摩を焚いた跡が残されていた。
小笹宿小屋はプレハブ造りで広さは6畳くらい、半分が板の間で半分は土間であった。18時ころに父親が60歳、息子が30歳くらいの親子連れの登山者がやってきた。外は虫が多すぎるので小屋の中で食事を摂ってもいいか、と確認後に夕食を食べていた。夏山登山に出かけると子どもが小さい時の親子連れの登山者は見かけることが多いのだが、子どもが30歳を越してからの親子登山は珍しいと思ったので、印象に残る登山者だった。会話の中身から仲のいい親子だということが感じられた。2日目の行程は6時間で万歩計は24074歩を示し、携帯電話も通じた。
3日目 小笹宿小屋〜行者還小屋
【8/12金】小笹宿小屋(40)〜阿弥陀ヶ森(1:15)〜大普賢岳(1:15)〜七曜岳(1:10)〜行者還岳(30)〜行者還小屋 徒歩4:50
8/12:朝:レトルトカレー、味噌汁 昼:行動食 夜:レトルトカレー、ソーセージ、味噌汁、ウィスキー水割り、
水場:行者還岳から少し下った縦走路に水場があったが枯れていた。行者還小屋の台所の蛇口から水が出たがすぐ枯れた。
小笹宿小屋にはトイレが設置されていないので朝食後、水場とは反対の高台のほうに行って用便を済ませた。3日ぶりだったので気持ちよく出た。すぐに蠅が飛んできたので枯れ葉や枯れ枝を被せた。高台にはなぜかネパールで見かける道中の無事を祈る絹布のカタと、チベット仏教の5色の祈禱旗であるタルチョが風になびいているのが印象的だった。タルチョはチベットの聖地には欠かせないもので、5色の旗1枚1枚に経文が印刷されている。黄色は地、青色は水、赤色は火、緑色は風、白色は空、をそれぞれ表しているという。
同宿した親子は弥山小屋に宿泊するか、思い切って下山するといって出かけて行った。私は当日の行程が短いので30分遅れて出発した。稜線まで出る道は石畳が敷かれ歴史を感じさせるものだった。稜線上の道は風の通り道らしく、巨木がなぎ倒されているのを度々目撃した。倒された木々は横に大きく根を張っており、山全体が岩山のため根を地中深く伸ばせず横に張るため強風には弱いことが窺えた。倒れた木々はそのままにされているので登山者は迂回するか、その木々を乗り越えて進んでいく。
阿弥陀ケ森に着くと「女人結界門」が建っていた。五番関と対をなすもので山上ケ岳の向こう側とこちら側の両側に立っているものである。左に行くと柏木集落で、大峯山寺までの距離が「丁」の表示で苔むした石柱に記され、草むらの中に立っている。今日も快晴で聞こえてくる小鳥の鳴き声が清々しい。
阿弥陀の森の「女人結界門」
女人結界門を過ぎて10分ほど下ると脇宿という行場に出た。大きな樅ノ木の高さ5mほどのところから別の木が生えていた。以前、会いに行った屋久島の縄文杉のようだった。根元には祈祷札が立てかけられていた。この辺りは笹原の中の道でとても歩きやすい。これから歩いていく明王ケ岳の絶壁が朝日に輝いている。やがて石楠花の木が目立つようになった。
小さな岩山が山頂になっている小普賢岳は石楠花に囲まれており、天理大学ワンダーフォーゲル部の黄色い表示板があった。以後、ルート上で度々見かける表示板だが、色から見てずいぶん昔に設置したもののようだった。
大普賢岳分岐まで来ると佐和又から登ってきた日帰り登山者の男性に出会った。この登山者とは行者還岳までの間で度々出会うことになった。彼はザックを分岐点に置いて往復20分の山頂に向かった。私は体力温存のため山頂には向かわず右側の巻き道で進んだが、後から考えると雲一つない快晴の下で360度の展望が可能であった山頂に向かい、思う存分に展望を楽しむべきだった。
大普賢岳を通過すると左側が切り開かれた水太覗という見晴らしのいい場所に出た。笹原の中で休憩するにはぴったりの場所だ。重なる峰々と湧きあがっている雲海が素晴らしいグラデェーションの景色となって眺められた。
水太覗からの展望
笹原の中の登山道をミソサザイの道案内で進んでいくと動物の糞と度々出会うようになった。直径2cmくらいで長さは3cm〜5cmの黒色をしていた。この糞は進んでいく登山道で増々数を増し、結局イノシシの糞であろうという結論に達した。私たち登山者が森の動物たちの世界にお邪魔しているのだから、動物たちの痕跡にも度々出会うことがあった。
弥勒岳、国見岳を過ぎて稚児泊までの間が鎖場の連続で10か所くらいはあっただろう。この鎖場で60歳代の一人の日帰り登山者と出会った。下りの鎖場で会ったのだが、慎重に降りているためにスピードが遅いことを気にしたのか、先に下りますか?と聞いてきた。しかし、狭い鎖場で追い越すことはしない。私は事故にあっては大変ですから、ゆっくり進んでくださいと答えた。彼は登山初心者で、七曜岳まで行きたいと話していたが、鎖場の多さに辟易したのであろうか、結局、七曜岳まではやってこなかった。稚児泊の先の七つ池から先が再び鎖と梯子が多数現れ、二つの桟橋を渡ると七曜岳の山頂であった。山頂は大きな岩が3つ繋がったような形をしており、長さは10m、幅は3mくらいだった。山頂からは360度の展望で、今まで超えてきた峰々とこれから超えていく山々が展望できた。しかし、湧きだした雲によって山頂部が隠されつつある峰もあった。
七曜岳山頂からの眺望
