可憐なタカネビランジ(鳳凰三山)

 

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岩陰に咲くタカネビランジ

 

私が夜叉神峠〜鳳三山〜広河原縦走を2泊3日のテント山行したのは今から10年前の2001年10月であり、翌年2002年10月に北沢峠〜早川尾根〜広河原縦走を1泊2日のテント山行を行った。その2つのコースを繋げ夜叉神峠〜鳳凰三山〜早川尾根〜北沢峠を山小屋利用の3泊4日で縦走しようとしたのが2011年の夏山計画であった。

 

時期は例年通り8月下旬。コースタイム1日目は1時間10分、2日目は9時間、3日目は10時間、4日目は15分、というもので、このタイムに休憩時間は含まれていない。計画の呼びかけに集まったのは登山靴を新調して張り切るポパイ吉原、小笠原父島から本土に戻って7年のちびっこ小沢、相変わらず仕事熱心なインストラクター山本、ザックと登山靴を新調し気合の入る新米パパのエンジニア小林、仕事の関係で日本中を飛び回るせいか一段と体重が増えたように感じられるストレス太りのデブトラマン碓井、それに私エイトマン岩井の6名であった。

 

予想通り山小屋は空いていた。1泊目の夜叉神峠小屋での宿泊は私たち6人のみで借り切り状態だった。山小屋の主人に聞いてみると「最近はこの小屋に泊まる登山者は殆どいない」との答えだった。確かに小屋から下りは40分で車が通行し駐車場がある南アルプススーパー林道の夜叉神峠登山口に下山してしまうし、登りにしても登山口から1時間で小屋まで到着してしまう。アクセスが便利になった反面、小屋での宿泊は減ったのだろう。小屋経営の立場からは厳しい現実だ。その厳しい中でも自然と環境のことを考えトイレは微生物分解を利用したバイオトイレだ。新設されたばかりのようでとても清潔だ。夕食、朝食の食事も美味しく、作り手の心のこもった食事だと思った。

 

2日目は5時に朝食。5時半に薬師岳・観音岳・地蔵岳のいわゆる鳳凰三山を超えて鳳凰小屋までのコースに踏み出した。南アルプス地域は最近毎夜雨が降るぐずついた天気で、その湿気が朝をむかえ気温が上がるとガスとなって視界を塞いでしまう。実際に大崖頭山への登頂時に右側に秀麗な富士山を眺めることが出来たが時間の経過とともに雲の中に姿をかくしてしまった。北岳や間ノ岳にしてもしかりであった。針葉樹林帯の中で鹿や猿に何匹も出会った。彼らは実にすばしっこい。私たちの姿を見るとサッと身を隠す。こちらは危害を加えようとは思っていないが自然と身に付いた保身なのだろう。

 

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テングダケ

 

辻山を過ぎ、最初に出会う山小屋である南御室小屋に着いたのは予定より1時間早い10時だった。当初はここで昼食を予定していたがまだ昼食には早い。参加メンバーに聞いてもまだ腹が空いていないから次にしましょう、という答えだった。20分ほど休憩することにした。水場から引かれたホースから流れ出している水で顔を洗う。とっても冷たい水で手が痺れてくる冷たさだ。飲んでみると実に美味い。各自が水筒に水を補給する。テント場には2張りのテントが張られていた。周りには桃色に赤味がかったヤナギランの花がスタイル良く立ち上がり、トリカブトの群れが紫色に咲き乱れていた。その花々の上をキアゲハがゆったりと舞っていた。

 

南御室小屋を過ぎると山全体が花崗岩に変わったことが実感できる。登山道がザラザラした白い道となったのだ。周りの木々は次第に小さくなり森林限界を突破すると大きな岩がごろごろしだす。私はチームのリーダーとして30分ごとに5分の休憩を取るようにしている。岩陰にピンクや白の可憐な花が姿を現した。遠目にはコマクサのように見えたのだが近寄って確認するとタカネビランジという南アルプスの特産種であった。その後このタカネビランジは地蔵岳まで続く稜線で度々見かける花となった。11時半に2番目の山小屋である薬師岳小屋に着いた。

 

空模様があやしいので雨に降られる前に小屋前のテーブルを借りて昼食にする。夜叉神峠小屋では翌日の昼食の弁当は受け付けていないので前日に各自甲府駅で調達してきたものだ。私はおにぎりを2つ駅前のスーパーで購入してきていたので、それを食べながらコッフェルを出して醤油ラーメンを作って食べた。小屋は樹林帯の窪みにあるので展望はないが、上空の雲の暑さから判断すると朝よりも天候は下り坂に向かっているようだった。案の定、昼食を終え出発する段階になってポツリポツリ雨粒が落ちて来たのでレインスーツの上だけ着込んで出発した。

 

山梨県百名山に指定されている薬師岳山頂はガスの中だった。展望はきかなかったが6人の集合写真を撮った。小学生の子ども2人を連れたお父さんのカメラのシャッターを押してやると、お父さんは「さぁ、これからが長いぞ」と子どもと自らに語りかけるように言葉を発すると元気に青木鉱泉へと下って行った。私たちは直進し観音岳へと向かった。

 

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薬師岳山頂

 

大岩が重なっている観音岳も山梨県百名山に指定されている。晴れていたら絶景が展望できるのだが今回は無理だった。観音岳の標高は2840mで今回のコース中では一番高い。ここでも6人の集合写真を撮った。まだみんな元気で疲れてはいない。休憩をしていると小さなアブがまとわりつく。このアブは血を吸わないので安心していられるが数が多いので鬱陶しく感じられる。手で追ってもすぐにまとわりついてしまうのだ。観音岳山頂で考えた。次の地蔵岳まで行ってもガスのため展望は期待できないだろうから次の分岐点で鳳凰小屋までの近道を取ることに決定した。

