結構タフだった岩殿山ハイキング
岩殿山634m山頂から望む富士山
5月25日 木曜日 晴れ
今回のハイキングは大月市が選定した『秀麗富岳12景』のひとつに挙げられている岩殿山634mである。事前調査によって山頂まで4本ある登山道のうち、大月駅に一番近い強瀬登山道と2番目に近い岩殿登山道の2本が崖崩れのために通行禁止となっていた。従って今回のコースは大月駅をスタートしてから大きく東に迂回し、畑倉登山口から登りだして岩殿山に登頂し、稚児落しを経て浅利登山口に下山して大月駅に戻る5時間の予定だった。3か月あとの8月下旬に予定している北アルプスの前穂高岳・奥穂高岳・涸沢岳・北穂高岳の縦走登山に向けて1か月に2回は準備山行をしていこうと思う。
岩殿山周辺案内図
朝、目覚めると4時20分だった。乗ろうとする電車は幕張駅4時40分発である。目覚ましをかけない主義なのでビックリしたが、自宅から駅までは歩くと12分だ。前日にハイキングの用意はデバックに全て用意していたが、着替えを済ませても間に合いそうもないので、自転車で駅近くの家庭菜園まで行き、そこから歩くことにした。自転車で飛ばしていくと、頬にあたる朝の空気が清々しく感じられた。駅でスイカに5千円をチャージし、ホームに降りるとオレンジ色の朝日が昇るのが見えた。綱渡り的な慌ただしい朝だったが、予定した電車に乗ることができホッとした。
JR大月駅と後ろに聳える岩殿山
今回は30年ほど前、まだ小学校入学前の息子と出かけた岩殿山に登ることだった。岩殿山は大月駅の北側に聳える大岩壁が目立つ山である。標高は634mで東京スカイツリーと同じ高さである。大月駅に到着すると太陽が白く光り、空は薄曇りだったが気温は12℃と低く肌寒かった。駅前でトングを片手にゴミを拾っていたのは、タクシー会社の運転手のようだった。スマホソフトYAMAPのGPSを起動して歩き出したのは7時30分だった。下山後に昼食に入る予定の古民家麵処『かつら』の脇を左に折れて岩殿山に向かった。
強瀬登山道は崖崩れのため通行禁止
踏切を渡りホテル東横インと東京電力の脇を通ると、シジュウカラ、ウグイス、ホオジロのさえずりが聞こえてきた。桂川に架かる高月橋を渡りながら下を覗くと、水量の少ない桂川が随分下を流れていた。岩殿城跡入口の強瀬登山口に着いたが、事前の調査通りに上部で岩崩れがあったために登ることができない旨の看板が出ていた。富士急バスの「スクール」と書かれている大型バスが通過した。中には黄色い帽子をかぶった小学生が多数乗っていた。子どもが少なくなったために小学校の統廃合が進み、遠くの子どもたちはバスで学校に通っているのであろう。全国各地で見られている風景だが、私が生まれ育った群馬の地域でも小中学校で統廃合が進み、寂しい感じを受ける。
岩殿登山口も崖崩れで通行禁止
次の岩殿登山口に到着すると、「岩殿山山頂付近の法面崩壊により登山道が消失してしまい、このルートでの山頂登頂はできません。七社権現洞窟までは通行可能です」という表示がなされていた。このルートも事前調査通りに通行止めである。
畑倉登山口にあった登山者数計測カウンター
大月駅を出発してから45分で畑倉登山口に着いた。登山道の右側に岩殿山の案内と桃太郎の鬼の岩屋伝説の看板が立ち、脇に五輪塔と馬頭観音碑が置かれていた。左には登山者数計測カウンターが設置されており、「1人1回押してください」の表示とともにカウンターは‘5445’が表示されており、私が押して‘5446’になった。
鬼の岩屋伝説のある新宮洞窟
登山口から5分ほど登ると鬼の岩屋の看板が出ていた。看板を左に折れ50mほど先に鬼の岩屋があった。岩屋の上は大きな岩盤となっており、滝のように水がしたたり落ちていた。洞窟の入り口には「大月桃太郎伝説めぐりの5」として鬼の岩屋の説明が書かれていた。「ここは、かつて栄えた修験道場・円通寺の新宮として11面観音を祀った懸け造りの堂宇があり、数箇所ある岩殿山の洞窟のうち一番大きいこの新宮洞窟は岩殿山の鬼が棲み家としていたと伝えられています」また、新宮洞窟(鬼の洞窟)注意!落盤の恐れがありますので洞窟内には入らないようにしてください、という大月市下畑倉区の注意書きも立っていた。
