戸隠神社を訪ねて

 

戸隠神社奥社参道の樹齢400年の杉並木

 

9月の3連休の谷間の3日間(9月20日〜22日)を使って信州戸隠に出かけて行った。目的は飯綱山登山と戸隠神社参拝である。飯綱山登山は別項に譲るとして戸隠神社5社を訪ねて感じたことを書き留めておきたい。いつの頃からか「戸隠」という言葉が私の頭の隅に置かれるようになっていた。切り立った断崖とそれを映し出す鏡池、昼なお暗い杉木立の奥の荘厳な神社と天照大神の天の岩戸伝説が一体となり、戸隠は何時か訪ねてみたい場所の一つになっていた。

 

古事記および日本書紀による「天の岩戸伝説」のおおまかな内容は、昔むかし、世の中を明るく照らす太陽の神・天照大神が弟の素戔鳴尊の傍若無人の乱暴に怒り天の岩屋へ引き篭ってしまった。世の中は真暗闇になり、いろいろな魔物が暴れ放題。困った八百万の神々が集まり相談した。天照大神になんとか岩屋から出てもらおうと話し合った結果、歌や踊りの宴会を開き誘い出すことにした。天鈿女命の見事な踊りに宴会を開く神々も踊ったり笑ったりの大騒ぎ。その騒ぎが気になり天照大神が少し戸を開けて外を見た時、すかさず天手力雄命が岩屋の戸を開け、岩戸を放り投げた。岩戸は遥かかなたの信濃の戸隠へ飛ばされてきた。その岩戸が戸隠山となったという。以来、世の中は今まで通り明るくなり、メデタシメデタシという伝説です。その神々のうち、天の岩戸を開けた天手力雄命が奥社に、歌や踊りの宴会を提案した天八意思兼命が中社に、天鈿女命が火之御子社に、天表春命が宝光社に、そして戸隠地主神の九頭龍大神が九頭龍社にそれぞれ祀られており、この5社を総称して戸隠神社と言われている。

 

戸隠神社奥社の「天の岩戸」伝説の絵馬

 

新宿高速バス停7時50分発のバスは11時20分に長野駅前高速バス停に到着した。すぐさま11時33分発の川中島バスに乗換えて戸隠高原に向かう。高速バス往復と戸隠高原フリー切符3日間のセット料金は8600円である。実に安い。

長野駅前から約1時間で中社宮前停留所に降り立った。目の前には樹齢900年といわれている3本杉が大鳥居を囲むように立っている。どの杉も素晴らしいものだが1本の根から幹が3本に分かれて立ち上がっている(い)の杉がひときわ目につく。早速、大鳥居をくぐり70段の石段を登って中社にお参りをした。立派な神社である。祭神は天八意思兼命で、岩戸に隠れてしまった天照大神に岩戸から出てきてもらおうと神楽の舞い踊りで誘い出しの提案をした智恵の神様とされている。高い杉に囲まれて立っている神社の姿は美しいと思った。戸隠神社の社紋は4本の鎌を卍形に配している鎌卍である。鎌は農業の最初の作業として荒れ草を刈る道具である。そのうえで土地を耕し、豊かな土壌を作り出し、種を蒔き豊作を願う。戸隠神社は五穀豊穣・農業の神様として崇められている。

私の群馬の生家では親父の代まで農業を生業としており戸隠神社の御札が毎年届けられていた。中社の宮司をされている極意憲雄さんが御札を届けてくれるわけだが同時に宿坊「極意」の聚長もされている。宿坊「極意」は中社の前に建っており素晴らしい萱葺き屋根の重厚な建物である。戸隠講が盛んであった頃は群馬の村からも毎年戸隠神社へ1年の感謝と来年の安泰をお願いした後、宿坊「極意」に泊まったことであろう。その講がなくなると今度は神社の方から毎年御札を持ってきたものと思われる。親父が亡くなり農業はしなくなった今でも続いている。

 

中社(ちゅうしゃ)拝殿

 