七曜岳からの下りも鎖場の連続で降りきるとブナとクヌギの明るい林となり風通しがとてもよく気持ちのいい散歩道となった。登山3日目にして初めて女性登山者に出会った。若いカップルの登山者で、仲良く会話をしながら登ってくるのに出会ったのだった。緑色に輝くカラスアゲハに出会ったのもこの辺りだった。行者還岳の山頂には2人の登山者がいた。山頂は木々が生い茂っていたために眺望はなかった。虻が身体の周りを飛び回って煩かった。山行中には虻に度々刺され血を吸われた。虻が刺すときは全く痛さが感じられず、血が吸われるときの痛みにより、虻に刺されていることに気が付くのである。血を吸われた後は2〜3日は赤い斑点として残っていた。
行者還岳からは凄い急下降で梯子などを使いながら下っていく途中に水場があった。渇水期のため枯れているだろうという悪い予感が当たり、水場のホースからは1滴2滴という具合に水が落ちている状態だった。日程に時間的な余裕があったので500mlペットボトルに水滴を溜めていると、1本溜めるのに1時間かかった。2本目に移ると30分経っても底から1cmほどしか溜まらなかったので諦めて宿泊予定の行者還小屋に向かった。
行者還小屋に到着し台所の蛇口をひねると水場から引いてきてタンクに溜めている水が出てきた。先ほどの縦走路脇の水場のタンクから黒いホースが2本出ており、1本が縦走路上に、もう1本が縦走路に沿って行者還小屋まで引かれていたのだ。行者還小屋には飲料水に適さないので煮沸してから利用してください、と表示されていた。結局、行政が建てた山小屋なので安全性を考えての注意書きだと判断し、煮沸器具を持っていなかった私は生水のまま飲んでいた。生水の中にはタンク内の水垢のような細かく透明のようなものが漂っていた。私はフィルターで濾す器具も持ち合わせてはおらず、必要に迫られて飲んでいたが、それでも腹をこわすことはなかった。
行者還小屋は非常に広い綺麗なログハウスだ。小屋の入り口正面に4.5畳ほどの小部屋があり、左側が台所、右側が10畳くらいの大部屋で2階はロフトとなっており、中央が丸太で別れていた。
私が小屋に到着したのは14時で、到着時刻としては比較的に早く、正面の小部屋が空いていたため、そこを寝床とした。部屋の中でリラックスしてウィスキーの水割りを飲んでいると、日帰り登山者が部屋の様子を見るためにドアを開けた。私を小屋の管理人と勘違いし色々質問をしてきた。私はあなたと同じ登山者です、と答えると、彼からの質問は更に増えた。
大きく綺麗なログハウスの行者還小屋
私はウィスキーを飲みながら翌日のルート確認と水場の確認をする。行者還小屋〜楊子ノ宿小屋までのルート上で水場は1ヶ所もない。今日の経験を踏まえてルート上の唯一の有人小屋である弥山小屋で水と酒を購入しようと思った。行者還小屋には断熱マットや毛布も沢山用意されてあったので、自分のものを使わずに小屋のものを使わせていただいた。
私が今回使用している登山地図は昭文社の登山地図をA3判にカラーコピーで6分割したものだが、地図の折り方の教訓として地図側を外折りにするとルートを度々確認するために手で擦れてしまい肝心なところが読めなくなる場合がある。それを避けるために内折りにしたほうが実用的だと思った。
ラジオの天気予報では近畿地方に異常乾燥高温注意報が出され続け、山沿いでは急なにわか雨や雷雨には十分注意して下さい、と度々述べている。相変わらずの快晴続きだが午後から雲の量が増えてきているので天候は下方に向かっているのではないかと思われる。3日目の行程は7時間30分で、万歩計は20217歩だった。行者還小屋から携帯電話は繋がらなかった。
4日目 行者還小屋〜楊子ノ宿小屋
【8/13土】行者還小屋(1:10)〜一ノ垰(1:10)〜弥山小屋(40)〜弥山(30)〜八経ヶ岳(20) 〜明星ヶ岳(2:00)〜舟ノ垰(30)〜楊枝ノ森(30)〜楊子ノ宿小屋 徒歩6:50
8/13:朝:レトルトカレー、味噌汁 昼:行動食 夜:レトルトカレー、ソーセージ、味噌汁、ウィスキー水割り、
水場:
途中の弥山小屋で1l\100購入 楊子ノ宿小屋から往復10分に水場あり
4日目の行程は長めなので朝5時40分に小屋を出発した。歩き始めて1分のところが左側が素晴らしい見晴らし台になっており、日の出を見るのに絶好の場所だと思った。すでに朝日は上がっており、10分前だったならば素晴らしい日の出に会えただろうと思った。場所を知ることは大切なことだ。笹原の明るい尾根筋を気持ちよく歩く。鹿避けの柵が見受けられるようになった。
行者還トンネル西口からの登山道が左から交わって間もなく奥駈道は90度右に折れた。清々しい空気の中を歩いていくと平らな山頂の上に建つ弥山小屋の三角形の屋根が見えた。笹原の中で気持ちよく休憩した。
奥駈出会に着くと日本百名山の八経ヶ岳に登る日帰り登山者の数が急に増えた。弁天の森、聖宝の宿を過ぎると木の階段が現れた。静かな登山道はよく踏まれており間違うことはない。デジカメの電池残量が少なくなっており、残り半分の行程の写真が撮れるか心配になってきた。携帯電話の電池も山に入ると通信する以外はスイッチを切ってあるのだが自然消耗のため残量が少ない。
弥山小屋に到着し、小屋前のベンチにザックを残して弥山山頂に向かった。弥山山頂には天川大弁財天奥宮が建っていた。周りの木々は立ち枯れが目立った。山頂には誰もおらず、携帯電話も繋がらなかった。この弥山が今日のルートの半分の行程だが空は雲に覆われだした。
弥山小屋で水と酒を買おうと思い小屋の受付で呼び鈴を押したが管理人は出てこなかった。あとで楊枝ノ宿小屋に同宿した広島から来た若者に聞くと、管理人は山頂でゴミ拾いをしていたとのことだった。
八経ヶ岳は近畿地方の最高峰で日本百名山