鬼の岩屋内に置かれた2体の石仏
「落盤の恐れがあるので中に入らないでください」という注意書きがあったものの、こんな大きな洞窟は久しく見ていないのでなかに入ってみた。一番奥に手を合わせた2体の石仏が置かれており、紙パックの清酒と1円、5円のお賽銭があげられていた。右奥にはコンクリートの四角の台が置かれていたが、何のための台なのか銘が無かったので、分からなかった。滝の裏側に入ると落ちる水の向こう側に緑が眩しく輝やき、水が落下して岩盤に当たる音が絶え間なく響いていた。久しぶりに見た滝の裏側からの景色もなかなかいいものだ。
秋葉大権現社と畑倉大神社
鬼の岩屋を見たあと登山道に戻り、ゆっくり登っていくと秋葉大権現の灯篭とともに小さいが立派な祠が立っており、その左脇に畑倉大神の小さな石造りの祠が鎮座していた。その祠の脇に登山道は伸びていた。この辺りは下の畑倉集落の憩いの場となっているようで、たくさんの桜の木が植えられており、下草が刈られベンチや椅子が置かれ、トイレも設置されていた。
青葉のなかの急登だった登山道
登山道は一昨日の雨をすっかり吸い込み、広葉樹の緑の葉の隙間から時折り日が差すなかを歩いていくために気持ちが良かった。ここでも梢での先でさえずっているのであろうホオジロの美しいさえずりが耳に届いた。私はつづら折りの急登を一歩一歩登って行った。
岩殿城跡の烽火台634mが本丸跡
登山口から50分の登りで岩殿城本丸跡についた。真新しい岩殿山・山梨百名山の標柱が立っており、正面に雪を被った富士山がドーンと見えた。素晴らしい景色だった。平らな山頂の直径は30mくらいの円形をしており、烽火台634mという標柱も立ち、本丸跡の説明板には「3箇所にある物見台を統合した本陣で防衛や進攻の指令を発した」と書かれていた。岩殿城は急峻にして険しい断崖をめぐらし、群雄割拠の戦国時代に難攻不落を誇った名城として、特に烽火台網の拠点として近くの国々の情報を即座に収集できる重要な位置にあったとのことだ。
岩殿山山頂から望む富士山
セルフタイマーで富士山を写し込んだ写真を撮った。私が山頂に着いてから数分後には富士山の左側から白い雲がかかりだし、富士山の姿を雲の中へと隠していった。ほんの数分の違いで富士山の姿が見られなかったところだが、今日は運が良く最高だった。私以外は誰もいない山頂で「ブラボー」と叫んだ。
馬場跡は憩いの場となっていた
烽火台から西に向かって降りて行くと、途中に蔵屋敷跡の説明板が立っており、武器や 弾薬・食料・燃料の他、生活用品などが保管されていた、という。さらに先に進むと、左下に広場が現れた。桜の木が植えられており、現在は憩いの場となっているようだった。岩殿山は老若男女誰でもが登れるハイキングコースなので、こういう広場が整備されているのであろうと思われた。広場は馬場跡だった。説明板では、本城内で一番ひろい面積を有し、馬や兵士の訓練場とされ非常に備えた、と書かれていた。
展望台にあった東屋
馬場跡の先が一段高くなり、東屋が建ってテーブルと椅子が置かれた休憩所となっていた。展望所からは周りを山々に囲まれ、桂川に沿った大月市街が見渡せたが、真下に桂川に架かる高月橋が見えたので、大月駅を出発する時に正面に大岩壁が聳え立っていたのを思い出すと、展望所は大岩壁の上に開かれていたのだった。
展望台の奥に野木将軍の顕彰碑があった
展望所には岩殿城と近くの城跡の説明が表示されており、野木将軍の顕彰碑が立てられていた。野木となっていたが日露戦争で旅順の203高地争奪戦で指揮を執った乃木将軍の顕彰碑で、日露戦争の25年前に戦術研究のために岩殿山に登り、聳えている岩があまりにも険しいのでウサギも登れないと感嘆し詩を読んだという。私も家族と共に旅順の203高地を訪れたことがあったことを思い出した。
