瀋陽故宮・福陵と郷愁の港町 大連・旅順4日間の旅

 

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瀋陽(旧奉天)駅前

 

 2012531日〜63日までの日程で中国遼東半島の旅に群馬のお袋、弟、妻、私の4人で出かけました。旅行会社はクラブツーリズムでツアー全体での参加者は16人でした。今回の私たちの旅行の目的は、70数年前にお袋のお母さん(私にとってはお祖母さんです)が、職業軍人と結婚した娘の初産の面倒を見るため単身で当時の奉天(現在の瀋陽)に出かけたということを以前にお袋から聞いたことがあったので、その地を訪れようと企画したものでした。当時40代だったお祖母さんは船で旅順港に上陸し南満州鉄道で奉天に入り娘の面倒を見たのでしょう。

 

 今回、私たちの行程はお祖母さんの行程とは逆には成田空港から瀋陽空港に降り立ち瀋陽観光の後に列車で大連、旅順に下ってくるというものでした。観光ツアーで訪れる場所は名所旧跡などを訪れるのが主ですから古色蒼然としたものが多いのですが、移動途中の列車やバスの車窓から目に入る光景は道路やビルの建設ラッシュは約10年前に「砂漠を緑に」の活動で北京や瀋陽を訪れた当時に比べるとより一層と近代化に突き進んでいる印象を強く受けました。

 

 線路沿いに植樹してあるポプラの木々は古くても50年ほどの高さや幹の太さです。お祖母さんが奉天を訪れたころはだだっ広く茫漠とした荒野に鉄路の2本のレールのみが延びていたのだろうと想像を逞しくしました。現在でも荒れたままの荒野が広がっているところが数多く見受けられます。冬期の気温がー30度という厳しい自然条件では生活するのも大変だろうなぁと思います。

 

 瀋陽のホテルで目覚めたあと朝食前の時間に旧奉天駅まで散歩に出ました。私たちが泊まったホテルから歩いて10分ほどのところに旧奉天駅がありました。もちろん現役で使われている駅舎です。現在は奉天駅から瀋陽駅と名前は変更されていますが、駅舎は建設当時のまま東京駅のような赤煉瓦造りです。東京駅の設計者は辰野金吾ですが瀋陽駅の設計者は弟子の太田毅です。出来上がった駅舎は当然似ているわけで辰野式建築様式と呼ばれているものです。駅前広場が工事中のため駅舎までは行きませんでしたが、駅前交差点で写真を撮っていると通過するバスの車掌が外部マイクを通して写真撮影は禁止である旨を大声で怒鳴りまくって走りすぎていきました。社会主義の国は駅舎や橋梁は軍事秘密と言われていますが、なるほどなぁと変なところで中国という国が社会主義という建前であったことを気づかされた出来事でした。

 

瀋陽:副陵20120531 瀋陽で最初に訪れたのは世界文化遺産に指定されて『福陵』と呼ばれている清の太祖であるヌルハチとその皇后が埋葬されている陵墓でした。現在は東陵公園になっていますが丘のようになっているため坂と階段が多く85歳のお袋には結構きついのではないかと心配したのですがどうにか歩いてくれてホッとしたのも事実でした。ヌルハチはモンゴル人であったために建物に掲げられている額や石碑には漢字とモンゴル語が併記されていました。最奥にあるお墓は三日月形をしており未発掘であると現地ガイドのチャン(張)さんは説明してくれました。発掘した場合、その後の維持管理が現在の中国では難しいとのことでした。

 

このガイドのチャンさんは実にユニークな人でした。大学を出たあと日本人ガイドになったという30代半ばの男性でしたが、日本でのバブルが弾けて日本人旅行者の財布の紐が厳しくなりガイド業も大変という内輪話から始まり、中国の内情を社会主義と言いながら実は資本主義と全く変わらず役人だけが肥え太り庶民は仕方ないのでじっと我慢しており、犯罪で警察に捕まっても賄賂を掴ませると直ぐに釈放される賄賂の世界とか、病院でも賄賂を握らせると受診順番がすぐに廻ってくるとか、この賄賂のことを中国では「心付け」という言い回しで通っている、などということをそこまで話して大丈夫か、という展開でした。日常生活で相当なストレスが溜まっているのだろうと想像できました。

 

