クジラの町の烏場山へ

 

森の中に立っている男性

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新日本百名山の烏場山266m山頂

 

 3月3日 晴れ

 南房総の和田町にある烏場山へ出かけた。標高は266mである。冬の時季は標高1000m以上の山には雪が積もっているので、近くの里山を歩くことにしている。今回のコースはJR和田浦駅から歩きだし、花嫁街道を歩いて烏場山に登り、下りは花婿コースからJR和田浦駅の戻るという約12kmで5時間の予定であった。地元の「和田浦歩こう会」が廃道となっていた古道の倒木を除去し、道標を立てるなどして「花嫁街道」「花婿コース」と名付けて安全に歩くことができるように整備した人気のハイキングコースである。

 

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JR和田浦駅

 

 自宅を5時10分に出た。総武線に乗り千葉駅で内房線の君津行きに乗り換えた。更に木更津駅で安房鴨川行きに乗り換え、登山口の和田浦駅に着いたのは8時37分だった。浜金谷駅近くから東京湾越しに富士山が見えるのだが、今回は春霞がかかっており富士の姿は見えなかった。登山記録を取るためにGPSをセットして歩き出した。空は雲ひとつなく晴れあがっており、トンビが上昇気流を捕え、大きく円を描いていた。実に気持ちよさそうだった。駅前を右折し花嫁街道の入口に向かった。周りには黄色い菜の花がたくさん見られた。

 

山の景色

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烏場山方面を眺める

 

気温がまだ10度に達しておらず、肌寒いために着ているダウンジャンパーを脱ぐことができなかった。房州はマキの木で敷地を取り囲むことが多い。このあたりもその例に漏れず、綺麗に刈り込まれた生垣が美しい。これから向かう花嫁街道の由来は、山間部にある上三原の集落と浜辺の集落との間を結ぶ交流の道は、かつて生活物資の運搬や通学路として利用され、嫁入り道具を揃えた花嫁行列も下ってきた道だった。その古道がハイキングコースとして整備されたあとに「花嫁街道」と呼ばれるようになったとのことだ。

 

温室の中の花

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ハウス内で栽培されていたストック

 

 和田町は切り花栽培の発祥の地であり、約90年前に最初に切り花栽培を始めた間宮七郎平は、房州の花の開祖と言われている。ビニールハウスの中を覗いてみると、白、ピンク、赤紫のストックの花が咲いていた。そのストックは切り取られることなく残っているように見えた。隣のハウスではカーネーションが育ち、赤い蕾が目立った。コロナ禍の影響により切り花の需要が減少し、刈り取られることなく残っているのだろうと思われた。稲作農家もコロナ禍で米が売れずにピンチに陥っているが、花栽培農家も厳しい立場に立たされているようだ。

 

森の中に座っている

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仕掛けられていたイノシシ捕獲用の罠

 

ホオジロの美しい囀りを聞きながら林道を進んでいった。ウグイスの囀りや地鳴きも聞こえてきていた。時折りダミ声のジャージャー鳴くカケスの声も届いた。赤いヤブツバキの蜜を吸っていたヒヨドリが、私の足音に驚いたのか、けたたましい声をあげて飛び去っていった。林道を歩いて行くと、空き地にイノシシ捕獲用の鉄の罠が仕掛けられていた。しかし罠の中にはイノシシは捕獲されていなかった。南房総市でもイノシシの被害が甚大であることが市のホームページに書かれていた。 

 

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双体道祖神「仲よきことは美しきかな」

 

駅から40分ほど歩き長者川に架かる橋を渡ると、花嫁街道方向と黒滝方向の分岐があり、分岐を左に折れて花嫁街道に入っていった。分岐点に自然石に彫られた双体道祖神が置かれていた。双体道祖神は長野県に多く観られるのだが、千葉県で見るのは珍しい。「仲よきことは美しきかな」という言葉が思いだされた。その前に黄・赤・白・橙のパンジーの花が植えられていた。

 

森の中の道

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かつての生活道は歩きやすかった

 