弥山小屋から八経ヶ岳に向かうと鹿の食害防御の柵が次々に出てきた。国の天然記念物であるオオヤマレンゲ(大山蓮華)を鹿の食害から防ぐものだが、柵の設置と管理は大変な労力が必要だろうと判断できた。明星ケ岳でも鹿の食害防御柵が登山道脇を取り囲んでいた。オオヤマレンゲはモクレン科の花で6月下旬から7月中旬に真っ白な花を咲かせる美しい花だ。オオヤマレンゲは同じモクレン科のホウノキやタイサンボクのように大木ではなく小さい木のため花を間近に見ることができる。しばらく歩いているとヤマドリ4羽が私の前を横切った。オスは見当たらず全部メスのようだった。今年羽化した雛が親鳥と同じ大きさになったものと思われた。
独鈷峰の北側が凄い崩壊地になっており登山道も崩れていた。新しい登山道にはロープが設置され崩壊地の脇を直登するかたちで作られていた。木が倒れ、草が剥がされ、丸裸になった崖の崩壊は絶え間なく進んでいるようだった。あのような形になると止める術はないように思われる。山が崩れていくのも自然なのだと思う。
ブナの木が多く明るい楊枝ケ森の中で、七面山方向へ向かう登山道が崩壊のため通行禁止になっている表示板の前で休憩を取った。ザックの中の水を確認すると、朝出発するときは2500mlだったのが残り1000mlになっていた。宿泊予定の楊枝ノ宿の水場で水を確保できない場合は、翌日の行程が成り立たない。その場合は次の深仙宿小屋までの間に2か所の水場があるので先に進むことにした。
楊枝ノ宿に到着するとすぐに水場に向かった。小屋の左側からブナ林を4分ほど降りたところが水場だった。2本のパイプが出ていたが、1本は枯れており残りの1本からポタポタ滴が落ちている状態だった。500mlペットボトル1本が満杯になるのに10分かかった。ここで水を500mlで4本確保できたので一安心した。真夏の縦走においては水の確保は死活問題となるのだ。
楊枝ノ宿にはトイレはなく水場と反対側の仏生ケ岳方面で用を足すように注意書きが小屋の壁に貼られていた。楊枝ノ宿も綺麗なログハウスで2階はロフトとなっており、2枚の断熱シートが敷かれたままになっていた。同宿したのは広島からきた青年だった。4日目の行程は6時間40分で万歩計は29896歩、携帯電話は繋がらなかった。
5日目 楊子ノ宿小屋〜持経ノ宿小屋
【8/14日】楊子ノ宿小屋(1:10)〜孔雀岳(1:10)〜釈迦ヶ岳〜(35)〜深仙小屋(35)〜太古ノ辻(1:00)〜天狗山(40)〜嫁越峠(30)〜地蔵岳(50)〜ヒクタワ(30)〜涅槃岳(25)〜証誠無漏岳(50)〜持経ノ宿 徒歩7:45
8/14:朝:レトルトカレー、味噌汁 昼:行動食 夜:レトルトカレー、ソーセージ、味噌汁、ウィスキー水割り、
水場:孔雀岳に鳥の水場 深仙小屋の隣の祠から歩いて3分に水場、持経ノ宿小屋から林道を5分
釈迦ケ岳のピラミダルな山容
今回の山旅では山中を8日で計画していたので半分の日程が経過したことになった。朝晩の食事はレトルトカレー、味噌汁、ソーセージ、羊羹などと粗食だが体調は普段通りに快調である。
5日目の行程は前半の北奥駈道を終了し、後半の南奥駈道に入っていく。私は楊枝ノ宿を5時50分に出発したが、同宿した広島の青年は3時30分に起床し外で朝食を済ませ5時に出発していった。礼儀正しく旅慣れた感じの青年だと思った。
仏生ケ岳は右に巻いた。シダの葉が朝日に輝き美しかった。しばらく進むと釈迦ケ岳のピラミダルな山容が眺められるようになった。前は岩場だ。これからは岩稜帯をいくコースなので切れ落ちた絶壁が見える。十分注意しなければならない。縦走路に「鳥の水」と名付けられた水場があった。ホースの先からポタポタ滴が落ちていた。私のザックには3000mlと十分な水が入っているので先に進んだ。
孔雀岳の分岐で右の巻き道を選んだ。孔雀の覗では南側が切れ落ちており、そこから眺められる景色は絶景だった。これより先は岩場となる模様なのでストックをザックの脇に収納し両手をフリー状態にした。孔雀の覗からすぐに予想通りロープや鎖場が登場した。
釈迦ケ岳山頂
空鉢岳は登山地図には載っていないが、南奥駈道をボランティアで整備している新宮山彦ぐるーぷが独自の表示をしていた。山頂からは釈迦ケ岳が正面に望めて見事だ。3uほどの山頂の周りは全て絶壁なので行動を慎重にした。
空鉢岳から一旦急激に降下し大きな岩の左側を通過し上りにかかると鎖場の連続となった。特に馬の背と呼ばれるところは両側がスッパリ切れ落ちていたが、ボルトが打ち込まれていたので比較的安全と思われたが、大きな岩の下で反対側から来た登山者は初心者らしく、とっても恐ろしかった、という感想を述べていたのを思い出した。北アルプスの鎖場を歩いている登山者であったならば問題なく通過できるだろうと思った。
釈迦ケ岳山頂に到着するとスマートホンを操作している女性がいたので、携帯が繋がるのですか、と質問したところ、繋がったり切れたりですね、という返事をもらった。早速、携帯電話を出すとアンテナが3本立っていたので家族に元気に山旅を続けている旨のメールを送信した。2日ぶりの送信だった。
釈迦ケ岳山頂には青銅のお釈迦様が立っていた。青空をバックに神々しく見えた。私はお釈迦様の銅像の前に立ちスマートホンを操作していた女性にカメラのシャッターを押してもらった。山頂からの眺めは360度の素晴らしいものであった。
釈迦ケ岳の下りも笹の中の急降下だった。笹を刈っていないため足元の凹凸が分からず捻挫に気を使った。深仙宿小屋に到着すると隣のお堂の前で山伏姿の行者が祈祷していた。行者の白地下足袋は随分汚れており、行程の長さを物語っているようだった。白髪の坊主頭の行者さんと話すと丁寧な対応で眼がとても優しかった。