展望台から眺める大月市街
富士山は雲に隠れてしまったが、周りの山々や三つ峠山の山頂に建っているテレビアンテナ塔などを眺め、ベンチで干し柿をひとつ食べた。朝食なしだったので初めて胃に入った食べたものだった。私は登山には、幕張中学校から渋柿をもらって、自分で作った干し柿を持参している。干し柿は甘くてエネルギー源になるのだ。
強瀬登山道は崖崩れで通行禁止
山頂部から浅利コースの下りの道を確認していると60歳代と思われる単独女性登山者が降りてきた。挨拶を交わすととても元気な人だった。山頂部から下り出すと急激なコンクリートの石段が続いていた。下りの途中で強瀬登山道と浅利登山道の分岐に出た。強瀬登山道は進入禁止のため稚児落しコースへと進んだ。稚児落しコースには「危険。この先は鎖場のあるコースです」という赤字表示がされていた。
死んだふりをしているジムグリ
登山道を下って行くと赤茶色が鮮やかなジムグリが登山道を横切っていた。ジムグリは無毒なヘビである。ストックの先に絡めて放り投げると、5mほど離れた場所で裏返ったままの状態で動かなかった。死んだふりでもしているのだろうか。びっくり。両側の切れた尾根伝いに登山道がついており、結構急な登山道をスリップに注意しながら降りて行った。
クマ出没注意の看板はあるけれど・・・
築坂から稚児落しに向かった。この辺りは熊が出没するようで、注意の黄色い看板が立ててあった。私たち登山者がクマの生活場所に入り込んでいるのだが、なるべくならクマには出会いたくないものだ。私のストックには気休めで金と銀の鈴がついている。この鈴の音をお守りとして、鳴らしながら歩いている。
鎖場の股のぞき
稚児落しの鎖場コースと林間コースの分岐に来たので、迷わず鎖場コースに進んだ。ひとつ目の鎖場は鎖とロープと鉄の手すりと足場を手がかりに乗り越した。その先で林間コースの巻き道に合流し、稜線上に出たので大月市街が一望に見渡せた。陽の光も雲間から差し出し、明るくて快適な清々しい青葉の山道だった。
縦走路から岩殿山山頂に建っていたアンテナが見えた
次のふたつ目の鎖場は崩落のため侵入禁止となっており、林間コースへの案内が出ていた。岩が脆くなって崩落が進んでいるのであろう。林間コースの巻き道を歩いて稜線に飛び出ると、先ほど登ってきた岩殿山の本丸跡に立つアンテナが見えた。あそこからここまで歩いてきたのだ。稜線上の大岩の上でしばらく休憩した。渡ってくる風が爽やかで気持ちが良かった。
緑のなかの天神山山頂
天神山に着いたのは10時50分だった。天神山の標柱を抱えて写真を撮った。クヌギの仲間が生えている広葉樹の山頂は木の枝越しに大月市街が見えた。高速道路に行き交う
車も見え、送電鉄塔が山頂横に立っていた。山頂から少し下ったところにコンクリートの天神神社が祀られており、菅原道真公と思われる色彩像が奥に控えていた。100円、50円、10円、5円、1円のお賽銭が添えられており、ワンカップの空き瓶も備えてあった。
天神社内の菅原道真公
5月の木漏れ日の下を風が枝を揺らせていく。緑の葉は色を増々濃くし、私の身体全体を包み込んでくれる。稜線上を歩いていると、渡っていく風が額から落ちてくる汗を拭いてくれるようで清々しく感じる。そのなかをストックにつけた鈴の音だけが響いている。ここまで歩いてきて出会った登山者は山頂部であった女性単独登山者だけだ。実に静かな山旅である。いよいよ稚児落しの大岩璧に来た。
稚児落しを覗き込む
「稚児落し」とは織田軍の岩殿城攻めに小山田氏は抗し切れず、小山田氏の妻子は岩殿城から逃げ落ちたが、連れた稚児の鳴き声が追手に聞こえると、その稚児を谷底に落としたという伝説から、大岩壁を「稚児落し」と呼ぶようになったという。悲しい伝説である。足元は遥か下まで切れ落ちている。左側は絶壁なので、そちらに寄らないように気をつけながら歩いた。岩場ルートと林間ルートの分岐に来たので、怖いもの見たさで岩場ルートに進んだ。絶壁は足元から150mの高さで切れ落ちている。ここから落ちたら命の保証はないだろう。
