長沢背稜を縦走する その2

酉谷山から雲取山へ

 

森の中に立っている人

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酉谷山(1718m)に着いた

 

10月13日 日曜日 晴れ 2日目

夜中にシカの物哀しく延びる鳴き声が聞こえていた。秋になるとメスを求めて盛りのついたオスの鳴き声があちこちから聞こえてくるのである。「奥山に 紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」という小倉百人一首の歌はあまりにも有名である。ちなみに花札の10月は「鹿に紅葉」である。4時半ころに小用に起きたら満天の星で、鷹ノ巣山の上に私の誕生星座であるサソリが大きくハサミを広げていた。今日は間違いなく晴れるだろう。富士山も素晴らしい姿を現すに違いない。

 

富士山を眺めながら夜明けのコーヒーを味わった

 

5時30分に窓を開けると、正面の鷹ノ巣山の右側に富士山がすっきりした姿を現していた。小屋の庇から雨垂れが落ちているので、夜露が溜まったものだろう。東の空が徐々に赤みを増してきた。眼の前に広がる山波がグラデーションとなって美しい。このような美しい自然の姿を見ることが山登りの一番の楽しみだ。富士山を眺めながら夜明けのコーヒーを味わった。マグカップに貼ってあるシールは、ツールドモンブランを歩いたときに宿泊したシャモニーのホテル・ポアンイザベルでもらったもので、ヨーロッパの最高峰のモンブランに登ったイザベルの姿である。当時の女性はスカート姿で山に登っていたのであり、200年後に日本の山ガールでもスカートにタイツ姿を見るようになった。

 

岩, 積み重ね, 古い, 泥 が含まれている画像

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林野庁が立てた都県境界見出標を探しながら進んだ

 

朝食を済ませたあと水場で1Lを補充し、一晩同宿した男性と挨拶を交わし、朝一番で酉谷山(1718m)に登った。徐々にガスが湧いてきており、周りがぼやっとした景色に変わっていった。酉谷山山頂にはコース表示板と山頂標柱が立っているだけだった。奥多摩の最奥の山なので記念写真をセルフタイマーで撮った。先に進むと踏み跡程度しかないので、林野庁が立てた都県境界見出標の赤印を探しながら進んで行った。縦走路と合流したのは小屋を出てから1時間ほど経った時だった。

 

森の中の木

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美しいブナの森のなかの縦走路を進んで行く

 

美しいブナの森のなかの縦走路を進んで行くと、昨日小屋で会った男性と同じタワ尾根コースを登って来たという75歳の男性と出会った。挨拶をして話しこむと、男性はくも膜下出血で開頭手術をしたあとから登山を始め、今年で12年になるという。学年は私よりも1年後輩だったが、言葉もしっかりと話す元気な方だった。人生は何が起きるか分からないので、自分のやりたいことを楽しみながら思いっきりやった方がいい、という点でお互いに意気投合した。彼も山登りを趣味として続けているから元気なのかもしれない。

 

緑の丘

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用途不明の滝谷ノ峰ヘリポート

 

9時に滝谷ノ峰ヘリポートに着いた。このヘリポートは有人小屋の雲取山荘とも離れているので、用途不明の位置にある。空には雲が湧き出し、今日も景色は期待出来ないかも知れない。歩き出してから3時間たって初めての休憩をとった。日差しが暖かく、そのまま横になりたい気分だった。それにしても実に静かだ。渡ってくる風の音だけが聞こえていた。

 

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登山道脇にあったツキノワグマの大きなウンコ

 

縦走路を進んでいくと道の脇に大きなツキノワグマのウンコがあった。上にカラマツの葉が散っていたが、まだ新しいものだった。水松山分岐を右折して、ひと登りした場所で休んでいると、ひとりの男性が登って来た。今日出会う2人目の登山者だった。挨拶だけで通り過ぎていったが、長沢山に着く手前でさきほどの男性が戻ってきた。再会するとバツの悪そうな顔をしていた。どうやら水松山分岐で直進と左折を間違えたようだった。危ない、危ない。「他人の振り見て我が振り直せ」である。