いよいよ花嫁街道の入口から山道となった。5分と歩かないうちに崩壊地点があり、迂回路が作られていた。登山道は昨日の低気圧の通過により、雨が降ったのか湿っぽく濡れていたが、整備されている道なので歩きやすかった。山道を登っていくと第1展望台に出たが、周りに木々があり展望はなかった。登山道はかつて人々が歩いた生活道なので、深くえぐれたところもあり、当時の人々の往来を偲ぶことができた。

 

森の中の木

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マテバシイの巨木が次々に出てきた

 

登山道脇にはマテバシイの巨木が次々に現れてきていた。その枝葉から木漏れ日が降り注がれていた。イノシシが掘ったのであろう穴が随所に見られるようになった。台風によって根こそぎ打ち倒された巨木も見受けられるが、どっこい葉を青々と茂らせてまだ生きている。実にたくましいと言わざるを得ない。登山道を登っていくと太腿に疲れが残っているのが分かった。5月に2年ぶりの20kmレースを走るので、練習を再開した疲れが残っているためだった。

 

森の中の木

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壮観なマテバシイの林

 

第2展望台からは以前に登った高塚山、御殿山が見え、外房の海が見渡せたが、春霞がかかっておりボヤッとした感じだった。先に進むとマテバシイの林の中を歩くことになった。壮観である。このようなマテバシイの林の中を歩くのは初めてのことだった。これが自然林というものだろう。これを伐採して植林したのが、第1展望台あたりの杉林なのだろう。本来房総の山々はこのようなマテバシイなどの植生として成り立っていたのだろう。

 

森の中の木

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古道から見た経文石

 

10時10分に経文石に着いた。現在の登山道は経文石の脇を通って延びていた。古道は経文石の下側に付いていたというので、崩れていた道を慎重に降りてみると、3mもある自然石に書き込まれた経文は崩れ落ちており、梵字を読み取ることはできなかった。ここの登山道も両側が切れ落ちており、深い谷になっていた。滑落したら登ってこられないだろう。経文石を過ぎると木の間越しに房総の山々が遠望できた。

 

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駒返しの五十蔵口は土砂崩れで立入禁止

 

駒返しに着いた。五十蔵口に向かう道は土砂崩れのため、立ち入り禁止になっていた。私は右折して烏場山に向かった。登山道を歩いていて感心するのは「ザ・房総」というばかりの曲がりくねったスジダイやマテバシイの大木が、鬱蒼と乱立しているのである。素晴らしい。房総の森の中を歩いているという感慨にふけるのである。

 

丘の上に立っている男性

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新しいベンチが置かれた見晴台

 

11時に見晴台に着いた。広々とした場所に新しいベンチが置かれていた。房総の山々と太平洋が見渡せたが、霞んでモヤがかかっているような感じだ。ここで登山口から登り始めて初めての休憩をとった。烏場山までは残り800mという表示がされていた。今日は登山道で誰にも会わなかった。セルフタイマーをセットして写真を1枚写した。見上げた太陽は眩しく輝いており、太陽の周りは雲がひとつもなかった。

 

停止の道路標識

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第3展望台からの房総の山々の眺め

 

第3展望台に着いた。ここからの眺めも房総の山々が一望に見えた。御殿山、経塚山、高塚山、愛宕山、そして眼下に五十蔵の集落が谷あいに伸びていた。暖かな3月の陽光に当たってのんびり見えた。烏場山山頂までわずかな距離だ。

 

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烏場山山頂に置かれていたおふく人形

 

11時20分に烏場山山頂に着いた。予定よりも30分早い到着だった。烏場山は岩崎元郎が選んだ「新日本百名山」のひとつに選ばれており、展望は木々の間を通してのものだが、北側には清澄山、経塚山、御殿山、伊予ヶ岳などの房総の丘陵地帯が山並みとなって続き、南側には広い太平洋が見えた。春霞のため富士山は見えなかった。山頂には30cmほどの石で彫られた「おふく」人形が置かれ、「男女年令を問はず縁結び受け承わります。おふく」という看板が立てられていた。花嫁街道に因んだ縁結び人形と思われた。おふく人形はお賽銭を入れる丸木をくりぬいた台の上に置かれていた。