稚児落しのてっぺんで休憩する女性登山者
稚児落しをお椀のふちを回り込むように進むと、大岩壁のてっぺんで南側を向いて青色のTシャツ姿の人が座り込んでいた。登山道は座り込んでいる人の脇を通っているので、横を通り過ぎるときに挨拶をすると、その人は握り飯を食べていた女性登山者だった。岩殿山山頂で出会った女性とは別の人だった。てっぺんは確かに見晴らしが良いのだが、ひとつ間違えば転落し、一巻の終わりである。イヤハヤナントモ度胸がいいものだ。稚児落し分岐に着いたので、浅利・大月駅方面に向かうために左に折れた。これまで歩いて来たルート上にはたくさんの小さな丸石が散在しているので、岩殿山自体が海底から盛り上がって出来た岩山だろうと想像できた。
大月名物手焼き煎餅の栄月製菓
浅利分岐を左に折れて山道を降っていくにつれて瀬音が大きくなり、木の間から見える民家の屋根もはっきり見えるようになってきた。ウグイスのさえずりが耳に届き、同時にヒヨドリの騒がしい声も懐かしく聞こえた。突然、ホトトギスの「特許許可局」の鳴き声が耳に届いた。今年初めて聞いた鳴き声だが、南の地域から夏鳥のホトトギスが渡ってきているのだ。浅利集落まで降りてきたので、あとは大月駅までの車道歩きとなった。
家族へのお土産は栄月製菓の手焼き煎餅
大月駅近くに「大月名物・手焼き煎餅・厚焼木の実煎餅、栄月製菓」という看板が目に留まった。家族のお土産に買っていこうと思い店に入ると、煎餅の焼台前から若い人が立ち上がってきた。説明を聞いて2種類の山椒入り煎餅を買った。もらったパンフレットを読んだら、店で対応してくれた若い人は、お爺さんが58年前に始めた手焼き煎餅の店を引き継いでいる20代の若き店主の吉田さんだった。
アジフライ定食と地酒『笹一』の純米生酒
12時30分に大月駅に到着して今回のハイキングは無事に終了した。7時30分に出発したので、ちょうど5時間の山行だった。下山後はネットで検索した麺処『かつら』に向かったが、あいにく「本日臨時休業」だった。ガックリしたが気を取り直して、下山途中で見てきた「きんかん」という店に入った。注文したのは、カキフライ定食、かき揚げ、大瓶ビール、地酒『笹一』の300ml純米生酒だった。この店は料理が美味く、値段が安くて大正解だった。
床の間にかかっていた国定忠治の三度笠と蓑傘と草鞋
633のビールで喉を潤しホッとしたところで床の間を見ると、「上州名代の大親分、国定忠治」の三度笠、蓑傘、草鞋が吊り下げられていたので、またもやビックリ! 料理を運んできたおばあさんに三度笠と蓑傘のことを尋ねると、「この店は古いので、お土産に頂いたものだけど、床の間に飾っています」とのことだった。群馬の話でも出てくれば、私も群馬生まれなので、ひと話でも咲かせようと想っていたのだ。昼食代は2430円だった。店の外に出たところで料理を作ってくれた店主に会った。料理が美味かったことを伝えると、丁寧な挨拶をされた。他の山に登って大月に下山した際には再び訪れようと想った。
今回の岩殿山634mは標高が低いハイキングとはいえ、戦国時代の不落の山城が証明するように、登りも下りも急坂でロープや鎖が度々登場し、両側が切れ落ちている狭い登山道や岩場の通過もあって結構タフなコースだった。しかし、たえず野鳥のさえずりが届き、青さを増す広葉樹の森のなかをクマ鈴の音だけが聞こえてくる静かな山道を歩いていくのも、実にいいものだ。大月市選定の山頂から眺めた『秀麗富岳12景』のうち11の山に登ったことになった。残りは「雁が腹摺り山」だけとなったが、雁が腹摺り山は自家用車があれば登山口から往復3時間で登れるのだが、公共機関を使うと山中1泊の山行となる。天気予報を確認しながらクマの棲む山にツェルトを持って出かけよう。