 

草の上にジャンプしている男性

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明るい長沢山(1738m)に着いた

 

明るい長沢山(1738m)山頂に着くと、東京都が建てた立派な山名標柱が立っていた。東京都と埼玉県境の山稜が長沢背綾と呼ばれているように、長沢山はこのあたりの山々の中心となっている山である。長沢山を過ぎると植生が随分違ってきて、アセビの木が目立ってきた。針葉樹と広葉樹の混合林になってきたが、相変わらずブナの木は黄葉しておらず、2週間くらい早かった感じである。

 

森の中の岩

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植生がアセビやシャクナゲに変わっていった

 

歩いているコースは殆ど登山者が入らないコースなので、踏み跡ほどの登山道を見つけ出しながら、ゆっくりと進んでいった。やがて岩山の様相を呈してきてアズマシャクナゲも出てきた。このあたり一帯がアズマシャクナゲの自生地だというから、花の咲く5〜6月は素晴らしいだろう。1時間ほど前から南側でヘリコプターが旋回している。遭難だろうか? 柱谷ノ頭からは岩山となった。ヒバが根を張り、滑るので緊張した。岩山を過ぎると明るい広葉樹林となった。

 

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ダケカンバの幹に張り付いた枝サンゴのようなコケ

 

ダケカンバの幹に枝サンゴのような形の苔が貼り付いていた。面白い形をした苔があるものだ。やがて芋ノ木ドッケの分岐点に出た。右に折れれば三峰登山口へ行く道で、私は左折して雲取山に向かったが、道が途中で通行止めとなり、迂回ルートが急ごしらえの酷い道だった。13時10分にようやく三峰登山口からのメインルートに出た。あと1時間くらいで雲取山荘に着くだろう。ここまでくれば登山道は整備された歩きやすいものとなった。

 

白黒の写真にテキストが書いてある看板

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道標に吊り下げられた二ホンジカ捕獲区域と時期

 

分岐点の道標に東京都環境局自然環境部が付けた「二ホンジカの捕獲を行います」という表示があった。内容を確認すると、増えすぎた二ホンジカを狩猟期間外でも捕獲するというもので、区域は今日歩いている長沢背稜の東京都側エリアが指定され、期間は土日祝日を除いて今年の8月13日〜来年の3月31日までだった。捕獲区域が広範囲に渡るので、効率的にシカの位置を確認するためにドローンを使うことも表示されていた。全国各地で増えすぎたシカの食害が自然の生態系を破壊し続けているのが現状である。

 

建物の前の家

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雲取山荘に着いた

 

テント場を過ぎて14時20分に雲取山荘に着いた。酉谷山避難小屋から7時間20分歩いたことになる。以前、雲取山荘に泊ったのは、今から36年前の1988年7月のことで、先代の新井さんが元気なころで2階の大部屋の炬燵に寝て、ノミに食われたことを覚えている。新井さんの手のなかでスヤスヤ眠っている天然記念物のヤマネを見せてもらったのがいい思い出だ。現在の雲取山荘は25年前の1999年に建て替えられたものだ。スマホの電波受信状態はアンテナが3本立っていたが、なぜか通信が不安定だった。小屋に入ってバッジを買ったが、雲取山は東京都の最高峰で、日本百名山に選定されている人気の山だけに、次々に宿泊者が到着する時刻だったので玄関は大賑わいだった。10分間休んだあとに水を補給して山頂避難小屋に向かった。

 

奥秩父登山の開拓者だった田部重治の記念碑

 

雲取小屋から登りだすと、間もなく右側に英文学者であり大学教授であった田部重治の記念碑があった。田辺重治は小暮理太郎とともに奥秩父登山の開拓者であり、登山道などない奥秩父山塊に入り、大雪で遭難し、死に損なったことなどを含め、困難ながらも登山道を切り拓いていった過程を詳しく『日本アルプスと秩父巡礼』で紹介している。記念碑は全日本山岳連盟が建てたもので、田部が初めて雲取山に登った26歳の時に詠んだ「奥秩父 はるか眺めて 雲取に 立ちたるわれは 若人なり」が、彫刻家北村西望の書と顔のレリーフとともに積まれた岩に嵌め込まれていた。