深仙宿小屋の水場は、隣に建つお堂の前から右側に切り立っている大きな岩に向かって行くと3分くらいの石垣に囲まれたところで、岩の割れ目から水がポタポタ落ちており、その水を鍋に溜めていた。空きになった500mlのペットボトルに水を満たした。
太古ノ辻までやってくると、そこが北奥駈道と南奥駈道の境目だった。茶色の表示板が立てられていた。その表示を見たときに、これで前半部分が終わりいよいよ後半部分に入っていくのだと思い、まずはお疲れ様と自分に言い聞かせた。この場所に宿泊予定の持経ノ宿小屋までは5時間の表示があった。
これより大峯南奥駈道に入る太古ノ辻
太古ノ辻を過ぎると明るい笹原の中を歩いていく。石楠花岳の右側を通過するが、辺り一面に倒木が目立つ。風の通り道なのだろう。途中で草の根を掘り返してあるのに度々出会う。イノシシの仕業である。
次に目指すのは天狗山だった。真夏の強い太陽が容赦なく照りつける中を登っていく、暑い。熱い。山頂に登りつくと山頂には何の表示もなかった。がっかりしていると草と笹の混じった山頂には沢山の木苺が赤い実を付けていた。予期せぬプレゼントだった。夢中で口の中に放り込んだ。100個は食べただろうか。赤や朱に色づいた少し酸っぱい木苺の実は格別の味がした。
途中の奥守岳で昼食にした。行動食なので20分ほどの食事時間なのだが汗をびっしょりかいた身体には味噌汁が最高に美味かった。生き返ったような感じがした。また、柿ピーと黒糖を一緒に口の中で噛んでいると、あたかも饅頭を食べている感覚になる。考えてみれば米粉、ピーナッツ、餡子を一緒に食べているのだからエネルギーも補給できるのだった。
般若岳の右側を越えるあたりで凄い入道雲が湧きあがっているのを見た。全く雨が降っていないので水場は枯れており、山小屋に着いた後に一雨欲しいと思いながら先に進んでいた。
滝川の辻、乾光門、涅槃岳、証誠無漏岳、阿須迦利岳と歩いて行ったが、本当にアップダウンの連続でいいかげんにしてほしいと思いながら持経ノ宿小屋に到着した。いよいよ登山地図も4枚目に入っていた。宿に到着すると林道を歩いて400mの位置にある水場に向かった。水場は新宮山彦ぐるーぷが設置したホースから勢いよくほとばしっていた。500mlペットボトルが2〜3秒でいっぱいになった。飲料水の水場なので身体を洗うことは控えたが、頭から水をかぶり本当に気持ちよかった。水場脇に黄色のテントが張られていた。
持経ノ宿小屋に戻り、濡れた衣服を着替えていると一人の登山者が小屋に入ってきた。小屋関係の人ですか、と話しかけてみると、水場脇でテント泊をしている男性だった。30分ほど話した内容によると、大阪の出身で毎年のように吉野からテント泊で北奥駈道を持経ノ宿小屋までやってきて、ここでUターンして吉野に戻るという。これから先は林道が出てくるので山の中の静かさを味わうことができないという。食料がなくなったので、1日がかりで下の村まで降りて折り返しコース分の食料を調達してきたという。
昨日は、18時ころに持経ノ宿小屋に着くとバイクでやってきた中年2人組が外でバーベキューをしており、時おりバイクのアクセルをふかすので、小屋で寝ていられる状態ではなく、下の水場でテントを張ったという。林道は一般車両の通行を禁止しており、昨夜の中年2人組はどこから潜り込んできたのかと憤慨していた。その男性の年齢を聞くと誕生年月も私と同じだったが、なぜか1歳年上の68歳だとずっと思っていたという。10年ほど前に妻を亡くし、最近は山行が趣味で秋には北アルプスに上高地から入山したいと話していた。話好きな素朴な人柄が感じられた。
持経ノ宿小屋は新宮山彦ぐるーぷが管理しており、小屋の中には毛布が沢山あった。遠慮なく使わせてもらい小屋の使用料金の2000円を納付箱に収めた。太陽電池により電灯も点き、携帯電話の充電もできるようになっていた。5日目の行程は9時間で万歩計は39508歩、携帯電話は繋がらなかった。
持経ノ宿小屋で休んでいると16時から1時間半に渡ってバケツの水をひっくり返したような夕立がやってきた。待ちに待った雨だった。それにしても凄まじい降り方だった。
6日目 持経ノ宿小屋〜行仙宿小屋
【8/15】持経ノ宿小屋(55)〜平治ノ宿(30)〜転法輪岳(45)〜倶利加羅岳(1:30)〜行仙岳(30)〜行仙宿小屋 徒歩5:10
8/15:朝:レトルトカレー、味噌汁 昼:行動食 夜:レトルトカレー、ソーセージ、味噌汁、ウィスキー水割り、
水場:途中の平治ノ宿より8分下る 行仙宿小屋から10分下る 笠捨山から下った葛川辻より下り3分
持経ノ宿を出発する前に1500mlの水を汲みに行った。戻ってきて出発の準備をしていると台所に忘れられていたポカリスエットがあったので、ありがたくいただき、濃度を半分に薄めて500ml2本にした。
大峯巨木の森を通ると樹の胴回り540cmのミズナラやブナの巨木が多数育っている。カッカッカッという甲高い鳥の鳴き声が聞こえてくる。朝一番の山越えは汗びっしょりで身体に堪える。
平治ノ宿に到着すると小屋の右側に、文化人類学者・生態学者・登山家であった今西錦司京都大学名誉教授が1980年3月30日に平治ノ宿に訪れた際に記念植樹した吉野桜が大きく育ち、小屋の屋根の上に高く伸びていた。小屋の中を覗き込むと部屋の大きさは8畳くらいで綺麗に整頓されており、入口にストーブが置かれていた。水場は縦走路から右側に下った所にあるが、水は十分持っているのでパスした。
