ブルーライト・ヨコハマ

 

朱雀門(西門)

 

横浜中華街には10箇所に門が建っています。その中で代表的な門が東西南北の方向に建てられている朝陽門(東門)、延平門(西門)、朱雀門(南門)、玄武門(北門)です。9月17日に10箇所の門を見てみようと娘の愛と一緒に横浜の散策を兼ねて中華街に出かけました。


 スタートは根岸線の石川町駅としました。中華街の西側から10箇所の門を一筆書きで廻るように計画しました。

1番目の門は石川町駅北口の傍に建つ赤と金色に輝く西陽門です。鮮やかな門の上を高速道路が走っています。その門を潜って第2の延平門(西門)に向かいました。

2番目の延平門は港中学校脇に緑色に塗られて建っていました。門の下を乗用車がひっきりなしに通過しています。大きな門です。次に3番目の地久門に向かいました。

3番目の地久門では「はとバス・中華街体験ツアー」の20人ほどの団体客がガイドさんに連れられて中華街中心地区のほうに歩いていきます。地久門から天長門まで見通せる真っ直ぐな関帝廟通りと、いつも大賑わいの中華街大通りに挟まれた地域が中華街の中心地です。地久門から南に下り、レイトンハウス脇を左折していくと古めかしい廣東会館が建っていました。その入口に石を彫刻した東西南北を示す青龍、白虎、朱雀、玄武、が壁に埋めこめられています。立派な彫刻です。
 4番目は朱雀門(南門)です。朱雀門の向う側は首都高速神奈川3号線を挟んで元町です。愛は朱雀門脇のファッション店に入りゴールドのベルトを買いました。店内の品物はどれでも1050円の価格です。TBSテレビの「はなまるマーケット」でも紹介された店と宣伝していました。朱雀門から南門シルクロードを北側に歩いていくと天上聖母を祭った賑々しい横浜女馬祖廟が建っていました。実に派手派手しい建物です。500円の線香を入口で購入すると建物の中に入ることが出来ますが天女には興味がないので外から眺めるだけにして、建物の中を伺うと中央に天上聖母像が立っていました。優しい顔をしていました。

 

天上聖母

 

5番目は天長門でとても賑やかです。天長門は関帝廟通りで地久門と向い合っています。天長門の向かい側が横浜大世界で、これまた派手派手の建物です。どうして中華ってこんなに派手派手なんだろうかと思ってしまいます。

6番目は山下公園から中華街に入ってくるときに出会う朝陽門(東門)です。車が引っ切り無しに通っています。

7番目と8番目は中華街区の中央にある市場通りの両端の出入り口に建っています。丁度、お昼の時刻になったので市場通りの中央にある「彩鳳」という店に入り9品の中華コースを頼みました。「彩鳳」は偶然入った店でしたが、雑誌やテレビで取り上げられる店のようで芸能人やミュージシャンのサイン色紙が壁に沢山貼られていました。シュウマイ、餃子、春巻き、次々にテーブルに出される料理は美味く、生ビールを飲みながらバクバク胃の中に落とし込んでいきました。愛も「美味しいね」と言いながら食べています。お腹もいっぱいになり満足満足の気持ちで店から中華街大通りに出ると歩くのも大変な人出です。中華街大通りは、いつも大賑わいのメインストリートです。

9番目はお馴染みの善隣門です。中華街を紹介するパンフレットには代表的な門として紹介されています。中秋節の横断幕が張られ、月餅フェアの表示が出ていました。そういえば十五夜お月様の季節でした。先週、家でお団子とススキでお月見をしたのを思い出しました。

10番目の門は横浜球場に近い玄武門(北門)でした。中華街に建っている10箇所の門を全て廻ったことになります。

横浜中華街の中心地は、長安道、関帝廟通り、南門シルクロード、中華大通りに囲まれた一帯です。そこを取り囲む形で10個の門が建っていました。今回は今まで入ったこともなかった市場通りや南門シルクロードも歩きました。中華街は相変わらず人が多いですが文化の違った区域を散策するというのもいいものです。

 

