三谷大和スポーツ・ジム

 

日曜日の朝、父さんとの会話です。

「誕生日プレゼントは何がいい?」

「う〜ん 特にないけど・・・」
しばらくして
「サウナ・スーツが欲しい」
というやりとりのあと、千葉のスポーツ専門店に買いに出かけました。
サウナ・スーツは1階と2階に展示されていました。2階に展示されていたものが気に入り試着を済ませサイズを確認したあとに購入しました。値段は1万7千円でした。父さんがお金は払ってくれました。

「高かっただろう?」と聞いて見ると
「ん? 普通のスポーツウエアが1万円はするから、あれくらいだろう」との返事でした。
「ありがとう」

ボクシングを始めてから1年経とうとしています。
7年間学んだ空手の足捌きの癖がボクシングのステップに悪影響を与え、今ひとつ納得のいく動きが取れません。先輩にアドバイスを求めました。先輩は無敗の王者カルロスのビデオと三谷会長の世界戦のビデオを貸してくれ、アドバイスは、よくステップに注目し最初は真似でいいから自分で出来る型を何度も何度も練習を繰り返すことだ、と教えてくれました。悪い癖は一歩一歩自分で納得しながら直していけばいいのだと思います。

6日夜の練習は会長から「大の誕生祝にマスボクシングの相手をやってやるから、死ぬ気でかかって来い」といわれて対戦したけれど、とても歯が立たなかった。スピードが全く違う、ことを晩酌をしていた父さんに話しました。
会長からは一つ一つ自分の悪いところを変えていって5年間は真剣にやってみれば自然と結果は付いてくる、と言われています。自分の力がどのくらいのものなのか限界までやってみようと思っています。

 

三谷大和会長のメッセージです。

『たとえ1パーセントしか可能性がなくても、その1%にプライドを賭けて戦い、100%の自信に変えることができた・・・ボクシングを通して経験できた

決して自分ひとりの力ではありません。ひとりの選手をリングに上げるためには、スタッフや応援してくれる方々の大きなサポートがあるわけです。可能性を信じて、そんなみんながひとつになれるということは、本当に素晴らしいことだと思います。
『ボクシングは、徹底した自己管理の世界。ごまかしがきかないんです。強くなって勝ち上がっていくには、腕だけではだめ。』

『常日頃の自己管理が結果につながります。毎日、体温や体重、食事、練習のメニューといった内容をノートにつけて自分の体調を管理していました。そうして今自分が何点の所にあるか、体調のバイオリズムを把握しながら、ベストの状態に持っていくんです。』
『道の途中には、その時々するべきことがある。教職員資格の獲得もそのひとつです。』

『ベスト・バウトは、早稲田記念講堂で初めて世界に挑戦した崔龍洙との第2戦です。自分の母校で試合ができたことも嬉しかったし、満足のいく試合でした。最終回終了のゴングが鳴った時には、「ベルトを取った」という気持ちでガッツポーズをしたのを覚えています。』
『確信した! ’幼い頃から追い続けた夢を手にした瞬間’と 』

『しかし、ボクシングは私に夢ばかりを見させてはくれなかった。2度の世界挑戦、届きそうであと一歩届かなかった壁。その壁は低いようでいて、限りなく高かった。人間にはその壁がどんなに高かろうと、自分がどんなにボロボロになろうと、登っていかなくてはならない時期が人生にはある。結果がどうあれ、そこで自分を誇れるぐらい頑張りぬいた人間は、本当の強さを持てるのだ。』
『今の子供たちはかっこいいものにとらわれがちですから、後輩の指導でも、ボクシングがまず危険なスポーツであることを理解させて、そして自分の体をどうやって守るのか指導していきます。そういったメンタル面での基礎ができた上で、やっと実践の技術を教えられるんです。』

『アマチュア、プロを通して自分で経験した大きな財産がありますし、大学ではスポーツ心理学、メンタル・トレーニングなどの勉強を主にやってきました。21世紀のトレーニングというものを、ほかのコーチにはない教え方でやっていきたいと思っています。そして、科学的な取り組み方で無理な減量を無くし、選手の立場を理解して、選手一人ひとりにそった指導ができるジムを目指します。』

『選手生命は太く短く、人生は細く長く・・・ と決めていた。引退してからの人生の方がずっと長いのだから・・・』

三谷大和会長のアマチュアおよびプロの戦績です。

 

☆アマチュア戦績104戦91勝(62RSC)13敗
    アマチュア五冠王

・岡山県山陽高校 インターハイ優勝、

・早稲田大学   全日本チャンピオン3度
     ・国民体育大会優勝

 

☆プロ戦績16戦12勝(9KO)4敗

95年6月に日本タイトルを獲得

95年10月に東洋太平洋タイトルを獲得

96年1月27日 早稲田記念会堂 WBA世界スーパーフェザー級タイトルマッチ 判定負け

96年10月13日 東京体育館 WBA世界スーパーフェザー級タイトルマッチ 判定負け

世界王者・崔龍洙(韓国)に挑むもベルト奪取ならず

 

プロ9戦目にして世界挑戦を果たすがタイトルマッチは2戦ともに判定負けし、その後、東洋太平洋チャンピオンに返り咲いたが、1998年6月、下から上がってきた選手に負けた。

三谷大和は三迫仁志会長の『おれの下で(ジム経営を)修業する時期では』の言葉に引退を決意。27才の若さだった。そのとき思ったことは、「リングに必ず帰ってくる。リングに置き忘れた物があるから・・・」と。それは言わずと知れた世界チャンピオンベルトである。当事、出身地の岡山県・津山朝日新聞のインタビューに『これからじっくりトレーナーの勉強をして、10年あるいは20年後にジムを開きたい。焦らず下積みを重ね、どんなに強い選手が生まれても立派に育てられるよう、しっかり根を張ってから』と答えている。引退から4年後の2002年9月三谷大和スポーツ・ジムを創設し、千葉県内ジム初の世界チャンピオンを生み出す新たな《夢》が始まった、と。

 

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