転法輪岳の急登を登り切ると携帯電話が繋がった。山頂で休憩しながら家族にメール送信した。転法輪岳を出発したが、途中で道に迷ってしまい転法輪岳に戻ってしまった。1時間のロスだった。気を取り直して再度の出発であった。歩きながらどこで道を間違えたのかを検証しながら進んでいくと、比較的に大きな岩を攀じ登らないで右折していたことが判明した。踏み跡が右折方向にあったので道を間違える人が多いように感じられた。昨日の夕立で気温は上がっていなかったが杉の根や岩が滑ったので注意しながら進んだ。
新宮山彦ぐるーぷが管理している持経ノ宿小屋
倶利伽羅岳には左側の鎖なしルートを選んだら山頂部で再び道を間違えそうになった。集中力が希薄になっているのだろうか。休憩しながら自戒した。石楠花の木も随分大木のものが目立つ。ネパールに行くと石楠花の大木が林となっているけれども、この山域の石楠花の林も見事のものであると思った。石楠花の花咲く頃に訪れたら素晴らしい景色に出会えるだろうと思った。
足元に黄緑色の毬藻のような形をした苔の小さな赤ちゃんが多数ある。その苔の塊が大きくなって隣の塊とくっつき更に大きな塊へと育っていくようだ。虫の声や小鳥の声があちらこちらから聞こえてくる。
巨木に囲まれた怒田の宿跡は実に静かだった。現在、南奥駈ルートを歩いているのは広島からやってきた若者と私の2人だけで、あとはこの森に棲む動物や植物たちだけである。時折り小鳥の鳴き声が聞こえてくるのみである。
行仙岳山頂には白いアンテナが2基建っていた。下りとなると鉄階段や石階段が整備されている。アンテナ保守点検者のためのようだ。ここまでくると送電線を含めて人間界の臭いを感じてくる。
白いアンテナが建っていた行仙岳山頂
行仙宿小屋には11時20分に到着した。この小屋には管理人が昨日から上がってきており13時に里に降りて行った。降りる前に小屋使用料金の2000円を渡すと納付箱に収めていた。管理人は水場は小屋から往復30分の場所にあるが、上り下りが大変なので市販されている2Lペットボトルを200円で分けているよ、と言ってくれた。
私は水場がどのようなものなのか空きの2Lペットボトルを持って水場に下って行った。水場までの道を簡単に考えていたが、ロープあり鎖ありの結構危険な道だった。10分ほど下って到着した水場はあまり清潔とは言いがたいが、綱が張られ白い布の御幣が吊るされていた。やはり水は神聖なものなのだということを改めて感じさせられた。小屋の引継ぎ板には1週間前の8月8日には全く水は枯れていたと記されていたが、昨日の夕立の影響なのか池の水は満水だった。池の大きさは縦50cm、横40cm、深さ20cmくらいだろうか。底には落ち葉が見えた。持って行ったペットボトルで浮かんでいる異物が混入しないように、なるべく池の中心の水を汲み入れた。
小屋に戻り、コーヒーフィルターを使って汲んできた水を濾しながら500mlに移し替えていると、水の中で何やら動いている3ミリほどものが目に留まった。最初は気にしていなかったのだが、よく観察するとそれはボウフラだった。もし、フィルターが小屋になかったならば、生水の中のボウフラもそのまま飲んでいただろう。今回の山旅を通して生水を煮沸せずにそのまま飲んでいても私の腹は壊れることはなかったが、管理人がいたならば小屋にストックしてある市販の水を購入したほうが無難だろうと思う。
広島から来た青年はフィルター付き簡易浄水器を持っていた。Amazonなどでも3000円ほどで売っているという。容器に水を入れるとフィルターで濾された水が出口から出てくるような構造になっていた。青年も煮沸はしておらず生水を飲んでいたが、フィルター付き簡易浄水器は携行品として考えてみるといいと思った。
行仙宿小屋の入口も昨日の持経ノ宿小屋同様にオニヤンマの精巧な模型が吊り下げられていた。蜂や虻などが入口から部屋の中に入るのを防ぐ効果があると注意書きがされ、触らないでください、とも書かれていた。風が吹けば動くように釣り糸で吊り下げられているので生きているオニヤンマのように見えた。なるほど・・・と感心したが、部屋の中にはアシナガ蜂と虻が外に出ようと窓ガラスに当たっているのを見た。
また、部屋の中に扁額が飾られていたので誰が揮毫したのか署名を確認すると、元財務大臣の塩爺こと塩川正三郎だった。扁額の文字は難しい字だったので読めなかったが、新宮山彦ぐるーぷ代表と塩爺のツーショットの写真も壁に貼られていた。
入道雲のあとに凄い夕立が来た
13時半に昨日と同様な凄い夕立がやってきた。一度は止んだが、再び2時間後に雷鳴とともに夕立がやってきた。素っ裸になってシャワー代わりに身体を洗った。7日ぶりのシャワーは、とても気持ちがよかった。
夕食を摂りながら登山地図を広げ、明日の行程を検討した。小屋に南奥駈ルートの高低図が山名とともに描かれているのがあったので、それを参考にすると朝一番に向かう笠捨山山頂まで5回もアップダウンがある。やりきれない行程だ。その次も次々にアップダウンの繰り返しで、葛川辻から奥駈道を外れて地蔵岳の鎖場を避け安全な道を選ぶコースもあるが、それでは奥駈道完全縦走にはならない。地蔵岳の鎖場も慎重に通過すれば問題ないだろうと考え、登山地図通りに奥駈道を進むことにした。
山小屋での夕食も最後となるのでウィスキーは全部飲むことにした。水割りにして200mlほどのコップで3杯なのだが、静かに胃の中に落ちていくのを楽しみながらゆっくりと飲んだ。夕食を終えたときに残っていた食料はレトルトカレー1袋、羊羹2個、カリカリ梅2個、味噌汁3袋、柿ピー500ml1本、黒糖1袋だった。翌日の宿泊は玉置神社宿坊なので食事の心配はいらないため、計画通りの食料消費であったことに満足した。6日目の行程は5時間10分で万歩計は23796歩、携帯電話は繋がらなかった。トイレは洋式でトイレットペーパーも用意されていた。