中社を後に戸隠連峰を映し出す鏡池へと向かった。最初、中社から村の中を通って行こうと思ったが細い道が入り組んでおり、道を2回間違え進むべき道が分からなくなったため本線に戻り、小鳥ヶ池の表示板を頼りに小鳥ヶ池から鏡池に向かうことにした。遊歩道はナラ、カエデ、クリなどの明るい雑木林の中からやがて落葉松林の中へと進んでいく。鏡池までの行き方を教えてくれた越後屋酒店のおかみさんから「最近、熊が出るから声を出しながら行くといいよ」をありがたいアドバイスをいただく。まさかこんな人里近くまで熊が出るとは思っていないので「熊避けの鈴」など持っていない。あとで分かったことだが土産物屋でも「熊避けの鈴」を売っていた。遊歩道の目につくところでかなりの数の「熊出没注意」の看板が掲げられていた。小学生の通学路に掲げられている大きなポスターにも出会った。なんとも凄い地域である。なぜこんなに熊が人里まで降りてきたのかを中社宮前の土産物屋「宝泉」のおかみさんは「以前は熊もいませんでしたが登山者が増え、ジュース類や食事の残りを山に置いてきたのを熊が食べ、味をしめて人里まで降りてくるようになってしまったのです」と話してくれた。罪深きは心ない登山者か・・・

 

おかみさんのアドバイス通りに「ホー」「ホー」と声を出し、人間が歩いているよと熊に分かるように掛け声をかけながら鏡池までの1時間を歩いた。途中、硯石では鬼女・紅葉伝説が残されている荒倉山が見え、その右側には美しく天を突く一夜山がくっきりとした姿を見せていた。

鏡池に映し出された戸隠山はまさに屏風を立てたように切り立った岩山である。あの岩山の峰から峰へと登山縦走路が延びているが、断崖の脇を通る危険極まりない縦走路であることが鏡池から戸隠山の山容を見ただけで容易に想像がつく。しかしながら戸隠山は落葉樹に囲まれている山なので春の新緑や秋の紅葉時に訪れたならば素晴らしい景色に出会えるだろうと思った。それは丁度、群馬の生家から望める妙義山のようでもある。

しばらく鏡池に映る戸隠山を見た後、天命稲荷と奥社参道に建つ随神門を通って戸隠キャンプ場へとつながる「ささやきの小径」を歩く。中社から鏡池までの道と同様に行き交う人はいない。小鳥の鳴き声と小川のせせらぎだけが耳に届きとても静かだ。

草原の中のキャンプ場はとても清々しい。大きなツガの木の下にテントを設営した。オートキャンプ場も兼ねている広いキャンプ場に張られているテントは私のテントを含めて4張りだけである。

 

宝光社(ほうこうしゃ)拝殿

 

 2日目は飯綱山登山の日である。その行き帰りに火之御子社、宝光社、奥社、九頭龍社にお参りしようと思う。

戸隠キャンプ場から奥社入口まで「さかさ川遊歩道」を50分ほど歩き、道を旧越後街道に変え中社まで歩く。更に歩を進め火之御子社を訪ねた後に宝光社にやってきた。宝光社は長野市側から戸隠に向かうと最初に出会う戸隠神社である。杉木立の中の湿った270段の石段を登り詰めたところに立派な拝殿が建っている。

明治政府の神仏分離政策によって戸隠山顕光寺は戸隠神社への転換を迫られ、寺から神社への移行は全国各地で現れていたように極端な「廃仏毀釈」の風潮を生み出し、顕光寺も破壊されつくされるなかで広大な寺領は政府に没収され、九頭龍大権現は岩戸守大神として九頭龍大神となり三院は現在の奥社・中社・宝光社と称するようになったとのこと。明治政府は馬鹿なことをやったものだ。宝光社には天表春命が祀られており、技芸、安産、厄除け、家内安全の神様だといわれている。

 

 飯綱山登山を終え、戸隠高原唯一の温泉である「神告げ温泉」に入浴。湯上りにビールを飲みながら戸隠そばを食べた後、奥社と九頭龍社のお参りに向かう。

奥社入口に大きな鳥居が建っており参道は自然林の中を真っ直ぐ伸びている。両側に小川が流れている参道を20分ほど歩くと朱塗りの随神門という萱葺屋根の門が登場してくる。戸隠山顕光寺当事の仁王門だ。萱葺屋根にはたくさんの草が生え、古社の雰囲気を醸しだす。随神門手前にも杉は植えられているのだが、隋神門をくぐってからの参道の両脇に立つ杉並木は見事なものである。樹齢400年という説明板が目に留まったが、整然と屹立する大杉に感嘆の声をあげてしまった。杉並木を過ぎ参道の両側が再び自然林に変わると栃の実の殻が参道に散乱している。時たま頭上から殻が落ちてくる。野猿が栃の実を食べた後の殻を落としているのだ。たまに栗の実に似た栃の丸い実が落ちているが猿が誤って落としたものだ。実を落とした猿が歯をむきだして残念がっている姿が目に浮かぶ。私は奥社への行き帰りで7個の実を拾った。山はまさに実りの秋を迎え動物達にとっては厳しい冬を迎える前の食料が沢山ある幸せの季節である。