 これで中華街に建てられている10基の門を廻ったわけですが、その中で東西南北に建てられた4基は中国に古くから伝わる風水思想に基づいています。中国では古来より皇帝が王城を築くとき城内に入ってくる邪を見張り、これらを見破るために東西南北に限って通路を開き門衛を置いたと言われています。それらは「春夏秋冬」「朝昼暮夜」「青赤白黒」で彩られ、各方位の守護神として多くの人々に信仰されていた四神(青竜神、白虎神、朱雀神、玄武神)を据えたと言われています。

 

玄武門(北門)

 

玄武門を写真に写したあと大桟橋に向かいました。途中、今年の2月に一騎が結婚式をあげたホテル・コンチネンタルが建っていました。歩道では日陰を探しながら歩いて行きますが、さすがに大桟橋では日陰がありません。雲ひとつなく晴れ上がっているので日光は容赦なく照りつけます。大桟橋に来たのは今年は2度目です。今日も良く晴れベイブリッジが白く輝いています。湾内は穏やかで波は静かです。行き交う船もなく、時折、カモメが飛んでいく姿が目につきます。ランチクルーズに出ていた湾内観光船が桟橋に戻ってきて赤い制服を着た女性スタッフの出迎えを受けています。下船したのは30人ほどでした。

 大桟橋の日陰のない芝生の上では横になる気も起きないので赤レンガ倉庫に向かってみました。3連休の最終日で天気は上々のため凄い人出でした。愛は友達と度々訪れているとのことで各階の売り場を理解しており、アンティークの品々が売られているコーナーに足を運んで母さんの誕生日プレゼントを探し、気に入ったものがあったようで店員さんにギフト用に包装してもらっていました。私は買うものはなかったのですが、やはり目に留まるのは酒器セットの類です。結構面白い組合せがあり感心させられることも多かったです。

 日もだいぶ西に傾いてきたので地ビールを販売している屋台の前に腰を降ろし、瓶から直接ラッパ飲みで横浜地ビールを飲んでみました。横浜地ビールは初めて飲みましたが、渋みの利いた味の良いビールでした。愛は隣に座ってアイスクリームを食べていました。

 18時にランドマークタワーで彰子と待合わせなので子ども遊園地を通りながらタワー向かうことにしました。途中にある横浜コスモワールドは丁度、後楽園遊園地を広く分散させたような感じで数々のアトラクションと、保育園児から小学校低学年生を対象とする遊具・乗物が準備されています。お父さんやお母さんが子どもたちの笑顔を写真に取りながら親子共々楽しそうです。私たちの家族も愛や大と一緒に色々な遊園地に出かけていったなぁと10数年前のことを思い出しました。過ぎ去ってしまえば良い思い出です。子どもたちが全面的に親を信頼し付いてくる時間はほんとに短い期間です。その輝く時間を親子で共有できる素晴らしさをここで楽しんでいる親子は、今、噛みしめているのです。過ぎ去った過去を振り返ると、その輝きがどんなにか素晴らしいものであるか後から判ります。時は戻りませんが心の中に思い出として輝き続けています。

 子ども遊園地のベンチで暫く休みながら親子の楽しむ姿を眺めてから日本丸が展示されている広場に行ってみました。横浜博覧会が開催されたときは帆船・日本丸は海から航海してきましたが、現在は周りをコンクリートに囲まれて身動きできない状態になっています。日本丸の甲板に上がるのには入場料を取っていましたので周りから眺めるだけにしました。マストに帆は張られていませんでしたが、横浜博覧会当時は沢山の帆が風を含み素晴らしい雄姿であったことや、愛が赤いスカートをはいて元気に跳ね回っていたことを思い出しました。

帆船・日本丸


 ランドマークタワーに向かって行く途中の円形広場で大道芸人がパフォーマンスを行っており、大賑わいなので私たちも座り込んで大道芸を見ることにしました。大きめの3個のサイコロを縦に積み重ねる芸でした。芸人は巧みな話術・冗談で笑わせ観衆を引き込んでいきます。圧巻だったのは燃え盛る松明3本でお手玉を行いながら円筒の上に2個重ねた机の上に飛び乗り、バランスを取りつつ松明のお手玉を続けるという芸でした。絶妙のバランス感覚に、なるほどなぁと感心しました。相当練習を積まない限り出来ない芸だと思いました。芸が終わったのでポケットにあった小銭を500円程掴み出し、受け入れ用の帽子の中に入れました。大道芸を見ていたのは30分ほどの時間でしたが十分楽しむことが出来ました。

