我が胸の 燃ゆる思ひに くらぶれば・・・

 

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韓国岳山頂1700mでの記念写真

 

今年のMMC夏山登山は九州の霧島山登山を計画し5人で出かけた。今回の参加メンバーは、サッカーで左踵を骨折しギブスが取れて間もないポパイ吉原、5年振りに闘病から復活した二枚目米山、ITエンジニア小林、いつもせっかちで忙しない山本、それとエイトマン岩井の5人だった。最初は7人参加の予定だったが、心臓バイパス手術を受けたチビッコ小沢、仕事の研修関係で抜けられないデブトラの碓井の2名が泣く泣く不参加となった。私は11月のネパール登山の準備として7月の富士山、8月の荒川三山、赤石岳に引き続き、今月は鹿児島県の霧島山登山となった。16年前に霧島山登山に出かけた時は、韓国岳から高千穂峰までの単独縦走登山だったが、今回は4年前に400年振りに爆発した新燃岳火口の縁を通っている縦走路が通行禁止のために縦走登山は出来ず、韓国岳と高千穂峰の両山への日帰り登山だった。霧島温泉郷のホテルに宿をとり、朝晩の温泉入浴、飲み放題、食い放題の堕落した登山だったが、天候にも恵まれ気持ちのいい登山となった。

 

今回の山旅は、阪急交通社企画の『鹿児島 霧島温泉郷ゆったり滞在4日間』を利用し、深田久弥の『日本100名山』に選定されている霧島山に登ろうというものだった。私たちの登山は毎回そうだが、登山コース選定や登山ガイドも自前で行うため、旅行会社で企画している登山ツアーの約半額で行くことができる。今回の日程は、1日目が羽田空港から鹿児島空港経由で霧島温泉郷の霧島観光ホテルで宿泊。2日目は、えびの高原まで霧島連山周遊バスに乗車し、韓国岳登山口から硫黄山を経由して韓国岳に登頂し、大浪池を回って大浪池北側登山口に下山し周遊バスでホテルに戻る。3日目も霧島連山周遊バスに乗り高千穂河原で下車し、高千穂峰山頂までの往復登山で再び高千穂河原に下山し、霧島連山周遊バスでホテルに戻る。4日目は霧島神宮にお参りしたあとで鹿児島空港から羽田空港に戻る。という3泊4日の日程を設定した。費用は飲み代バス代を入れて約4万5000円だった。

 

1日目は朝5時のニュースを見ていると、台風18号が東海地方に上陸し日本列島を突っ切り日本海に抜ける予報で台風の通過する東側は大雨が予想されていた。その関係で羽田空港発のJAL便、ANA便の全便が欠航模様とテロップが流れた。しかし、台風は日本海に抜けて温帯低気圧に変わるので大丈夫だろう、と予想していた通りに6時30分の始発から正常に運行されていた。この台風通過後の大雨が関東東北各地で堤防決壊の大水害を発生させたのは霧島温泉郷に到着後に知ったことだった。

 

2日目の韓国岳登山は当初は大浪池登山口からの往復登山を考えていたが、同行者からえびの高原からの登山路が解禁になったようだとの情報が入ったので、鹿児島空港内の観光案内所およびえびのエコミュージアムセンターに情報確認したところ、5月1日にえびの高原ルートの入山禁止が解除されたことが確認できたので、急遽、登山コースを変更して韓国岳登山口から登ることになった。変更後のルートは私が16年前に登ったルートであり、大浪池ルートよりも楽に山頂まで登ることができるのである。

 

途中の硫黄山は今も火山活動が活発のために立入禁止となっているが無視して山頂まで登って行った。注意深く周りを見渡しながら登山道を登って行ったが、硫黄ガスが吹き出しているような個所は見えなかった。山頂には5mほどの大岩が聳えており、その大岩の上に登った。甑岳や白鳥山の火山湖が見えた。硫黄山山頂から登山道に戻り、1合目ごとに立っている標柱を確認しながらゆっくりと登って行った。最初は樹林の中の登山道も7合目を過ぎると岩山の登山道へと変わり、爆裂火口の縁を歩いて行く形となる。縁は崩れやすいので旧登山道から新登山道に代わっている場所が度々現れた。

 

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韓国岳山頂から眺める新燃岳(手前)と高千穂峰(奥)

 

360度が見渡せる韓国岳山頂に到着すると新燃岳の向こう側に端正な形の高千穂峰が聳え立っていた。霧島山は22の火山群の総称であり標高が一番高いのが韓国岳であるが、深田久弥は高千穂峰を霧島山の代表にあげている。私も姿形が素晴らしい高千穂峰を霧島山の代表としたほうがいいと思う。韓国岳山頂で1時間ほど昼食休憩をとり大浪池を回って登山口まで下山した。