 

九頭龍社(くずりゅうしゃ)拝殿

 

九頭龍社は古くは九頭龍大権現として地元戸隠の水の神様として祀られていたが、神仏分離政策によって岩戸守大神として九頭龍大神となった。大権現から大神となったが命の源である水の神様が祀られていることに変わりはないのである。奥社の左側に小さい社ながらも毅然とした姿で建っているのに思わず手を合わせるのは私だけではないだろう。逆さ川へと流れ込む源流が神社の直下から始まっている。

 

 奥社は参道を上り詰めた最奥に建つコンクリート製の新しい神社である。以前の建物は1978年2月に起きた雪崩のために倒壊してしまった。神社がコンクリート製というのは残念というべきか生活の智恵というべきか意見の分かれるところではあるが、現実は頑丈なコンクリートと石垣で作られた建造物である。私は伝統ある戸隠神社の奥社がコンクリート製であることは残念なことだと思う。やはり木造であって欲しいと思う。雪崩にあって崩壊したか、あるいは火事で焼損した場合、再建する時はなるべく元の状態に復元するのが再建する側の立場ではないだろうか。理解に苦しむところだ。倒壊にあった雪崩の後、雪崩の起きた谷筋には3つの雪崩防止鉄柵が設置されたという。

 

雪崩で倒壊後、再建された奥社拝殿

 

 戸隠神社参拝と飯綱山登山の帰りに「神告げ温泉」を2度訪れた。天然温泉だが源泉温度が低いようで身体がなかなか温まらない。長湯をするのには丁度よい湯加減かもしれないが私にはぬるすぎた。湯船が一つで露天風呂がないのも残念なところだが、おそらく源泉温度が低いために露天風呂には適さないものと思われる。私としては温泉を少し沸かし露天風呂を造って欲しいと思う。60代と思われる温泉の主人は愛想のいい人で、私が「千葉からやってきた」と言うと「今度来る時は5月がいいね。空気は澄んでいるし丁度芽吹きの季節だから、きっと思い出に残る旅が出来ると思うよ」とアドバイスをいただいた。5月の新緑の季節に再度訪れてみようと思う。

 

 戸隠と言ったらすぐに思い浮かべるものがある。蕎麦である。すでに蕎麦の白い花の季節は過ぎていた。戸隠に行ったら食べるべきものは「戸隠そば」と決めていた。丁度、9月23日の秋分の日に「第36回戸隠そばまつり」が設定されており、前日の22日は前夜祭で大賑わいだという。残念ながら今回は日程の関係で前夜祭も「そばまつり」も体験できないが、戸隠そばだけは3度いただいた。私は日頃から蕎麦が好きでよく食べるが、戸隠そばは腰が強く歯ごたえがよく美味い蕎麦だと思った。根曲がり竹のざるに5ボッチが盛られて800円から850円の値段であった。薬味の下ろし大根、ねぎ、山葵を入れて啜り食べるのだがとても美味かった。再訪した際にも必ず食べようと思う。

 

 「山に登り、神社に参拝し、温泉に入り、酒を飲みながら蕎麦を食べる」という私の山行パターンが今回も実現できた。嬉しいことである。現在、私は56歳。あと15年、70歳くらいまでは今回のような山行パターンが出来るといいと思う。

 今回3日間の戸隠高原へのテント山行と戸隠神社参拝の旅で150枚ほどの写真を撮影した。しかしながらデジタルカメラのデータ保存媒体であるSDカードが壊れてしまいデータを読み出すことが出来なくなり、撮影した写真は幻の写真となってしまった。仕方がないこととはいえとても残念なことである。この文に添付されている写真は私が撮影したものではなく長野市および観光協会の写真を使わせていただいた。再度、戸隠を訪れた時に撮影しなおして添付しなおそうと思っている。(宝光社の写真を除き、全て2006年8月に戸隠高原を再訪、撮影したものと交換してあります)

                               2005年9月23日

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