昔、河童が住んだという
福泉寺の夫婦河童と知恵の神様「梟」
日本に民俗学という学問を創出した柳田国男は、明治42年6月に遠野の人・佐々木喜善が語った伝承を著書『遠野物語』として350部発刊した。『遠野物語』は柳田の友人知人に配布する自費版であった。その『遠野物語』にはさまざまな昔話や言い伝えが記されているが、代表的なものは「早池峰」であり「座敷わらし」、「オシラサマ」であるが、「河童」も沢山登場する。
例えば「58話」は次のようになっている。
「小烏瀬川の姥子淵の辺に、新屋の家といふ家あり。ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに行きし間に、河童出でてその馬を引き込まんとし、かへりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽に覆はれてありき。家の者馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば河童の手いでたり。村中の者集まりて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬといふ堅き約束をさせてこれを放したり。その河童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりといふ。」
私は6月中旬に早池峰に「ハヤチネウスユキソウ」を見るための登山計画を立てた。その際に1日を遠野周遊にあてた。インターネットで情報を検索すると同時に遠野観光協会にパンフレットを送ってもらった。送られたパンフレットを検討した結果、「遠野の歴史を訪ねる(21km・3時間)コース」と「遠野の物語を訪ねる(27km・4時間)コース」を自分で組み合わせ、独自なサイクリングコースを回ることにした。
遠野は四方を山に囲まれた細長い盆地であり、かつては日本のチベットとも言われた僻地であった。現在は花巻から釜石までJR「釜石線」として単線のディーゼルカーが1日当たり上下それぞれ11本走っている。新幹線を新花巻駅で釜石線に乗換え遠野駅で下車すると駅前に痩せた河童のモニュメントが立っている。駅前の歩道にも河童を始めとした伝承に登場するさまざまなものがタイルで埋め込まれている。遠野を代表とする動物が河童なのである。
「おしら堂」内の1000体のオシラサマ
駅前の観光協会でレンタサイクルを借りた。2時間500円の基本料金に1時間超過するたびに100円増しとなる。女子係員に「早池峰は遠野から見えますか?」と訪ねると観光地図を指し示し「この辺りで見えます。他は前の山が邪魔をして見えません」という返事だった。早速、自転車で走り出し係員に教えられた地域を走っている時に左手奥の遥か彼方に「へ」の字をした早池峰山頂が遠望できた。明日はあの山頂に遊ぶのだ。
伝承園に入ってみた。伝承園はその名前で分かるように遠野地域にさまざまに伝えられてきたものが一箇所に移築されているのだが、遠野と言えば、やはりなんていっても『遠野物語』である。入口すぐに蔵造りの佐々木喜善記念館が建っているので入ってみた。正面に柳田国男の『遠野物語』の原稿が掲示されている。達筆の往復書簡も沢山展示されている。展示されているものは毛筆で書かれ、葉書や封書をやりとりしているが上手い書体だと思う。
伝承園には、岩手県を代表する南部曲り家、雪隠、湯殿、釣瓶井戸、水車小屋、炭窯、などが建てられ「曲り家」とその奥に繋がる御蚕神堂(おしら堂)が見ごたえがあった、というよりビックリした。娘と馬の恋物語が「おしら堂」へ続く廊下に写真説明となって掲示されている。私が人形劇「オシラサマ」を観たのは30年ほど前だろうか。オシラサマは、農業の神様、馬の神様、蚕の神様、と言われ、薄暗い「おしら堂」の中は四面の壁一杯に千体のオシラサマが展示されている。最初見たその異様の光景に息を呑んだ。そのオシラサマに赤白青黄桃などの布に各自の願いを書いたものが掛けられているのである。現在まで伝えられているひとつの文化である。また、昔から伝わる物語を話すおばあさんが部屋に静かに座っていた。やがて団体客が訪れると南部訛りのまま語り出した。おばあさんが何て言っているのか分からない部分もあるが、前後のつなぎで聞いていくと、なるほどなぁと分かる。団体客は時たま大声で笑いながらおばあさんの昔語りに聞き入っていた。
河童淵に建つ「河童祠」の脇に座っている2体の女性河童
狛犬ではなく阿河童と吽河童が本堂の前に左右に置かれている常堅寺の境内を横切って「河童淵」に行ってみた。淵の脇には河童祠が建ち、祠の中にも河童の像が置かれている。祠の脇には陶器製と思われる2体の女性の河童が座っている。1体は赤ちゃん河童に乳を含ませている河童であり、他の1体は金色の玉のようなものを胸の前に掲げていた。何を意味するのかは分からない。
河童といえば思い出すのは清酒「黄桜」の小島功の漫画であろう。私の子どものころテレビコマーシャルで流れていた。亀の甲羅のようなものを背中につけ色っぽい女性河童がお酌をするパターンだったが、気持がホンノリゆったりする漫画だった。そのようなコマーシャルは現在皆無だ。ゆったりしたコマーシャルが作れないということは時代がゆとりのないギスギスしている反映であろう。いつの世にも大切なことは半歩離れて見る視点ではなかろうか。
昔、自然現象を科学というもので解明できなかった時代、理解不明なことは神様の行いとして、恐れ、敬い、祀った。それが長い時代続き、やがて全てが科学という名のもとに解明されるという風潮になった。そして古くから伝えられていた伝承は過去の遺物となり切り捨てられた。同時に地域文化が継承されず廃れた。確かに現代において「河童」の存在を信じる人はいないだろう。しかし24時間営業のコンビニエンスが当たり前となったが、眠らない都市・東京では多くの精神を病む人たちが生まれ続けている。今後も生まれ続けるだろう。『遠野物語』で語られている時代は満足な電燈もなく、夜は漆黒の闇に人々は静かに身を置き、小さき人間の存在を自然の一部として感じていた時代であった。だからこそ人間以外の動物も生き生きとして物語に登場しているし、超人的存在としての天狗も度々登場している。人間とそれを取り巻く森羅万象の世界が一体としてあった時代でもあった。『遠野物語』からの教訓として大切なことは心のゆとりを持つ生き方だろう。私は遠野を訪れ、そのようなことを感じた。