 

3日目の高千穂峰登山は雲ひとつなく晴れあがった快晴のもとでの登山となった。関東地方では鬼怒川の堤防決壊で大きな被害が出ていることをテレビニュースで放映していた。遊歩道の樹林帯を抜けると歩きづらい砂礫の登山道である。赤茶色の岩場の直登が登山コースに設定されていたが、私は指定されたコースよりも左側にあった砂礫の登山道を登った。ぐずぐずの登山道のため足は度々ずり落ちる状態で実に登りづらい。登り始めて50分ほどで御鉢の縁まで登って一休み。後ろを振り返ると桜島が煙を噴き上げているのが見える。眼下の錦江湾に浮かび煙を吹きだしている桜島を見ていると、37歳で刑死した筑前藩勤王志士・平野国臣が歌った有名な「我が胸の 燃ゆる思ひに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」を思い出した。

 

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逆鉾が刺さる高千穂峰山頂

 

 御鉢の縁で一休みしたあと、再び山頂に向かって歩を進める。御鉢の中の断層が見事だ。16年前に登った時は御鉢の底から微かな水蒸気が上がっていたが、今回は全く出ておらず御鉢の底を歩いた足跡がいくつか確認できた。御鉢の縁を半周回ったところからいよいよ山頂に向かって再度登り始める。登り易いように段々を付けてあるのだが、一歩一歩ゆっくりと歩いて行くことに変わりはない。やがて真っ青な青空のもとで銅の逆鉾が刺してある山頂に到着した。古事記や日本書紀によるとニニギノミコトが高千穂峰に天孫降臨したという神話の世界を日本発祥の地として今に伝える高千穂峰山頂である。

 

 1日前に登頂した韓国岳が新燃岳の向こう側に望めた。新燃岳は火山爆発の際に吹きだした火山灰で覆われているために山全体が灰色をしている。火山流が流れた所は溝のようになっているのが確認できた。現在では新燃岳の火山活動も下火になっているが、東日本大震災後に日本列島各地の火山が活発な活動を始めているので、韓国岳から高千穂峰縦走路の通行禁止が解除されるのは何時になるのか分からないだろう。

 

 山頂には現在は営業していないのだが16年前に宿泊した山小屋が残っていた。私が泊まった頃は既に高千穂峰登山は日帰り登山が主流となったため、宿泊予約が入った時にのみ山小屋の主人が下から登ってきて対応していた。そのお爺さんが暫くして亡くなった後は山小屋の営業を終了したと山の情報誌で知った。私が泊まった夜に小用で外に出た時の星数の多さと錦江湾に映る灯りが見事だったのを昨日のように思いだした。山小屋の入り口の扉に鍵は掛かっていなかったが入るのは躊躇われた。

 

 4日目は鹿児島空港出発までに時間があったので霧島神宮の参拝に出かけた。霧島温泉郷から路線バスで30分の距離だった。赤く塗られた神橋を渡り長い石階段を上り詰めると大きな鳥居の向こうに、緑の杉木立に囲まれて、赤い、白い壁、緑の屋根、という色彩で霧島神宮の拝殿と本殿が建っていた。どこの神社でもそうだが、静かな境内に三々五々家族連れや観光客がお参りし、お札やお守りを買う姿が見られた。私は神杯を買い求めた。私が霧島神宮にお参りするのは2度目だった。

 

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杉木立に囲まれた霧島神宮

 

 霧島温泉郷にもあったが、霧島神宮にも坂本竜馬とお良の「日本初の新婚旅行」の掲示板が立てられていた。1866年(慶応2年)坂本竜馬が薩長同盟を成立させた2日後、京都の寺田屋で京都奉行所役人による襲撃で手傷を負い薩摩藩邸に匿われたあと、湯治目的で妻のお良とともに薩摩藩家老・小松帯刀や西郷隆盛らに同伴され霧島温泉郷に遊び、高千穂峰に登頂したことが史実として残っている。88日間の旅だったとのことであるが、これが「日本初の新婚旅行」と言われ観光客の呼び込みのひとつとして使われているのである。竜馬は翌年1867年、徳川慶喜が大政奉還を上奏した1ヶ月後に京都の近江屋で中岡慎太郎とともに見廻組の襲撃を受け絶命した。翌年1868年、徳川幕藩体制は崩壊し明治維新となった激動の時代であった。日本歴史上の人物の中で最も人気のあるのが坂本竜馬ではなかろうか。

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