高野山町石道と熊野古道・小辺路を歩く
高野山壇上伽藍・根本大塔
『紀伊山地の霊場と参詣道』がユネスコの世界文化遺産として登録されたのは2004年だった。紀伊山地には「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」の三つの山岳霊場と、そこに至る「大峯奥駆道」「熊野参詣道」「高野参詣道」などの巡礼道がうまれ、全国各地から多くの人たちが訪れた。歩いてみればわかるが奈良県、和歌山県、三重県にまたがる熊野山地は山、森、滝、川、温泉などの自然が実に豊富な山域である。
昨年、「吉野・大峯」から「熊野三山」への最も厳しい修験道の道である「大峯奥駆道」を7泊8日という日程で縦走した。結構厳しい行程だったが、そこを歩ききることによって紀伊山地の自然と触れ合えた実感があった。そこで今年は「高野参詣道・高野山町石道」と「熊野参詣道・小辺路」を接続して4泊5日の日程でのテント縦走を計画した。
1日目 4月27日 晴れ 高野山町石道
九度山の慈尊院から高野山西口大門まで続く表参道には180基の町石が立っている。今から1200年前の816年、高野山に真言密教の修業道場を開いた弘法大師空海が木製の卒塔婆を立てたのが始まりで、後に五輪塔形石製に建て替えられたのが現存する町石柱である。
JR和歌山駅で夜行高速バスを降り、駅前のコンビニエンスストアでおにぎりとお茶を買い、和歌山線に乗り橋本駅に向かう。橋本駅で南海電鉄高野線に乗り換え九度山駅で下車する。九度山駅の標高は94mで高野山の標高は867mなので773mを登ることになる。沿線には屋根瓦の立派な家や柿の木が目立つ。この地方の名物は柿の葉寿司である。
地図を確認しながら徒歩時間7時間の予定で約24kmのトレッキングに出発する。高野山町石道は慈尊院が起点だが、そこに行く途中に真田昌幸、幸村親子が関ヶ原の戦いに敗れて蟄居させられていた真田庵がある。門を入ってみると幸村旧宅の石碑の横に「千度石」が立っていたのには驚いた。願掛けの「百度石」というのは見かけることがあるが「千度石」というのを見かけたのは初めてだった。真田庵は牡丹が有名なところらしいが、まだ花は咲いていなかった。
慈尊院は空海に会いに来たお母さんが女人禁制のため高野山に登れないために住んでいた場所で女人高野と呼ばれており、お母さんは1年ほどで亡くなってしまったのだが、その間に空海は1か月に9度も高野山からお母さんに会いに降りてきたという。九度山の地名もここから取られているとのことである。その道が高野山への表参道となっており、現在の高野山町石道である。
丹生川の流れは透き通り、紫の藤の花房が風に揺れ、紀の川との合流点に鯉のぼりが空に泳いでいた。5月4日5日が「真田まつり」とのことで、赤備えの真田軍団になぞらえて赤の幟旗が町内のあちこちにたてられていた。180町石柱は慈尊院境内から丹生官省府神社に上る石段の右側に苔むした形で立っていた。
「弘法大師創建の社 高野山町石道登山口 丹生官省府神社」と石柱が立っている石段を登り、丹生官省府神社の赤い鳥居をくぐって拝殿まで進むと、木の板に墨で「世界遺産 丹生官省府神社 高野町石登山口」と大きく書かれた看板が表示されてあった。実際の登山道はどこに続いているのだろうかと探していると、境内から右わきに通じる道があるので進んでみると「179町石柱」が立っていたので以後178,177という具合に数を減らす道順で町石道を歩きながら高野山壇上伽藍にある第1町石を目指した。
丹生官省府神社石段の石の鳥居の右側に180町石が立っている