 次に訪れたのは瀋陽故宮でした。ここも世界文化遺産に登録されている場所でした。中国には皇帝の住居(皇居)であった故宮が北京と瀋陽の2箇所あります。北京の故宮であった紫禁城はあまりにも有名ですが、瀋陽故宮は初代皇帝ヌルハチと息子の2代皇帝ホンタイジの皇居となり、3代皇帝からは北京に移っていったという歴史がある場所です。私は「砂漠を緑に」の活動で北京故宮と瀋陽故宮の両方を訪れていたので今回は2度目の見学でした。前回訪れた時は、漢族・満州族・蒙古族の3民族の特徴を兼ね備えた建築物である八角二層の美しい大政殿の前で、赤色の貸し衣装をまとい玉座に模した椅子に座って記念写真を撮ったことや撮影禁止の場所でカメラを向けたら掃除をしていた若い女性に柄杓の水をかけられたことが記憶の底から瞬時に蘇ってきたのでした。

 

 翌日訪れた『九・一八事変博物館』の見学は強烈でした。かつての日本陸軍の関東軍が中国東北部(いわゆる満洲)占領を狙い、柳条湖で鉄道を爆破し張作霖爆殺事件という満州事変という名の戦争を中国九・一八博物館20120601に仕掛けた現場に立つ日本が行なった戦争犯罪の数々を告発する博物館です。1931年の満州事変以降、中国に対する泥沼の15年戦争に突入し、やがて戦火は太平洋戦争に拡大し多大な戦死者と戦争の名による数々の残虐な行為の果てに1945年広島、長崎に原爆を投下され敗戦の憂き目にあったのが日本でした。『九・一八事変博物館』には当時の日本従軍記者が撮影した写真(例えば生首がたくさん並べられた写真、日本刀で胴体から切り離され首が飛ぶ瞬間の写真)や当時の新聞記事、陸軍の資料がたくさん展示され、そのことによって客観的に日本の戦争犯罪を告発するという形になっていますから、ここを訪れる日本人は過去に中国に人たちを侵した事実に反論ひとつ出来ないでしょう。日本人の過去の行為に対して決して目をそらすことなく真摯に向き合う必要を感じますが心が重くなる博物館です。

 

 2日目の午後は瀋陽北駅から列車に乗り大連まで4時間半の旅でした。列車は軟座と呼ばれる4人掛けの広々とした指定席でした。おそらくレール幅が広軌を採用しているので車内の座席や通路がゆったりしているのだろうと感じました。社内販売は30代と思われる男性でしたが乗客に喧嘩を売っているかのような声でした。彼が通ると眠っていた人もビックリして起きてしまう感じでした。私たちは缶ビールの500ml缶を買いましたが値段は10元でした。日本円に換算すると140円ほどです。瀋陽北駅から大連駅までの間で途中4箇所の駅に停車しましたが車窓からはどこまでも続く広々とした風景が続いていました。トイレの使用は停車駅の20分前からと20分後までは使用禁止で車掌がドアに鍵をかけてしまいます。以前の日本でもあったように線路への垂れ流しのため駅の前後は衛生上の問題からトイレの使用が禁止されているのだろうと思いました。このことも過去の日本の状況を思い出させてくれる出来事でした。

 

旅順駅20120602 その後、私たちの旅は、日露戦争時に旅順港を封鎖するための激戦地であった「203高地」、トーチカ要塞である「東鶏冠北堡塁」、戦争終了会談が行われた「水師営会見所」、旅順博物館、旅順関東軍司令部、旅順駅、旧満州鉄道本社、旧日本人街、旧ロシア人街、中山広場、などの見学が続いて行きました。

 

その見学の合間を縫って12回は土産物店のショッピングに誘導されていきます。土産物店の店員が言ってくる値段は市販されているものに比べて最低でも2倍の値段を吹っかけてくると思います。商品には値段が表示されていないので交渉次第でどうにでもなるのです。私は買いませんでしたが真鍮で作られた上品な顔をした三蔵法師が牛の背に揺られている像が展示されていました。いわゆる骨董品の部類ですが、最初店員は16万円と値段を言ってきました。私が高すぎる、と言うと、店員は10万円と値下げしました。まだ高すぎると言うと、次には5万円と値を下げ、まだ高すぎるというと、いくらなら買いますか?とこちらの値段を値踏みする対応でした。要するの値段などはあってないようなもので交渉次第でどうにでもなるという感じでしたね。妻はお茶屋で言葉巧みな店員の販売作戦に引き込まれ市販価格の2倍の値段で黒烏龍茶を買わされていました。

 

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