7日目 行仙宿小屋〜玉置神社宿坊
【8/16火】行仙宿小屋(1:20)〜笠捨山(25)〜葛川辻(40)〜地蔵岳(1:10)〜香精山(35)〜塔ノ谷峠(1:10)〜蜘蛛ノ口(1:20)〜花折塚(20)〜玉置山展望台(40)〜玉置神社宿坊 徒歩7:40
8/16:朝:レトルトカレー、味噌汁 昼:行動食 夜:玉置山神社宿坊 1泊3食\7500
水場:玉置神社に水場
行仙宿小屋のすぐそばに送電線の鉄塔が建っていた。随分、里に近づいた感じを受ける。スタート前は長かったように感じた山旅も明日で終わりとなるのだ。太陽が元気に顔を出している5時45分に宿を出発した。朝靄の中を歩いていると吹き上げてくる風が気持ち良い。いよいよ笠捨山への上りにかかるが山頂にはガスがかかっていた。笠捨山山頂に到着すると私よりも1時間前に出発した広島の若者が休憩していた。ザックを下して休憩していると、汗だらけのザックの臭いに誘われて小蠅がわんさかやってくる。私はあまり感じないのだが臭いのだろうなぁと改めて思う。
登山地図上の槍ヶ岳を過ぎたらストックを収納しようと考えていたら、突然、鎖場に出てしまった。しかたないので鎖場を登り切った所でストックを収納した。それからはロープと鎖の連続だった。今年取り替えたであろうと思われる真新しい鎖も多数あった。登山者の安全を考えたもので、ありがたいことだ。
地蔵岳山頂に置かれていたお地蔵さんは25cmほどの可愛いものだった。赤いチェックの前掛けをかけていた。山頂は石楠花と松に囲まれ、見通しは良くなかった。
地蔵岳山頂に安置されているお地蔵さん
地蔵岳からの下りも鎖場の連続だった。10mくらいの長〜い鎖も2か所あったが、慎重に下れば問題はなかった。四阿之宿、香精山、塔ノ谷峠、古屋の辻を通過し、カケスがジャージャー騒いでいる林の中で昼食を摂った。足元で青と銀色の縦縞の鮮やかなトカゲのオスが横切るのを数回見た。保護色の赤ガエルにも2度出会った。
登山道はついに林道に出てしまった。林道脇に世界遺産登録された大峯奥駈道の説明版が設置されており、全体概要図とともに地理的概要と歴史的概要の説明がなされていた。その説明文を読むと改めて歴史の重さを感じた。私はその歴史の道を歩いてきたのだ。
世界遺産:大峯奥駈道の説明板
三角形の岩が台座の上に設置されている花折塚には注連縄が張られ大切にされているように感じられた。そこには玉置神社まで約1時間、距離は2.3kmと表示されていた。しかし、玉置山展望台まで来て展望台に寄ることなく通過し林道に下ってしまった。20分ほど歩いて間違いに気づき展望台まで戻った。1時間のロスだった。展望台まで戻ると玉置神社は車道を歩いた先から山道に入るようになっていた。登山地図をきちんと確認していなかったミスだった。1時間をミスしたが玉置神社に申請した15時の到着時刻までには十分時間があった。こういう失敗をすると肉体的よりも精神的に疲れる。
カツエ坂を登って玉置山山頂に到着するとパラボラアンテナが3基建っていた。周りは石楠花苑になっているようだった。山頂からは杉の大木が生い茂る森の中を急激に下って行くと玉置神社の裏側に出た。神様が宿るという感じを受ける深い杉の森だった。
おみくじなどを売る場所に白い作務衣を着た青年がいたので「参篭許可証」を見せると、勝手口から社務所に案内された。社務所が斜面に建っているため、寝所は勝手口から右に折れ、地下になっていた。20畳くらいの広さの部屋で寝具の出し入れは参篭者本人が行うことが伝えられた。青年はお茶と蚊取り線香を持って戻ってきて、丁度お盆の時期なので参篭者の料理を作る賄いさんが4日間の休みを取って里に帰ってしまっているので、料理ができずインスタントラーメンでもかまいませんか、と聞いてきた。私はさすがにそれではだめだと言うと、では私たちが普段食べているもので粗末なものしか出せないが、それで構わないかと念を押されたので、それで結構ですと伝えた。
当初、私が大峯奥駈道縦走の計画を立てたときは玉置神社の展望台でツェルトによる野宿を考えていたのだが、持経ノ宿小屋と行仙宿小屋の管理している新宮山彦ぐるーぷ担当者に予約連絡をしたところ、玉置神社の宿坊に泊まるつもりならば、2週間前までの書類審査に通過しないと泊まれないので、先に玉置神社の宿泊手続きを取ってください、と教えられた。断られてもともとと思いながら玉置神社に電話連絡を入れ、既に出発1週間前と日時が過ぎていたので封書でのやり取りをFAXに変更してもらい、関係書類のやり取りを行ったところ、参篭許可証が送られてきた、という経緯があった。
青年がお茶を持ってきたときに風呂のことを質問すると、参篭者はお湯に入ることなくお湯を被る掛け湯程度にしてもらっているとのことで、通常、参篭者は17時ころに到着するため湯の用意はできておらず、これから準備しますとのこと。20分後に湯に呼ばれて風呂場に行き、掛け湯だったが久しぶりに熱い湯に触れることができホッとした気分となった。
17時に夕食の用意ができました、と声がかかり台所の隣の居間に案内されると、テーブルに並べられていた料理は、青年が言ったような粗末なものではなく、ナス焼きのおろしポン酢和え、焼きサバ、出汁巻き卵焼き、香の物3種、ごはん、味噌汁、デザートは蒸したモロコシ、というものであった。青年は賄いさんがいないと言ったが、宿直の神主が料理の得意な方で、その方が作ってくれたとのことだった。写真を撮っていいか、と訊ねるとプロの賄いさんではないので写真は勘弁してほしいと言われたので納得し、久しぶりにまともな食事にありつけた。
