春霞のなかに消えた富士
鷹ノ巣山(1737m)の山頂に着いた
4月15日 月曜日 晴れ
3日連続して快晴が続いていた。素晴らしい富士山の眺めを堪能しようと、奥多摩にある鷹ノ巣山1737mハイキングを計画した。以前、鷹ノ巣山には登ったのは35年前の1989年5月のことであり、埼玉県側の三峰口から雲取山に登って雲取山荘で1泊し、翌日に長大な石尾根を下って東京都側の奥多摩駅に降りたが、その時の縦走で鷹ノ巣山を通過したのだった。今回は奥多摩側の日原鍾乳洞からの稲村岩尾根コースが、2019年の台風被害による崩落で通行禁止になっているため、峰谷登山口からの浅間尾根往復コースだった。
奥多摩にも春がきた
私の登山計画書の作り方は、登山地図の標準コースタイムをそのまま足しながら全体のコースタイムを算出するので、途中は休憩なしの時間となる。実際には所々で写真を撮り、メモを取り、水分補給や昼食を摂るのだが、その時間は山道を標準コースタイムよりも速く歩くことによって捻出している。今回の予定では徒歩7時間10分で、バス発車時刻の35分前にバス停に下山することだった。
兜造り屋根のJR奥多摩駅
JR奥多摩駅に着いたのは8時5分だった。鷹ノ巣山登山口がある峰谷行きのバスは1日に朝・昼・夕の3便しかなく、幕張駅始発電車に乗っても、峰谷行きバスの朝の便に乗ることができないためにバスルートを変更し、鴨沢西行きバスに乗って峰谷橋で降り、1時間20分ほど歩いて登山口に到着するしか方法がなかった。
奥多摩駅前A番線バス乗り場
鴨沢西行きバス乗り場は奥多摩駅前の2番線だった。バスを待つ登山客が4人ベンチに座っていた。上空をイワツバメがジュジュ、ジュジュさえずりながら飛び交っていた。喉が白いイワツバメは、東南アジアからやってくる夏鳥で、今年も駅近くの奥多摩ビジターセンターの外壁に巣作りをしている。駅舎の裏山はこんもりと植樹された木々が茂っているが、上部はヤマザクラが薄いピンクの色を添えていた。
「山笑う」季節が訪れていた
9時20分に峰谷橋バス停で降り、GPSをセットし登山口に向かって歩き出した。春の交通安全なのだろうか、橋のたもとに警視庁のテントが張ってあり、テントのなかで5人の警察官が談笑していた。空はよく晴れ、風もなく暖かく気持ちがよかった。ウグイスの鳴き声が耳に届き、春の訪れを謳歌するように木々は若芽を出し始めていた。
峰谷周辺の散策マップ
冬の時季には若芽は殻を硬く閉じていたが、気温の上昇に伴って産毛のような若芽が出てくる時は、山全体が白く輝いている。その白さも2〜3日もすると白かった山に黄緑色が増してくるのである。春の白い山は今しか見えない現象である。その中にヤマザクラとツツジが彩りを添えていた。まさに春は生命の萌えだす季節であり、俳句の春の季語に「山笑う」というのがあるが、まさに今の季節である。
峰谷川渓流釣場
峰谷橋から40分歩いたところに峰谷川渓流釣場があった。兜造りの屋根を模した事務所があり、入り口には黄色のヤマブキや明るい紫のツツジも咲いていた。峰谷川を見おろすと、自然の流れを利用した釣り場となる池が連なっていた。川が増水すると池の中の魚が下流へ流れ出してしまうので、自然の川を利用した釣り場は痛し痒しなのだ。
栽培されているワサビ田
ワサビ田も目につくようになり、いよいよ山奥へ入ってきた感じを受けた。栽培を放棄し、うち捨てられたワサビ田もあり、かつては動いていたであろう運搬用のモノレールが林道脇に残されていた。モノレールが再び動きだすことはないのだろうか。この辺りの山の斜面は急で、畑の石垣は残っているものの、そこに作物の姿はなかった。はるか昔に栽培をやめていたのだろう。今、畑は野生動物たちの生活の場へと戻っているのだ。
峰谷集落の登山口から山に入っていった
峰谷橋から歩き始めて1時間で峰谷集落の登山口に着き、クマさんの棲む領域に入っていくため、クマさんに敬意を表してザックにクマ鈴を着け、鈴付きのトレッキングポールを出した。レンギョウの黄色い花が額から落ちてくる汗と共に目にしみた。
民家が次々に現れたが廃屋の家が多かった
スギ林のなかの山道に入ると、最初からつづら折りの急登だった。いやはや。あまりにも暑いので長袖シャツを脱いでTシャ1枚になった。山道沿いに民家が次々に現れたが、いずれも人の住むことのない廃屋となっていた。かつてこれらに住んだ人たちは山から降りたのである。ミツバツツジの柔らかな芽が出ていた。あと1カ月もすれば薄紫の美しい花を咲かせるだろう。山道は落葉樹と針葉樹を交互に縫うようにして標高を上げていった。額から汗が滴って落ちた。天気予報では22℃を超えるという。
山のなかに浅間神社が祀られていた
山道に突然、鳥居が出てきてびっくりした。鳥居脇の標識には「鷹ノ巣山3.8km」と書かれており、右側の石碑には「富士登山御中道大権現」の文字と富士山の絵が彫られていた。登山地図を確認すると、この鳥居は浅間神社のものだった。奥多摩の山の中にも浅間神社が祀られていたのだった。