166町石を超えた展望台に上ると周りは柿の木畑であり、眼下に紀の川のゆったりした流れが見渡せた。「熊出没注意」の看板が見られるようになったが、クマ注意って言われてもなぁ、クマに出会ったらしょうがないなぁ、と思いながら進んでいく。ポンカンとイヨカンを売っている無人販売所があったのでジュース代わりに2個100円でポンカンを買った。頬を撫でる微風が心地よくウグイスの鳴き声も絶え間なく聞こえてくる。
六本杉峠に着くと町石道の説明版があり、木製卒塔婆は平安時代に立てられていたが1266年から20年かけて石製に建て替えられた旨の内容だった。町石道は慈尊院から壇上伽藍根本大塔までの180本と根本大塔から奥の院までの36本の合計216本が立てられていることも記されていた。峠の分岐を左に進むと天野の里を見下ろす展望台に着いた。木々の芽吹きもまばらな中に二つ鳥居が立っており、丹生都比売神社の遥拝所となっている場所なので眼下にのどかな佇まいの天野の里が見渡せた。のんびりした風景を眺めながらおにぎり一つとポンカン一つを食べた。ここまでで約3時間歩いたが出会った人は男性ハイカーが一人だった。実に静かな山道である。
歩を進めると神田地蔵堂周辺ではカエルの合唱が凄かった。山桜が咲き、水が緩み、田植えの季節となったのをカエルたちも喜んでいるようだ。明るい雑木林の中を進んでいくと眼鏡をかけた男性に出会ったのが二人目の出会いだった。太陽が顔を出しウグイスの声が聞こえる。「みまもり地蔵」と名付けられた赤い毛糸の帽子をかぶった小さな可愛いお地蔵さんに出会って間もなく矢立茶屋に出た。名物はやきもちと大きく書かれた看板が目立った。スタンプ所に「高野七口押印帳」があったので一冊いただき、矢立茶屋の印を押した。
15時を過ぎると風が冷たくなってきた。17町石手前で谷川に架かる木橋を修理している3人の方々に出会った。年齢は50代から60代と思われた。腐った場所を新しい木に交換し基部にはコールタールを塗っているようで独特の臭いがした。山桜の花びらが一面に散った山道を歩いていくとキツツキのドラミングの音が聞こえてきた。高野山は間近だ。
高野山壇上伽藍・大門
いよいよ大門に到着した。大きい。左右に構えている仁王像も立派だ。私は40年ほど前に高野山を訪れたことがあるが大門に来たのは初めてだった。更に壇上伽藍へと歩を進めると弁天前の枝垂れ桜が満開となり見事な桃色の花を流していた。伽藍柵内に第1町石があるのを確認した。伽藍山門をくぐると正面に渋く落ち着きのある金堂が建っていた。右側奥に朱と白のツートーンカラーに塗られた根本大塔が建っていた。境内には修学旅行で高野山を訪れた男女の高校生たちの写真を撮る姿が目立った。これで1日目の高野山町石道24kmのトレッキングが終了した。
2日目 4月28日 晴れ 熊野古道・小辺路(高野山〜水ヶ峰〜大股萱小屋跡)
小辺路は高野山金剛三昧院の入り口を右に曲がるのだが、桜が満開中という張り紙があったので立ち寄ってみた。門は空いていたが拝観時間は8時からでまだ受付がいなかったが、桧葺きの多宝塔に掛かる満開の桜の花が見事だった。林道になっている登山道を歩き大滝口女人堂跡に出た。ここにも熊出没注意の看板が立っていたので念のためザックポケットから2種類の鈴を出して取り付けた。鈴の音色が異なるので歩くたびにリズミカルな鈴の音が聞こえてくる。
クマ出没注意の看板
遠くから鼓を打つ時のようにポン、ポン、ポンと鳴くツツドリの鳴き声が聞こえてくる。南の島から渡ってきた夏鳥だ。この辺りは平坦な道が続くので歩きやすい。やがて薄峠に着くが見晴らしがない。ピンクのアカヤシオツツジの花が鮮やかに目立つ。今日は何人の人たちと出会うだろうか。
薄峠から標高を下げ御殿川まで降りてきた。槙が整然と植えられた林の中を歩いたが、周囲に石垣が積まれ平坦にならされていたので、以前は畑か住居跡であったのであろうと想像した。私は杉や桧の植林は見たことがあるが、槙の植林は初めてだった。植えられた槙は30cmほどの直径だった。