ナス焼きのおろしポン酢和え、焼きサバ、出汁巻き卵焼き、ごはん、味噌汁、の全てが美味かった。その旨を料理を作ってくれた神主さんに伝えるととても喜んでいた。玉置神社は熊野三山と言われる熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の奥宮に位置付けられ世界遺産に登録されている神社である。たまたまではあったが世界遺産登録神社の神主の手作り料理を食べた経験は考えてみると非常に珍しい体験になったと思った。
受付の青年は、料理ができる神官がたまたま宿直だったので料理品目がひとつ増えました、となんでも正直に話す人との印象を受けた。青年は独身だと思うが毎日神社に寝泊まりしており、神官は変わりばんこに宿直をし、3日〜4日連続で宿直をする場合もあるとの話だった。夕方3日連続の夕立がやってきた。
玉置神社参篭代金は1泊3食(夕食、翌日の朝食、お弁当)で7500円だった。領収書ではなく神納書という名前の受領書をもらった。7日目の行程は9時間で万歩計は35769歩、携帯電話は繋がった。
熊野三山の奥社・玉置神社
8日目 玉置神社宿坊〜熊野本宮大社
【8/17水】玉置神社(30)〜玉置辻(1:00)〜大平多山分岐(30)〜大森山(35)〜篠尾峠(35)〜五大尊岳(55)〜金剛多和(20)〜大黒天神岳(1:10)〜吹越権現(30)〜吹越峠(25)〜七越峰(60)〜熊野本宮大社(5)〜くまのバックパッカーズ 徒歩7:30
8/17:朝:玉置山神社宿坊朝食 昼:お弁当 夜:本宮大社前コンビニで食料購入
大峯奥駈道縦走最終日の朝となった。朝5時からNHKラジオのニュースを聞きながら空模様を確認するために窓を開けると本殿のほうから神主の祝詞の朗々たる声が聞こえてきた。その声が止むと柏手を打つ音が2つ聞こえた。やがて白装束の神主が現れ、本殿に向かって左のほうに歩いていき柏手を打つ音が聞こえてきた。この神主に昨晩は夕食を作ってもらったのである。なんという珍しい体験であろうか。
ラジオからは台風の接近で天候は不安定となっており近畿地方各地に大雨と雷注意報が出ている、と放送していた。更に、和歌山県北部の天気予報は北の風くもり時々晴れ、昼過ぎから夕方にかけてところにより雨が降り雷も発生します、とのことでまずまずの天気といえた。
朝食を6時30分に予約しておいたら受付の青年が時間ぴったりに呼びに来た。居間に行くと、ごはん、味噌汁、納豆、昆布の佃煮2種、大根の漬物、酢の物がテーブルの上に用意されていた。青年は何もなくてすいません、と恐縮していたが私はこれで十分だった。改めて真面目な青年だと思った。お弁当はまだ温かさが伝わってくる2つの三角お握りと香の物だった。北アルプスの山小屋などに行くと常に前夜作った冷たい弁当だが、玉置神社のものは当日の朝に作ったものと分かるものだった。
玉置神社の青年が握ってくれたお弁当
朝靄が濃い中を出発する。昨晩、今朝とまともな食事をしたためか足取りが軽く快調であることが自覚できる。杉木立の中を進んでいくと玉置辻に出た。大峯奥駈道の説明版が設置されていた。地理的概要、歴史的概要が日本語と英語で説明されていた。本宮の辻は林道の交差点になっており、正面の舗装していない林道に奥駈道は続いていた。林道を10分ほど歩くと右側に分岐していった。しばらくすると広島の青年が登山道を戻ってきた。どうしたの?と聞くと道を間違えてザックを置いたところまで戻るところだ、と言ってきた。なぜザックを置いて本来の登山道を探すのか分からないが、人それぞれだと思った。私ならザックを背負ったまま登山道を探すだろう。そうしないと折角登山道を探し出してもザックを置いた場所まで戻り、再度登山道まで戻る二重手間になるからだ。
大森山の途中で休憩をとった。朝から脚力は抜群に漲っているのだが急登は身体に堪えた。大森山山頂は杉と朴に囲まれた静かな山頂で本宮大社まで10.9kmとの表示があった。下りがきつくスリップに気を使った切畑辻、不動明王像が設置してあった五大尊岳を越え、出発してから4時間経過しコースの半分を過ぎたと思われる林の中で1回目の昼食を摂った。お弁当の包を開けると三角お握りが2個と大根と蕗の香の物が入っていた。お握りの中身は昆布の佃煮だった。前日の紅茶をペットボトルに入れてきていたのを飲みながら、お握りを美味しくいただいた。周りからオーシンツクツクという蝉の声が聞こえてきていた。
金剛多和、大黒天神岳、宝印塔と超えたところの林道脇に座って2度目の昼食にした。ここにも大峯奥駈道の説明版が設置されていた。そのとき食べたお握りは梅干しが入っていたが種は丁寧に取り除いてあった。
吹越山、吹越峠を次々に乗り越え、眼下に熊野川畔に建つ大斎宮の大きな鳥居が見える鉄塔の前の展望地に着いた。もうすぐゴールだと思ったのだが、期待に反してゴールの熊野本宮大社はまだまだ遠かった。
七越峰公園をまっすぐに横切り階段を登りつめたところが七越峰山頂で、石のお地蔵さんが祀られ西行法師の歌碑が立っていた。広場はラジオ体操をするようで鉄製の台も設置してあった。
