東北に旅するという支え方もある

 

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原発事故で耕作放棄せざるをえなかった田んぼにタンポポが満開

 

 2011年3月11日、東日本大震災が発生し東北地方の太平洋岸を中心に甚大な被害を引き起こした。それから2年を経過した5月2日〜5日の連休を利用し、3泊4日で被害の復興状況を見ようと妻とともに出かけた。「東北に旅するという支え方もある」というのは吉永小百合さんが宣伝しているJR東日本のキャッチコピーであるが、今回、訪れた被災地のごく僅かな地域でも復興とは程遠い現実の中で生活しているのが実態だと思った。

 

 5月2日

 幕張の自宅を7時40分に車で出発し湾岸高速から首都高速に入り東北道を北上し、福島県二本松インターで降りて安達太良スキー場に到着したのは12時だった。平日のためレストランは営業しておらず、動いていたゴンドラは強風のため運行を停止してしまった。安達太良山山頂はまだ真っ白い雪のなかだ。ゴンドラが動いていたならば安達太良山7合目まで登ってみようと思っていたが断念した。1日目の宿泊を岳温泉の『扇や』に予約していたがチェックインは15時なので、昼食に岳温泉近くの「チーズケーキ工房:風花」に入った。メニューから私と妻はそれぞれ食べたいものを選んだ。私はスパゲティ、チーズケーキ、紅茶を頼んだ。温かいスパゲティは実に美味い。車を運転しているので昼食時にビールが飲めないのは残念だが夜の楽しみだ。

 

 昼食を終え岳温泉に引き返し車を扇やの駐車場に止め周辺の散歩に出た。平日のためか温泉街は閑散としており歩いている人が全くいない。1時間の散歩中に営業を終了した大きなホテルが二つあった。福島県の各観光地は東日本大震災に伴う東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故で放射能に汚染され、その風評被害に伴い観光客も激減したことで採算が成り立たなくなったのであろう。

 

 5月3日

 妻の友達とは南相馬市の原町で会う約束になっていた。原町は東京電力福島第1原発から北側に20kmの位置にある。前日、妻が友達と落ち合う時刻と場所を確認すると、岳温泉から原町に来るルートは浪江町からのルートは放射能汚染のため閉鎖されているので川俣町から飯舘村を通るルートで来て欲しい、と言われたという。車のナビに到着予定場所を設定すると浪江町からのルートは選択せず川俣町から飯舘村を経由するルートを選択した。

 

 私は途中通過する飯舘村という場所は辺鄙な山村風景を想像していたのだが車で走ってみて驚いた。ものすごく家があるのだ。さらに驚いたのは、家の周りに花は咲き青葉は茂っているが、その家々の全ての窓とカーテンが閉められており無人の村なのだ。原発事故後の放射能汚染から身を守るため「全村避難した」という言葉が蘇ってきた。福島第1原発の爆発による放射能の影響をもろに受け、全ての住民避難が2年を経過しても続いている現実がそこにあった。

 

034-1 飯舘村を通過し待ち合わせ場所の南相馬市役所で妻の友達と会い、妻と友達は食事後に津波の被害で見渡す限り何もなくなってしまった地域を回りながら友達から津波被害の前後の状況説明を受けたという。妻と別れた私は原町の『新田川温泉:はらまちユッサ』に向かった。温泉は12時からの営業だったため近くの農村風景を眺める散歩に出たが、田んぼは放射能のため耕作がやむなく放棄され黄色のタンポポの花が青空の下で咲き誇っているという悲しい風景が広がっていた。近くに除染したものだろうか黒いシートにすっぽり覆われトラロープで囲われた一角があった。飯舘村にしろ、原町にしろ、テレビを見ているだけでは原発爆発の放射能被害は実感として分からない。現地に立ってこそ肌で感じられるものだ。

 

 5月4日

 前日は蔵王の遠刈田温泉に宿を取ったのだが、仙台を抜けて石巻から南三陸町に向かった。途中、牡鹿半島の突端の鮎川港で震災以来ボランティア活動を続けている山仲間の本多さんが連休を利用して鮎川に滞在しているというので会いに行った。

 

 鮎川港もそっくり津波に持って行かれたところで、しかも土地全体が1mも地盤沈下してしまい満潮時などに海水が浸水してくる地域もあるという。入江の集落だったところは全て建物の土台を残して更地となっている。「おしかのれん街」という市場で本多さんと一緒に昼食を食べた。若夫婦が食堂で地元の魚介類を使って営業していたのだが、奥さんは地震当日の発生30分前に自宅に戻り地震に遭遇し、津波が来るから避難の声で裏山に道なき崖をよじ登っていったという。奥さんは2週間後に出産を控えていた身重で小さな子どもを連れての避難だったとのこと。津波の第1波は比較的小さかったので一緒に避難した人の多くの人が自宅に預金通帳などを取りに戻った際に大きな津波第2波がやってきて、みんな津波で持って行かれ自宅に行った人は戻ってこなかったという。奥さんは自分の車が流されていくのを見たが夜になっても山から降りず、ただ赤ちゃんが早まって生まれてこないことだけを祈っていたという。翌日、雪の中を避難所に退避したのだが道路が寸断されて動くことができず、産気づいた時はヘリコプターで南三陸町赤十字病院へ搬送してもらい元気な女の赤ちゃんが生まれたという。大変な経験をした女性なのだが、淡々と話しながら料理を作っている姿が印象的だった。

 

 13時から小学校で被災者の娯楽のため「男はつらいよ」の映画上映を手伝う本多さんと別れ宿泊を予定している南三陸町の歌津岬に向かった。リアス式の海岸線に沿って北上していくので次々に津波に持って行かれた集落跡を通過する。099-1海岸沿いの集落が津波でごっそり持って行かれ、現在ではガレキが取り除かれ平地だけが残っている状況は天災だと諦めもつくが、原発事故による避難状況は津波と同時に起こったこととはいえ全く次元が異なる。

 

原発事故は完全に人災である。原発は人間が作ったものであり、現在の科学技術では完全に制御できないシステムであることを覆い隠し、「原発=安全という根拠のない神話」で突き進んできた結果の破綻が東日本大震災を契機として噴出したものだ。これまで各電力会社は科学技術で解決できないものをあたかも解決しているように振舞うと同時に、原発が立地している地方自治体に高額交付金をばら撒き、周辺住民に働き口を提供し丸ごとごっそり原発に抱え込むという状況を作り出していった。汚染された原発近辺の住民への強烈なしっぺ返しが今回の原発事故だろう。私は起こったことに対しては常に客観的に判断しなければならないと思う。現在日本に原発は54基あるが、稼働しているのは大飯原発1基だけである。電力業界はこぞって各地の原発再稼働を働きかけ政治家も再稼働の方向に動いているが、これだけの被害を受けても他人事と考える人たちは相変わらず無関心だろうし、各地の原発で恩恵を被っている地元の方は再稼働を望むであろう。しかし、原発に頼らない社会を目指すことは社会構造を変えていかねばならず実に苦しいだろうが、その方向に歩き出さなければ日本を亡ぼす方向に進んでいくだろう。

 

 5月5日

 今日は幕張に帰宅する日だ。12時間の運転を覚悟しなければならないだろう。南三陸町から北上し気仙沼港を訪れた。桟橋は崩れ落ちたままだったが港からフェリーが出航するところだった。ここにも建物の土台だけが残されているのが多数あり、プレハブの『復興屋台村:気仙沼横丁』が建っていた。ここの人たちも避難所から通ってきて営業をしているのだろう。

 

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