大滝集落に入っていった。広場に芝生が貼られ、東屋が建てられ、スタンプ所も設置された休憩所があり、感じが良かった。脇に熊野参詣道(小辺路)の説明版が建っていた。古道はやがて集落の中を通って杉林の中に入っていくが、トイレと水道を提供している民家の軒下に寒暖計が吊り下げられていたので気温を確認すると10℃だった。日陰に入ると肌寒い。
水ヶ峰集落跡を通過し「みどりと昆虫のビューポイント」と称される休憩所で昼食にした。西方向の見晴らしが素晴らしい。昼食といっても行動食なので柿ピーとスポーツドリンクだけである。柿ピーは米とピーナッツが原料なので行動食に合う。今回はワサビ味のものを500mlのペットボトル2本に入れて持ってきた。これまでにシジュウカラ、ヤマガラ、カケス、アトリ、ホオジロの姿を見た。ウグイスの声は絶え間なく聞こえている。
大股集落に降りる手前で間伐材を再利用した石垣ならぬ木垣を数か所で見た。直線の場合はそのまま切らずに間伐材を土留めに使うが、道がカーブしている場所では間伐材を1mほどの長さに切り、それで見事にカーブを作って木垣を作っているのである。見事なアイデアだと思った。
テント設営場所に考えていた萱小屋跡に到着したのは14時30分だった。熊野古道は特定のテント指定場所はない。従って野宿者はそれぞれ自分でテント設営場所を探すわけである。萱小屋跡は昔の茶屋跡で杉林の中で石垣に囲まれている。広場の片隅に地元の人が建てた小屋があり、鍵が掛かっていなかったので中を覗いてみた。右側に炉が切ってあり左側に二人ほど寝られるスペースがあった。置かれたノートには外国人の記述が多かった。前日も宿泊した外国人のメモが残されていた。飲料水は小屋を建てた人がどこからか引水をしており、小屋の右側にパイプから流れ出していたのをありがたく使わせていただいた。
その夜は雨が降りそうもないので、私はあえて小屋に泊まらず広場にツェルトを張った。夜遅く小屋に到着した人が外でテントを張るのは大変であり、そのまま小屋に転がり込めたらどんなにか助かるだろうと考え、小屋は空きのままにしたのだ。案の定、夕暮れ近くやってきた登山者は小屋が空いているので、「ラッキー、助かったー」という言葉を発していたのがツェルト内の私の耳に聞こえてきた。
大股地区萱小屋跡でツェルトを張る
今日から熊野古道の小辺路に入った。小辺路は4日間に分けて歩くつもりだ。1日目は高野山から萱小屋跡までの18.7kmを7時間20分。2日目は萱小屋跡から三浦峠までの19.1kmを8時間20分。3日目は三浦峠から果無観音堂までの18.3kmを7時間。そして最終日の4日目は果無観音堂から熊野本宮大社までの15.0kmを5時間30分の予定である。
現在、私の体の状態は左膝関節周囲炎と診断され、左膝に水が溜まっている状態であり、船橋整形外科病院でリハビリテーション中である。医師や療法士から無理をしないように言われているが、今回の山行は5月の侍マラソン、7月のヨーロッパアルプスモンブラン一周トレッキングの予行演習の意味合いを兼ねて、無理は承知の95kmトレッキングである。自分の体は自分が一番知っているのでマイペースで体の具合と相談しながら計画を一歩一歩進めていこうと思う。
3日目 4月29日 晴れ 熊野古道・小辺路(大股萱小屋跡〜伯母子峠〜三浦〜三浦峠)
小屋に泊まった単独行者は既に出発した。杉林の中の登山道をゆっくり登っていく。桧峠に着く前にコガラの群れに出会う。何度見ても可愛い野鳥だ。周りの木々はまだ芽吹く前だ。今日も快晴なので気持ちも弾む。伯母子岳が前方に三角形の山頂を見せている。キツツキのドラミングの音が間近に聞こえてくる。