七越峰山頂を超え熊野川までなだらかな稜線の下降を期待していたのだが、それから5つもアップダウンを繰り返しながら、やっと川原の堤防に出た。堤防には階段が作られロープが設置されていた。そのロープを握りながら川原に降りた。三日続きの夕立があったので水量が増加しているかと思ったが、水は澄んでおり水面下の石がはっきり見えた。これなら渡れると判断し、登山靴と登山ズボンも脱ぎスポーツサンダルに履き替え、川の流れに入っていった。川の流れは2つに分かれており、最初の流れのほうは水量が多く膝上までの深さだったが、2つ目の流れは膝下の深さだった。
流れを渡り終えると丁度、送り盆の精霊流しの名残りだろうと思われる石造りの人形や台座が多数残されていた。珍しいものを見た感じだった。
ザックを置き、シャツを脱ぎ火照って熱くなっている身体を熊野川の水に浸してクールダウンを行った。実に気持ち良い時間が流れて行った。
熊野川で火照った身体をクールダウン
クールダウンで身体の火照りを取ったあとは、いよいよ大峯奥駈道縦走のフィナーレである。八咫烏の旗が翻る大きな鳥居の前で麦藁帽子を脱ぎ一礼して境内に入った。長い階段を登り本殿に向かった。随分歩いたので足ががくがくだった。本殿は向かって左側から第1殿に始まり第5殿まであった。本殿の屋根は檜葺きの落ち着いた立派なものであった。第5殿まで参拝した15時50分に大峯奥駈道縦走は完成した。思えば8日前の8月10日8時45分に近鉄吉野駅を出発してから7日と7時間5分を経過しての熊野本宮大社への到着だった。我ながらよく頑張ったと思った。
本宮大社前の宿でシャワーを浴びた後に体重計に乗ったら57kgだった。出発時よりも5kg減っていた。この体重は高校生以来50年ぶりの体重だった。体重の減少は、歩いてきた大峯奥駈道が、いかに過酷な山岳道であったかを物語っていると実感できた。蕎麦でも食べながらビールで乾杯と思っていたが、本宮周辺の食べ物屋は全て定休日だった。しかたないのでコンビニでビールと肴を買い、宿に戻って8日間の厳しかった大峯奥駈道縦走を思い出しながら一人宴会を楽しんだ。
熊野本宮大社へゴール
携行品について
シュラフ、シュラフカバー、断熱シート、ツェルト、トレッキングポール、レインウェア、ザック、ザックカバー、登山地図、登山靴、インナーダウン上下、Tシャツ3枚、パンツ3枚、靴下3枚、長袖シャツ1枚、ヘッドランプ2個、予備電池、携帯ラジオ、カメラ、カメラ充電器、スポーツサンダル、携帯電話、携帯充電器、現金、記録帳、ボールペン2本、タオル、ティッシュペーパー、除菌ウェットティッシュ、バンドエイド、サロンパス、胃腸薬、錠剤ウコン、にんにく卵黄、洗濯ロープ、ナイフ、スプーン、フォーク、剃刀、空きペットボトル、麦藁帽子、サングラス、耳栓、ウィスキー500ml、文庫本、
食料について
朝食、夕食の基本は、牛肉と野菜の入ったレトルトカレー、ソーセージ、味噌汁とする。
行動食は、黒糖2袋、羊羹8個、柿ピー500ml*3個、乾燥バナナ1袋、とする。
行動について
真夏の最も暑い時期の山行のため日除けに麦藁帽子を被り、行動は午前中を基本とし朝6時には出発する。大汗をかくので熱中症に注意し水分を十分摂る。
後日談
熊野那智大社に参拝した帰りに「天然温泉:熊野の郷」に寄り、温泉に入浴したあとレストランで地ビールを飲みながら注文したマグロ丼を待っていたら、テーブルの隣に座った50代と思われる男性が「奥駈けをしたのですか?」と話しかけてきた。その男性も今回私が行った吉野から熊野までのコースを歩いたことがあり、来年は逆の熊野から吉野まで歩く予定だと話し、途中の山小屋やコースの状況などで話は盛り上がった。
奥駈けの実施時期について、その男性は8月の奥駈けは時期的に渇水期に当たり水場は枯れるし真夏の太陽で体力は2倍消耗するので全く考えられない。奥駈けを行うならば5月か9月がベストシーズンだと思う、と話した。
私は今回初めて奥駈けを歩いたのだが、真夏の時期に設定した理由は、雨が降ると鬱陶しく、濡れた岩稜歩きや上り下りのスリップを避けるためであった。渇水期を想定し水の確保を最優先することも想定内のことだった。コース内の水場の位置を登山地図で確認するのは勿論のこと、インターネットでの体験談などを詳細に分析し登山計画書に記載した。それでも水場は近畿地方が梅雨明けから全く雨が降っていないことによって枯れていることが多かったが、ザックに入れた水量は朝出発するときに吉野では2000mlから始まり3000mlまで増加し、最終日に玉置神社を出発するときは2000mlに戻していった。水分確保には苦労はしたものの、ほぼ計画通りに行ったと思う。
携行食料品関係については、無人小屋のため食料持参だが、最終日前日を玉置神社宿坊に参篭という形で宿泊予約を取り付けたため、2食分の重さが消えた。いかに軽量化するのかが長期縦走達成の鍵と考えていたので、この面でも巧くいったと思う。カロリー計算はしていなかったが、朝夕は牛肉と野菜入りレトルトカレー、味噌汁、ソーセージを主体とし、昼の行動食は柿ピー、黒糖、羊羹を主体とし、睡眠薬かわりに毎晩ウィスキーの水割りを飲んだ。このような食事は初体験であったがスタミナが切れることはなかった。注意点として山中行動中はレトルト食品主体の食事のため胃袋が小さくなっており、終了後に思いっきり食べると胃を壊す恐れがあることを十分考慮することである。私の場合、縦走終了後に暴飲暴食をしたつけが幕張に帰った後にでて胃腸が壊れ、キャベジンのお世話になった。
真夏の暑さと紫外線対策については、今回はいつも登山に使っている野球帽から大きめの麦藁帽子に変えた。麦藁帽子を使うことによって首から上の日焼けやサングラスを使わなくても紫外線から目を防ぐことができたと実感している。