 18時に彰子と出会うことが出来ました。ランドマークタワーの69階展望台に登るのは初めてです。展望台までの料金は1人1500円で、少し高いかなぁとは思いましたが、ま・いいだろうということになり、暮れはじめた横浜の夜景を見るためにエレベーターで一気に上昇して行きました。展望台に設置された喫茶室は満員です。喫茶室は自分の注文した飲み物を飲んでしまった後でも夜景を見ようと席を立たないので回転が悪いのです。私たちは最初から喫茶室には目を向けないで4面の展望を楽しむことにしました。1回廻るのに30分ほどかかり、もう一度、廻ることにしました。

 夜景は周りの暗さが濃くなる2回目のほうがより輝いて見えました。南面はコスモクロック21観覧車と白く輝く半月のコンチネンタルホテル、あるいは横浜球場のカクテルライトが眩しく輝いていましたが、中華街が暗くヒッソリしているのには驚きました。昼間の賑わいから想像してもっと輝いているのかと思ったのです。東面は高速道路が印象的でした。北面の足元に広がる住宅地は本当に宝石箱を引っくり返したという表現がピッタリするような美しさでした。69階展望台では1時間ほど夜景を楽しんでいました。

 

歌手・いしだあゆみさんが『ブルーライト・ヨコハマ』を歌ったのは40年も前のことです。今でも軽快なリズムが思い出されます。

 

街の灯りが とてもきれいね

ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ

あなたとふたり 幸せよ

いつものように 愛の言葉を
 ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ

私にください あなたから

 

キリン・ビアホールにて

 

 翌日の9月18日は彰子の51歳の誕生日でした。50歳最後の夜をB1のキリン・ビアホールで乾杯することにしました。私たち3人がホールに入る頃は時間も早かったせいか、お客は少なかったのですが徐々に増え始め、1時間も経過するとビアホールならではの賑やかさになりました。ツマミは愛と彰子がメニューを見ながら注文していました。大が4月にボクシングジムの合宿所に入り、愛が取手のマンションに引っ越して以来、家族4人で食事をする機会はメッキリ減ってしまいました。この日は3人での食事でした。夫婦2人の食事に戻ることは子どもたちが成長し、それぞれがひとり立ちしていくことなので親としては喜ぶべきことなのですが反面寂しいことです。それでも今日は愛と1日横浜で遊び、夕方には彰子が合流し夜景と夕食を楽しむことが出来ました。お互いが健康でいるからこそ楽しむことが出来ることに感謝し横浜から帰宅の快速電車に乗り込みました。

 

 1859年7月1日、横浜港が開港されました。欧米の商人達とともに多くの中国人が来日しました。言葉の通じない中で漢字によるコミュニケーションをとり貿易の仲介者として活躍し、これが横浜中華街の原点になったと言われています。

 1867年(明治維新の前年)、横浜に住む中国人に籍牌という名の住民登録が義務付けられ、居住地での経済活動が可能となりました。更に1871年に日清修好条規が調印されると横浜に清国領事館が開設され、中国人の活動は拡大され華僑貿易商も登場しました。横浜と香港・上海に定期航路が開設され、さまざまな技術を持った中国人が来日しました。集まってきた中国人達は「三国志」で有名な関羽を祀る関帝廟を始め、さまざまな施設を築いていきました。

 しかし、1894年に日清戦争が勃発し、1923年には関東大震災、1931年には南満州鉄道を爆破した満州事変により日中15年戦争へ突入し、1937年の盧溝橋事件を契機に戦場は中国全土に拡大して行きました。そして1941年には第2次世界大戦の地域版としての太平洋戦争に突入し、1945年の日本の敗戦をもって敵対関係に一応の終止符が打たれました。つまり横浜で生活していた中国人にとっては半世紀・50年間が日本という敵国との緊張関係にあったということです。いつの時代にあっても馬鹿をみ、割をくうのは市井で真面目に働いて隣人と友好関係を築いている人たちです。

 1945年、焼け野原となった中華街も1946年に関帝廟を再建し、1955年に中華大通りに立てられた門が中華街のシンボルとも言われている現在の「善隣門」です。

 

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