伯母子岳分岐に着くと小辺路は山頂を踏むことなく左に分岐しているのだが、急ぐ旅でもないので山頂を踏んでから伯母子峠に向かうことにした。分岐から15分ほど登ると伯母子岳山頂に到着した。1344mの山頂は、ぐるり360度の大展望だ。山名は分からないが見渡す限りの峰々がグラデ―ションに重なり合って見事なものだ。山頂には私一人がいるだけだ。大空には雲一つ浮かんでいない。白いアセビの花がひっそりと咲いているのが印象的だ。写真を一枚写す。
伯母子岳山頂
山頂をあとにして無人小屋が建つ伯母子峠に向かう。峠に建つ小屋は真ん中に土間があり、両側は5人ほど泊まれる板の間となっていた。小屋の中にノートが置かれており、昨晩は登山道を補修する方が2名泊まったと記入されていた。トイレは小屋の両側に設置されていた。
峠から下っていく道は30cmほどの細い道で左側は崖であり、崩れている場所がたびたびあった。崖に落ちないように注意しながら歩を進めた。崩落場所は補修してあり、昨晩小屋に泊まった人が修理したものと思われた。春の連休には登山者が訪れるのを見越して対応しているものと思われた。ありがたいことである。
太いブナ林の中で3羽のカケスを見かけた。カラスの仲間であるカケスの姿は美しいが、鳴き声はだみ声でいただけない。カケスが美しい声で鳴いたならば、もっともっと人気の出る野鳥だろう。綺麗に澄んだ美しい声で鳴く茶色のコマドリにも出会った。鳴き声は繊細で美しかった。足元の枯葉の中からピンクの花を覗かせるスミレの花や頭の上に覆いかぶさるツツジの花や満開の真っ白なコブシの花が目立った。
かつては旅館をしていたという上西家跡に着くと苔むした石垣と立派な赤松だけが往時の繁栄を物語っているように残っていた。説明版を読むと昭和9年(1934年)までは人が住んでいたようだが、その後は無人となったようだった。登山道以外には立ち入り禁止のトラロープが張られていたが、平らな場所にテント泊をした人がいたようで張り綱の形で石が残されていた。やがて登山道には木の表示と同時に「歴史の道」という石柱が立つようになった。この石柱は昨年歩いた大峯奥駆道に立っていたものと同一のものだった。
水ヶ元茶屋跡に来ると弘法大師坐像が石壇の上の祠の中に納められていた。祠の屋根は銅葺きの立派なもので、中の弘法大師はにこにこ微笑んでいるように感じられた。大師の前になぜかヨーロッパチロル地方の焼き物と思われるミニチュアの白い靴が置かれていた。
水ヶ元茶屋跡に祀られている弘法大師坐像
登山道を歩いていると様々なものと出会う。とぐろを巻いていたアオダイショウにも出会った。私の足音に驚いたのか下のほうにくだっていったが体長は80cmほどだった。ヤマカカシにも2度出会った。前方1mの距離で完全に戦闘態勢をとっているマムシに出会った時には本当に驚いた。尻尾を左右に小刻みに振りながら目はしっかり私を睨みつけ口から舌をちらちらのぞかせ、今にも飛び掛かってくるような態勢だった。私は一瞬たじろいだが、右手に持っていたトレッキングポールを伸ばしてマムシをひっくり返し、ポールに乗せて谷側に放り投げた。マムシの色合いが普段見る赤がかった灰色ではなく、全体的に茶色で黒の銭形文様も鮮明ではなかった。それと胴から尻尾にかけて徐々に細くなるのではなく、胴から細い尻尾がちょこんと付いているような体形をしており、胴がもう少し太かったならば昔ブームとなったツチノコとそっくりな体形をしていたのである。
私がザックに着けている鈴の音とは違う音が後ろから近づいてきた。その鈴の主は「おはようございます。お先に失礼します。」という声を残して私を追い抜き、あっという間に私の視界から消えてしまった。20代と思われたトレイルランナーだった。今日は祝日なので練習をしているのだろうと思った。
