すみだ北斎美術館を訪ねた
すみだ北斎美術館の外観
葛飾北斎。1760年に江戸本所で生まれ、90歳で浅草の仮宅で亡くなった。江戸時代後期に生きた天才浮世絵師である。アメリカの雑誌『LIFE』で、この1000年で最も偉大な功績を残した世界の人物100人に日本人としてただ一人選ばれたのも葛飾北斎である。私は北斎ゆかりの長野県小布施町を2度訪れたことがある。1度目は8年前に岩松院本堂の天井に描かれた「八方睨み鳳凰図」を見るために足を運び、2度目は6年前に『北斎館』を訪ねた。2度の訪問により、天井画、肉筆画、浮世絵、山車の現物を詳細に鑑賞した結果、その構成力、描写力に圧倒され「北斎は天才である」という印象を受けた。
葛飾北斎が生まれ、その人生の大半を過ごしたとされる現在の東京都墨田区に昨年11月に『すみだ北斎美術館』が開館された。約1ヶ月にわたる開館記念展も終わり、入館当初の賑わいも去っただろうと思われた今年1月18日に美術館の様子を見に行った。総武線両国駅から歩いて10分の緑町公園内にステンレス鋼の壁面の近代的美術館が建っていた。美術館内構成は、B1はロッカー室、授乳室、1Fは総合案内、チケット売り場、ショップ、2Fは不明、3Fは企画展示室、4Fは常設展示室、企画展示室というものだった。
チケット売り場でシニア料金の300円を払ってエレベーターで4F常設展示室に向かった。入場して最初に目に飛び込んできたのは『須佐之男命厄神退治の図』である。北斎が亡くなる4年前の86歳に描いたもので、地元の牛島神社に奉納した絵馬だが、残念ながら関東大震災によって焼失してしまった。しかし、残された白黒写真をもとに現代のデジタル技術で再現した推定復元図が掲げられていた。大きな絵馬で力強い筆跡が見て取れた。以前、小布施で観た岩松院本堂の天井に描かれた「八方睨み鳳凰図」は北斎88歳時の作品だが、その時も感じたのだが北斎の尽きることのない物凄い生命力である。燃え滾るような気力がないと大きな絵は描けないものだ。
展示室に入ると北斎の初期の作品から絶筆とされている作品まで順序だって見られる構成となっていたが、展示されていた作品の多くはレプリカだった。しかしながら現代のIT技術を使って北斎漫画や富嶽百景を手元の画面をタッチ操作することによって拡大縮小させながら鑑賞することが出来るし、遊び感覚で絵を再構成させるなどの様々なアイデアが溢れた展示も見受けられた。今回は平日の水曜日に訪ねたので比較的観客は少なかったと思われたので、画面タッチ端末も少しの待ち時間で操作することが出来た。
すみだ北斎美術館を訪ねた当日は浅草橋から両国界隈を散歩しようと思い、JR浅草橋駅で下車して柳橋まで歩き、神田川沿いの舟宿などを見た後に隅田川に架かる両国橋を越え、回向院で鼠小僧次郎吉の墓を訪れた。鼠小僧次郎吉は江戸時代の盗賊だが、フィクションによって義賊とされているため、墓石を削って財布に入れておくと財産が増えるとかで、熱心に墓石を削っている女性がいた。私はそのようなことはしなかったが、大勢の人々が墓石を削るようで沢山の削り跡が目立った。
回向院を出ると本所松坂町にある「赤穂義士遺跡 吉良邸跡」に向かった。赤穂義士と吉良上野介の仇討の話の筋は周知のとおり、江戸城内で接待役を受け持った赤穂藩主の浅野内匠頭が、接待役指導の吉良上野介から嫌がらせを受け、堪忍袋の緒が切れて松の廊下で刃傷沙汰を起こし、即日切腹の処分を受け御家断絶の憂き目にあい、家臣の家老大石力のもとで、かつての家臣47士が元禄15年12月14日に吉良邸に打ち込み、上野介の首を取り主君の無念を晴らした、という話である。その事件を歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』作品にして上演すると大受けし、現在でも12月になるとTVドラマなどが度々放映されているのである。
赤穂義士遺跡 吉良邸跡地内にある吉良上野介座像
しかし、物語には両面があるもので、短気な浅野内匠頭は赤穂藩のことも考えずに私憤から吉良上野介に切りつけ、致命傷も与えることが出来ずに側近に抑え込まれたドジな殿様ともいえる。以前、私が全国を旅していた頃に吉良上野介の領地であった愛知県西尾市吉良町を訪れたことがあったが、上野介は新田の開拓や塩業の発展に尽くし、今も残る黄金堤の治水工事により農作物の豊作が保証されるようになった善政の殿様ということで、忠臣蔵で悪役とされている吉良上野介とは真逆な話が残っており、現在でも地元の人は「吉良様」と慕っていたことに不思議な違和感を覚えたことが思い出された。赤穂義士の墓がある港区高輪泉岳寺の傍では「切腹最中」が売られているが、吉良邸跡の傍では「吉良まんじゅう」を売っていたので妻の土産に買った。
横網町公園内にある東京都慰霊堂
吉良邸跡の次に「すみだ北斎美術館」を訪ねたが内容については前述した。美術館内を鑑賞した後は、清澄通りを歩いて横網町公園内にある東京都慰霊堂と東京都復興記念館を訪ねた。関東大震災の際に周辺の人々が当時広場となっていた被服廠跡地に避難していたところ、運び込まれた家財道具への飛び火と強風によって大火災となり逃げ場を失った多数の避難者が焼死したところである。その焼死者の慰霊と震災からの復興を願って慰霊堂と復興記念館が建設された。その後、第2次世界大戦時の東京大空襲による犠牲者も一緒に安置慰霊されている。
17時の閉館間際であり見学時間も少なかったが、復興記念館に入館し展示されている遺品や絵画を見た。焼けただれた金属や当時使用していた食器類などを見るにつけ、炎熱地獄のなかで焼け死んでいった人たちの無念さを想い、自然と頭が垂れたのである。復興記念館を出た後は隣の旧安田庭園に向かったが、工事休園中だったため、隅田川沿いをJR両国駅に向かった。国技館の前を通ると大相撲1月場所の最中であり、出場している力士達を応援するカラフルな幟旗が風にたなびいていた。
大相撲1月場所開催中の国技館