 

木の枝を持っている男性

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烏場山山頂

 

セルフタイマーをセットしていると、トレランの兄ちゃんが上がってきたので、その方にお願いしてスマホのシャッターを押してもらった。ラッキー。市川からやってきた兄ちゃんは、3日前には筑波山を走っていて、頂上付近は凍っていたと話した。その前は陣馬山から高尾山を走ったとのこと。まだレースには出ていないけれども、自信がついたらレースに出てみたい、と明るく話す兄ちゃんだった。

 

森の中の木

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烏場山山頂からの房総の山々の眺め

 

先週日曜日の2月27日に烏場山トレランレースが行われていたので、倒木なども完全に除去されて登山道が整備され、危険箇所もなく実に歩きやすいハイキングコースだった。兄ちゃんもトレランレースがあったことは知っていた。明るく希望を語っていた兄ちゃんは、ひと休みすると花婿コースに走り去った。私も山頂に15分滞在したので花婿コースに降りだした。

 

花が咲いている植物

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スミレの咲く登山道

 

花婿コースは花嫁街道に比べて道幅が狭く、山道を歩いている感じがたっぷり味わえた。ザックに付けたクマ鈴がリンリン鳴るなかで、登山道脇の藪からは小鳥の囀りだけが聞こえてきた。行き交う登山者もなく実に静かな山道だった。12時を告げる広域無線放送から浜千鳥のメロディーが流れた。そういえば花園海岸には鹿島鳴秋が作詞した『浜千鳥』の歌碑があるのだった。

 

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静かな石造りの金比羅社は・・・

 

金比羅山山頂は見通しがきかなかった。急坂を降りたところに石の祠があり、割れた瓦が散乱していたので、昔はお寺があったのだろうと想像できた。これからの下りも結構な急坂が待っていた。地盤は粘土質なのでスリップに注意しながら降りていった。雨の日はアウトだろうと想う急坂だった。やはりこちらが男坂と呼ばれる花婿コースなのだろう。

 

森の中の家

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向西坊入定窟

 

 烏場山山頂から花婿コースを、旧烏場展望台、見晴台、金比羅山と降りてきた。更に降りていくと黒滝があり、黒滝の降り口に向西坊入定窟があった。南房総市教育委員会の説明板によると、向西坊というお坊さんは、赤穂四十七士の片岡源五右衛門に仕えていた元助で、浪士たちが吉良邸に討ち入って吉良の首をとり、幕府の裁定により自刃したあと、元助はその菩提を弔い、生まれ故郷の上州秋間村、現在の群馬県安中市の岩戸山に四十七士と主君浅野内匠頭夫妻の石像及び供養塔を建立し、そのあと出家して向西坊となり諸国を行脚し、晩年をこの地で送っていたが、自分の天命を知ると黒滝東側の洞窟の入口を閉じ、食を断って念仏を唱えて入定した、という。

 

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向西坊が祀られていた

 

 説明文を読んでいてオヤッと思ったのは、元助向西坊)の故郷が上州秋間村、現在の群馬県安中市というくだりであった。私の故郷は同じ群馬県安中市松井田町であり、秋間とは尾根をひとつ越えた場所であり、距離にして約10kmの近さである。昔、秋間に赤穂浪士のお墓があるということを聞いた覚えがあり、その向西坊が全国行脚の末に房州和田に辿り着き、亡くなった場所が入定窟だということだった。向西坊が亡くなって300年経つが、現在でも毎年、村人に慕われた向西坊の供養祭が行われているという。群馬に帰郷した折りには、秋間にある赤穂四十七士と浅野内匠頭夫妻の石像や供養塔を訪ねてみようと思った。

 

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高さ15mの黒滝

 

黒滝は花園山奥地からの水を集めて15mの高さで落ちていた。15mもあると小さいながらも立派な滝だと思うが、最近の房総地方は雨が全く降っておらず、落ちている水は少なかった。ここの滝壺から長者川沿いにハイキング道はつながっているのだが、最初は流れないように鎖でつながれた浮橋だった。浮橋はバランスを崩すと川の流れにぼっちゃんという感じだった。私も危うく足を落とすところだった。