三浦の集落まで降りて神納川に架かる船渡橋(弁慶橋)を渡ろうとすると、橋の袂の家のお父さんからシャッターを押してあげましょう、と声がかかり遠慮なく「小辺路」の表示板を入れた写真を撮った。親切なお父さんで私が三浦峠の東屋でテント泊をする旨を伝えると、橋を一緒に渡りだしながら三浦峠の場所を指さし、峠のすぐ手前の水場のことも説明してくれた。
船渡橋(弁慶橋)の吊り橋を渡る前で写真を撮ってもらった
三浦峠の手前の水場で乾いた喉を潤していると2匹のカエルがひっきりなしに鳴いている。どうやら石垣の隙間に住み着いているようだった。周囲の山で植林をしていない場所は若葉の輝きとともに山桜が白や薄桃色がモザイクのように散りばめられ実に美しい光景だ。桜の名所である吉野山を彷彿させる。
三浦峠に到着するとすぐに東屋内にツェルト張った。週間天気予報によると29日は不安定な気圧配置となり、全国各地で雷雨が来る旨が伝えられていたからである。案の定、晴れていた空はにわかに黒雲と変わり雨が降り出し雷鳴がとどろいたのであった。
東屋で休んでいると4人のトレイルランナーが登ってきた。30代の彼らは大阪から高野山へやってきて9時に走り出し、今日中に熊野本宮大社まで走り抜けるとのことで、去年もこのコースを走ったとのことである。約70kmの小辺路コースで三浦峠は中間点にあたる。私は3泊4日で縦走しているが一日で完走するとは過激なことをするものだと感じた。4人のランナーはおにぎりを食べるとゴールに向けて走り出したのだった。
雷雨も30分を過ぎると太陽が再び顔を出し、雷は西のほうに過ぎ去ったようだった。三浦峠に水場はないが、トイレの手洗い水は天水(雨水)であり、飲料に適さない旨が書かれていたのだが、煮沸すれば問題はない。中部山岳地帯の山小屋などでは常時雨水利用である。昨年の大峯奥駆道縦走時は荷物の軽減のため燃料、ガスバーナー、コッフェルなどは持参しなかったが、今回の山行ではジェットボイルを持参していたので食事時には味噌ラーメンを作って食べた。焼酎1合を飲みながら親子丼、ソーセージ、チーズ、黒糖バナナ、柿ピーなどを肴に野鳥の声を聴きながらの食事であった。
4日目 4月30日 晴れ 熊野古道・小辺路(三浦峠〜昴の郷〜果無観音堂)
朝早くからポンポンとツツドリの鳴き声が聞こえるが、明け方非常に特殊な体験をした。どのような体験かというと、久しぶりの山歩きに疲れてぐっすり眠っていたのだが、2時ころから4時ころにかけて3秒ごとに規則正しく鳴るチリリーン、チリリーンという鈴の音を聞き続けたのである。最初はごく小さな音だったが、徐々に大きくなりツェルトのすぐ脇で鳴っているようにも聞こえ、やがて鈴の音は遠くに去っていき、再び近寄ってくるということが連続していたのである。私は幻聴でも聞いているのだろうか、と何度も確認してみたが幻聴ではなく確かに鈴の音が聞こえるのであった。目を開けば薄暗い中でもツェルトの地色が見えた。真夜中に峠越えをする旅人などはいないし、遠い昔に行き倒れになった巡礼者の魂が彷徨ってでもいるのだろうか、と思わざるを得なかったのである。背筋がぞくぞくしたが、例え襲われても殺されはしないだろうと思いながらシュラフの中に潜っているうちに、やがて朝を迎えたのであった。私にとって初めての体験であった。
朝食に味噌ラーメンとカレーを食べて次の野営地である果無観音堂に向けて出発した。コマドリやウグイスなどの野鳥の鳴き声を聞きながら枯葉の絨毯をサクサク踏みながら歩いていくときの清々しさが心地よい。矢倉観音堂に到着したので観音堂の扉を開けてみた。中には3体の石仏が置かれていた。いずれも穏やかな顔をしている。さらに降っていくとリスに出会った。かなり大きい。体長は30cmくらいだろうか。