 

樹林帯の中の近道は荒れていた。転ばぬように木の枝や根っ子に掴りながら慎重に下っていく。下るにつれドンドコ沢の水音が聞こえてくる。鳳凰小屋はその渓流の脇に建っているのだ。分岐から30分と表示されていたが足場が悪いのでゆっくり下りて行った。ヤナギランが咲く小屋が見え渓流に降りるところに梯子がかかっている。滑り落ちないようにしながら河原に降り、岩を飛び越えて小屋の前庭に出た。小屋の入口脇に座っていた二枚目の兄ちゃんが「予約の6名の方ですか」と声をかけて来た。私は頷き小屋の中に入って宿泊手続きを取った。1泊3食で9000円だった。この小屋も混んでおらず1人1枚のマットレスと封筒形のシュラフと毛布2枚の寝具だった。小屋の2階に上り着替えを済ませると前庭のテーブルの上で宴会が始まる。

 

沢の水で冷やしたビールが喉を落ちていく。この感覚が堪らない。汗をかいた後の自然の中で飲むビールの美味しさは格別である。私たちが飲んでいたそばで帰り仕度をしていた60代とおぼしき夫婦連れの夫の方がデジタルカメラの映像を見せながら撮影した蝶の名前を教えて欲しいと言ってきた。そこに写っている蝶を見ると「アサギマダラ」であった。綺麗な蝶である。この蝶は細かく羽ばたかず風に乗るようにふわ〜りふわ〜り飛ぶことに特徴があるので、その旨を伝えると奥さんが「普通の蝶と違って楽しそうに飛んでいた」と見た感想を話した。もう1種類の黄色い縁が鮮やかな蝶を見せられたが、それは私の知らない蝶だった。そこへ山小屋の親父さんがやってきてカメラを覗き込んで「この蝶はキバタタテハ。端を黄色で囲んであるだろう。とっても綺麗な蝶だよ」と名前を教えてくれた。さすが山小屋の親父だ。

 

3日目は10時間の長丁場となる。はたしてみんな大丈夫だろうか。5時半に朝食を済ませ6時に地蔵岳にむけて樹林帯の中を登り出す。鳳凰小屋から地蔵岳までの登りは樹林帯の登りが30分、砂礫帯の登りが30分で合計1時間とされている。前日、分岐から下った標高まで登り返すことが朝一番の登りとなるわけで結構しんどい登りだ。特に後半の砂礫帯の部分の登りが厳しい。それでも夜中に雨が多量に降っていたおかげで砂が締まっておりスリップが少ないだけ救われた。空は雲ひとつなく晴れあがっており最高な気分だ。

 

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雲わく甲斐駒ケ岳

 

賽ノ河原に到着する頃は昨日同様に下からガスが上がって来て思ったより早く周りの山々を覆い尽くしていく。地蔵岳に登った時は前方の甲斐駒ケ岳も下から湧いてくる雲によって山頂が覆われる直前だった。千丈岳もカールの一部が見えるだけで雲に覆われた。天候が不安定なので仕方のないことであるが少し残念だ。地蔵岳でも6人の集合写真を取って赤抜沢ノ頭に上り返す。ここから見た地蔵岳は鳳凰三山のシンボルともいえるオベリスクが屹立し見事なものだ。集合写真を撮った地蔵岳の根元だと山頂に近すぎてズングリしたオベリスクとなっているが離れてみると見事な形となっている。反対側は野呂川を挟んで北岳をはじめとする白峰三山が現れるはずだ。天空は真っ青に晴れあがっているのだが、北岳や間ノ岳は山頂部分まで雲が這い上がって来ている。富士山も雲の中だ。気を取り直して、さぁ、いよいよ早川尾根へと縦走を開始する。

 

高嶺まではハイマツの中に花崗岩が露出する白砂の稜線漫歩で実に気持ちがいい。朝早いので縦走者もおらず先頭を行く私のズボンはハイマツの朝露の雫で濡れていく。高嶺を超えると白鳳峠まで急激に下っていく。岩も濡れており滑りやすい。やばいなぁと思う岩場も出てくるが慎重に3点支持で下っていく。だが事故が起きた。ちびっこ小沢が岩場で落ちたのだ。幸いにも大怪我もせず両膝の打撲、左眉毛上の切り傷ですんだが、本人は落ちた時にヤバイヤバイという声が頭の中を駆け回ったという。途中で引っかかって下まで落ちずにすんだが、下まで落ちていたら笑いごとでは済まなかったと見ていたインストラクター山本の感想だった。水で傷口を洗いバンドエイドを貼って白鳳峠まで降りた。

 

小屋を出発して3時間が経過していた。これから宿泊予定の北沢駒仙小屋まで7時間必要だ。天候の回復は見込めない。ここまでくるのに度々スリップしているメンバーもいたので白鳳峠で相談した。相談した内容は3つの方法のどれを選択するかだ。その1、このまま予定通り突き進む。その2、広河原に下山し会員バスで北沢峠に向かい予定通り北沢駒仙小屋に宿泊する。その3、広河原に下山しバスで芦安温泉に向かい下山時入浴食事予定であった岩園旅館に宿泊する。相談した結果は明らかだった。

 

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