 

山の中の家

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100箱を超えるミツバチの巣箱が置かれていた

 

花園広場を過ぎて駅に向かっていくと、ミツバチの巣箱が100個以上備え付けられている養蜂場があった。ミツバチがブンブン音を立てて舞っていた。こんなにたくさんの養蜂箱を見たのは初めてだった。びっくり。13時20分に花嫁街道と黒滝の分岐点に戻ってきた。駅に向かい朝に歩いた道よりも海岸線を通る国道に出て、和田浜まで歩いていくと、空の青さを反射して海が青く輝いていた。たくさんのサーファーたちが波と戯れている。本当に気持ちがいい日だ。

 

砂浜と海

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波と戯れるサーファーたち

 

下りに歩いた花婿コースという名前は、浜辺に住む花婿が山奥の花嫁を迎えるために歩いた道なのだろうか? 実際に歩いてみると花嫁街道よりも花婿コースのほうが急坂だった。特に見晴台、金比羅山、黒滝までが急だった。一般的に山頂に向かう山道の急な登りを男坂、緩い登りを女坂と呼ばれるのと同じように、花婿コースという名前はハイキングコースを整備した時に、花嫁街道とセットとして急坂のほうに付けた名前だろうと感じたのである。ちなみに国土地理院の地形図では花嫁街道は点線で徒歩道だが、花婿コースは2点鎖線で殆ど歩かない道で表されている。

 

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鯨博物館のクジラの骨格標本

 

和田浦は昔から捕鯨の浜として有名だった。和田浦駅近くにある鯨博物館に着いた。駐車場の脇にはカワヅザクラの濃いピンクの花が満開となり、大きなクジラの骨格標本が展示されていた。かつて使われていた捕鯨船からクジラを撃つ捕鯨砲も骨格標本の脇に展示されていた。今回はスケジュールの関係で鯨博物館には入らなかったが、再びこの地を訪れた時には入館し、捕鯨の歴史を考えてみようと思った。鯨博物館の奥に道の駅があった。

 

テーブルに置いている様々な料理

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和田浦特製くじら丼

 

14時に道の駅の食堂に入ると、お客は少なかった。メニューには南房総の地魚料理は当然のこと載っているが、私が選んだのは、和田浦特製クジラ丼とクジラコロッケである。生ビールで喉を湿らせ、運ばれてきたクジラ料理を肴に地酒の冷酒・寿萬亀の鯨の浜300mlを味わったのである。クジラ丼はご飯の上に、クジラの刺身、竜田揚げ、クジラかつが乗っていた。竜田揚げを食べると小学生のころ給食で食べた昔の味が蘇ってきた。食べるものも少なかった小学生のころは、肉も殆ど食べずクジラの竜田揚げの味は懐かしい味だった。

 

マップ

自動的に生成された説明グラフ

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烏場山登山データ

 

 千葉県の山は標高が低く殆ど丘陵と呼べるもので、最高峰は愛宕山で標高は408m。自衛隊の基地内にあるため、山頂に登るためには自衛隊の許可を得なければならない。私は許可を取るのが面倒なので登ろうとも思わない。以下、2番目は鹿野山、3番目は清澄山と続き、今回登った烏場山は33番目となる。標高は低いけれども夏山の3000m縦走登山のトレーニングとして、これからも地元の千葉県の山を歩いていこうと思う。

 

テーブルに置かれた複数のチラシが置かれている瓶

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お土産はクジラの刺身とレモンサイダー

 

家族のお土産に鯨の刺身を2種類買った。ひとつ目は皮の刺身であり、ふたつ目は舌の刺身だった。おまけにレモンサイダーを買った。15時11分発の電車に乗り、日帰り登山を終えたのだった。今回はのんびり歩いたハイキングだった。和田浦駅の近くに温泉は無かったので、下山後にひと風呂浴びて汗を流すことはできなかったが、地元のクジラ料理と地酒が飲めて満足の山旅だった。

 

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