外国人女性トレッカー2人、日本人女性ランナー、日本人男性トレッカーと相次いですれ違う。外国人は女性でも単独で歩いているのによく出会う。冒険心が旺盛といおうか、好奇心が旺盛といおうか、日本人に比べて個性が強いのだと思う。2羽のトンビがピーヒョロ、ピーヒョロ鳴きながら上空高く舞いあがり、藤の花には熊蜂がぶんぶん羽音を立てながら舞っている。スズメバチは恐ろしいが熊蜂は人を刺さない。
昴の郷の足湯に浸かり、ビールで乾杯
「昴の郷」に到着したので日帰り温泉につかり山旅の疲れを取ろうと思ったが、あいにく12時から営業とのことで温泉に入れない。案内を見ると足湯があったので自動販売機でビールを買い込んで足湯に入り足の疲れをとることにした。柿ピーをツマミにビールを飲んでいると、アイスクリームを食べながら20代の女性が足湯に入ってきた。話してみると、とても素直な女性だった。奈良県生まれで現在は大阪で働いているが、連休のため生家に帰省し、昴の郷には昨日から宿泊していた。今日は果無集落まで遊びに行ってきた、とのこと。私が夏のヨーロッパアルプスのトレッキングの準備のために高野山から熊野本宮大社まで熊野古道を歩いていることなどを話すと、私のおじいちゃんとおばあちゃんは高野山に住んでおり、お父さんは趣味が山登りなので話が合いそう、などと目を輝かせる。昴の郷では1時間ほど休憩し果無観音堂に向けて再出発した。
西川に架かる吊り橋を渡ると果無集落まで急登であった。昴の郷で飲んだビールが汗となって吹き出してくるようだった。熊野古道はたびたび民家の中を縫うように伸びている場合がしばしばだ。果無集落の場合もそうで民家の中に古道が伸びている。黒色の塩化ビニール管によって山のどこからか引かれてくる水が流れ出し、田植えの準備も始まっている。畑ではイノシシやサルからの被害を防ぐために電気柵やネットが張りめぐらされている。ネットを張ること自体大変な出費だと思うが、作物ができる時を見計らってイノシシやサルたちは1年間の労力を嘲笑うかのように失敬してしまうのだから質が悪い。
自然石に世界遺産と彫り込んだ石碑が立っていた。空は晴れあがり連日快晴だった。山々はますます緑を増すようだった。沢山咲いているシャクナゲのピンクの花が目に眩しい。吊り橋を渡り、シャクナゲの花を見るとネパールの旅のことが思い出された。
宿泊地に予定していた果無観音堂には14時前に到着した。観音堂の扉を開けてみると中央に観音さん、左側に千手観音さん、右側にお不動さんの3体の石仏が安置されており、ビールが10本ほど供えられていた。境内の隅に飲料水として山のどこかから引かれてきた水がパイプから勢いよく流れ出ていた。ありがたいことである。観音堂の脇にはテントが5〜6張りは十分に張れる広さがあった。早速、今回の熊野古道歩きでは最後の晩となるツェルトを張った。
ツェルトを張り終わると間もなく一人の外国人青年が峠から降りてきた。話してみると36歳のマレーシア生まれで、現在は香港に住んでおり、2週間の休みを取って日本にやってきた。日本語はアメリカに留学していた15年前に習ったが使うのは久しぶりとのことだったが、意味は十分に理解できた。観音堂の扉を開けて中の石仏が青年と一緒に写真に写るようにして写真に撮ってやったら喜んでいた。
旅は人間を豊かにしてくれると思う。それは一度きりかもしれない人々との触れ合いを通して、それまで自分では気が付かなかったことが出会った人とのほんのわずかな会話の中に感じることがある。それが大切なことに思われる。ものごとを自分なりに考え、新たな段階に進むことは自己自身の変革であり、人間は常に変わっていくのものだと思う。私は現在68歳。いつまで生きられるかは分からないが、これからも興味を持ったものは自分なりに掘り下げて追及していこうと思う。