第3建屋内の正面に掲げられていた奉納絵馬
1の鳥居をくぐって登っていくと5つの建屋があり、第1、第2、第5建屋には1社が、第3建屋には3社が、第4建屋には5社が祀られていた。第4建屋には絵馬が奉納されており、絵馬は色が剥げ落ちてずいぶん古い感じを受けたが、富士山の絵ははっきりと確認できた。第5建屋のなかの社が大きさも造りも一番立派だった。おそらく浅間神社の祭神であるコノハナサクヤヒメのものだろう。同時に浅間神社をお参りする人も少なくなり、第4建屋の左側の戸板が壊れて内部が荒れたままになっていたように、今後は荒れ果てていくのだろうと想われた。
明るいカラマツ林のなかを登っていった
浅間神社を越えて暗いヒノキの林のなかを進むと、明るいカラ松の林に変わっていった。カラマツは昨年の秋に葉を落とし、今年は芽生える前だったので、林のなかがとても明るかった。こういう林のなかを歩くと、心も明るくなっていくように感じられた。標高をあげると周りの山並みが見えてきたが、うっすらと春霞がかかり、鷹ノ巣山の山頂に着いた頃には、富士山は見えないかもしれないと想った。そのような考えを見抜いたように、カケスが「そうだ、そうだ」と言わんばかりにジャージャー囃し立ててきた。
立入禁止の表示と夥しい数のシイタケのホダ木
浅間尾根に登ると比較的に傾斜のなだらかな場所に数か所に分散して、何万何十万という夥しい数のシイタケのホダ木が組まれていた。ホダ木の周りは野生動物避けの鉄板囲いやネットが張り巡らされ、立入禁止の表示がなされていた。ネットの中を覗き込むと、シイタケが芽を出して大きいものは5cmほどの傘を作っていた。それにしても下で見たワサビもそうだが、シイタケなどを盗む人がいるのだろうか。主食にはなり得ないし、食べてもあまり美味いものではない。
シイタケ運搬用のモノレールが敷設されていた
鉄囲いやネットはイノシシやシカからは有効だと想われたが、もし、サルがシイタケを狙ったらサルからは無防備のようだった。ここにも収穫したシイタケを運ぶモノレールが敷設されていた。
アセビのトンネルを初めてくぐった
シイタケ畑を過ぎて標高を上げていくと、アセビの白い花が垂れているトンネルが現れた。過去に大峯奥駈道や金峰山、更にはネパールなどでシャクナゲのトンネルをくぐったことはあるが、アセビのトンネルは初めてだった。アセビの木はツルツルしており、サルスベリの木に似ていた。その枝から控え気味に、白い数珠つなぎの花が、日に照らされて輝いていた。
立派な鷹ノ巣山避難小屋の内部
このコースの唯一の水場で、鉄管から流れ出ている湧き水で喉を潤すと間もなく、木々に囲まれた鷹ノ巣山避難小屋に着いた。2重扉を開けて中に入ると、6畳ほどの土間と12畳ほどの板の間があった。ずいぶん立派な避難小屋だった。20mほど離れた場所にトイレがあり、携帯電話の電波は入らなかった。
春霞のなかに消えた富士山
避難小屋を過ぎて10m〜15mほどの幅で木々が伐られた防火帯を登って13時半に鷹ノ巣山の山頂に着いた。山頂には誰もいなかった。広く平らな山頂からの見晴らしは良かったが、南側に見えるはずの富士山は残念ながら春霞のなかへと消えてしまっていた。反対側には近くの雲取山から天祖山、天目山などが見えた。登頂記念の写真を撮ったあと、グラデーションになっている山波みを眺めながら、バナナとおにぎりを食べた。
山頂の北側に雲取山・天祖山・天目山が望めた
今日は全国で気温が上昇し夏日が観測される予報だった。やはり4月も中旬になると早朝は見晴らしが良いのだが、日中になると気温が上昇し、蒸発した水分で霞がかかってしまうのだろう。登山口から周りの景色が見通せない登りだったので、頂上での富士山を見たかった。
11頭のニホンザルに出会った
今回の山旅で出会った登山者は、シイタケ畑で男性1人、避難小屋から鷹ノ巣山に登る途中で男性1人女性2人のグループ、鷹ノ巣山から避難小屋に降りる時に男性1人の合計5人だった。出会った野生動物はニホンザルだった。登りで4頭、降りで7頭だった。イノシシやクマには出会わなかったが、山のなかは動物たちの生活圏であり、そこに山道が通っており、人間は通らせてもらっているというのが正直な話だろう。
今回の鷹ノ巣山ハイキング活動データ
予定よりも5分遅れたが、バス発車の30分前にバス停まで降りた。今回歩いた距離は17.3km.、標高差は登りが1678m、下りが1700m、歩数41246歩というものだった。標高差が1500mを超えるというのは、例えば上高地から槍ヶ岳の標高差は1500mなので、上高地から槍ヶ岳に登り、
上高地まで降りてくるのを山小屋で1泊せずに日帰りで行う、という結構きつめなハイキングだったので、脚が疲れて下山途中で両脚に痙攣が襲ったのだった。