 

木 が含まれている画像

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鎌仙人の顕彰碑

 

急坂をゆっくり登って行くと、鎌仙人のレリーフという案内があったので、そちらのコースに進むと、大きな岩に鎌仙人の顔と功績が記されたレリーフが嵌め込まれていた。文章を読んでみると、本名富田治三郎は昭和初期に奥秩父の自然の美しさに感動し、約30年に渡り奥秩父の山男として、登山道を切り拓き、案内板を設置するなどの整備にあたったという。山道を歩くときはいつも腰に鎌を差していたので、いつからか鎌仙人と呼ばれるようになったとのことだ。現在の雲取山登山コースのなかで、日原林道が土砂崩れで通行止めのため、その先の富田新道を歩くことができないが、富田新道を切り拓いた人が鎌仙人とのことだ。

 

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今年2度目の雲取山(2017m)山頂だった

 

雲取山(2017m)の東京都側の山頂に着くと、5人が写真を撮り周囲を眺めていた。そのなかで若い男性にスマホのシャッターを押してもらった。東京都が立てる山頂標柱は統一した形でよく目立つ。携帯の電波が不安定で、ここでも通信はできなかった。富士山は雲のなかだったので避難小屋に向かった。

 

屋内, 窓, 部屋, 座る が含まれている画像

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毛布を借用して寝床を作った

 

雲取山は東京都と山梨県の境に位置する。山頂避難小屋は東京都が建てたものだが、山梨県側の山頂に建っている。7月の奥秩父主脈縦走の時にお世話になった避難小屋に着くと、今回も誰もいなかった。時刻が15時過ぎと早いので、これから来るかもしれない。着替えを済ませ、毛布が1枚あったので借用し、断熱銀マットの上に2つ折りにし、なかにシュラフを入れて寝床を準備した。

 

夕日の山

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男性に見せた酉谷山避難小屋から眺めた夜明けの富士山

 

防寒着を着て外に出ると、ウイスキーハイボールの缶を片手に暇そうな男性がいたので話しかけてみると、「三峰神社口から登って来て、夕陽を観に来た」と言ったので、「西側の方向は曇っているから、今日はだめだろう」と伝えた。「明日の日の出は6時ころで、5時30分には東の空が朱色に輝く」ことを伝え、スマホで今朝の日の出の富士山の写真を見せると感動し、「いい情報をもらったので、防寒対策をバッチリして明日朝の5時30分に出直します」と雲取山荘に戻っていった。

 

マップ

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2日目の登山活動データ

 

避難小屋に戻って焼酎の水割りを飲みながら夕食を摂っていると、ふたりの若者が入って来て夕食を食べ始めた。ふたりは21歳とのことで、「今日は、ここに泊まります」というので、賑やかになっていいと思った。ふたりの歩いてきたコースを尋ねると、健脚そのもののコースだったのでビックリした。「明日の最低気温は何度くらいになるでしょうか?」と訊かれたので、「今が12℃なので、ここのところ晴れているので放射冷却で、多分4℃か5℃に下がると想うよ」と伝えると、しばらくふたりは相談していて、「この小屋では僕たちの装備では寒くて耐えられないので、下の鷹ノ巣山避難小屋まで降ります」と言って出ていってしまった。

 

夕日が見える森

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雲海の彼方に頭を出した富士山が見えた

 

私も鷹ノ巣山避難小屋に寄ったことはあるが、雲取山頂避難小屋から3時間30分の距離にあるのだ。標高差は約550mあるので温度差で約3〜4℃違うが、鷹ノ巣山避難小屋への到着は21時ころになるだろう。ふたりが去ったあとで外に出て西を眺めると、雲海の彼方に頭を出した富士山が見えた。明日は素晴らしい日の出が拝めるだろう。

 

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