5日目 5月1日 晴れ 熊野古道・小辺路(果無観音堂〜三軒茶屋跡〜熊野本宮大社)
昨夜は一晩中、カエルの合唱が続いていた。ケロケロなどという優しい鳴き声ではなく、ゲゲッ、ゲゲッ、グゲッ、というように喧嘩を思わせる過激で大きな鳴き声だった。恋の季節を迎え、カエルたちは恋人を探しているのだろう。
朝が白々と明けてくるとウグイスやシジュウカラが鳴きだす。その鳴き声を目覚まし時計代わりにしてまだ5時前だがシュラフの中から起きだし朝食の準備を始める。味噌ラーメンを食べているころに朝日が顔を出し夜が明けたのを実感する。ツツドリの鳴き声があちこちから聞こえてくる。
最後の峠である果無峠を越えると標高をどんどん下げていく。急な石畳の道に枯葉が積もり滑りやすい。雨などで濡れていたら歩きにくいだろうなぁと思いながら降っていく。古道脇には「西国33ヶ所観音」が設置されており、その番号が減っていくのに伴い、1番観音が置かれている八木尾集落が近づいてくる。
木々が切り開かれた見晴らしのいいところで大きく屈曲しながら流れる熊野川と本宮町が見下ろせた。いよいよ熊野古道歩きも最終場面を迎える。クヌギ林の中を歩いていると足元に白いものがあるのに気が付いた。目を凝らすとギンリョウソウだった。葉緑素を持たない真っ白な植物である。馬の顔のような形で2か所に生えていた。久しぶりに見た植物だった。トカゲが私の足音に驚きながら石垣の隙間に逃げ込み、アオダイショウが登山道を横切る。今回の山旅では爬虫類にたびたび出会った。
熊野本宮大社神門へゴール
本宮町に入り「みちの駅ほんぐう」というのが目についたので入ってみた。道の駅では地元の特産品が販売されているのは当たり前だが、ここは食料品全般を販売するスーパーになっていた。早速、缶ビールとごま豆腐を買った。ごま豆腐は高野山名物と書かれていた。偶然にも今回のトレッキングの出発点の高野山で作られたものを終了点間際でいただくことになった。のど越しのビールの味は勿論だが、ごま豆腐はもっちりしていてとても美味しかった。
熊野古道の小辺路は三軒茶屋跡で同じ熊野古道の中辺路と合流する。小辺路を歩く人は少数なので出会いも少ないが、中辺路は観光化されているため一挙に人数が増えた。三軒茶屋跡でイタドリの漬物を売っていた80歳のおばあさんと話したが、毎年5月3日から5日の連休には1日で1000人を超える観光客で大賑わいになるという。
私の95kmにわたる4泊5日のトレッキングの終了点の熊野本宮大社には裏門から入っていった。杉の大木が鬱蒼と生い茂る中を歩いていくと拝殿の左側に出た。脇に日本で唯一の真っ黒い郵便ポストがあった。昨年、熊野本宮大社を訪れたときは黒いポストがどこにあるのか分からなかったが、ポストは目立ちにくいところにあった。神門に向かって歩いていくと、写真写しましょうか、と声をかけられた。私と同じ年ごろと思われた方は大峯奥駆道を歩いて本宮に到着したばかりだという。私も昨年歩いたことを話し、お互いにカメラのシャッターを押しあったのである。
神門を潜った中では一応写真撮影は禁止とされているが、誰もが遠慮なく撮影している。私もシャッターをお願いし、証誠殿をバックに2枚写してもらった。昨年8月に熊野本宮大社を訪れたときは人もまばらであったが、今回は春の連休中ということもあり、多くの参拝客で賑わっていた。神門を潜った時点で今回の高野山町石道と熊野古道・小辺路を繋いだ95kmのトレッキングは終了を迎えた。新宮市の神倉神社に向かうバス時刻に間があった。熊野川の堤防に上がり桜の木の下で風に吹かれながら、長かったトレッキングの完了と旅で出会った様々な出来事の感慨に浸り、大斎原の日本一の大鳥居と参拝客をみていたのである。
神倉神社のご神体であるゴトビキ岩