散歩2:ごった返す築地場外市場
年末で凄い人ごみの築地場外市場
年末の慌ただしさの中で築地・月島・佃島の散歩に出かけました。
11時頃、営団地下鉄築地駅に降りたとたん先日亡くなった歌舞伎役者の十八世
中村勘三郎の本葬が築地本願寺で行われるため、それに参列する一般参加者が長蛇の列を作っていた。一般参加者の焼香は14時開始であるが3時間前での列の長さを見ると改めて勘三郎の人気の凄さを感じる。その列をかきわけ築地場外市場へ入り込む。こちらもお正月の買い物客でごった返し、ラッシュ並みの混雑さであった。年末には築地には来るものではないな、と若干反省しながらも妻から頼まれた紅白蒲鉾を買い、妻の土産に築地名物・豊寿庵の福餅を買い求める。これで築地での買い物は済んだので、次は当然寿司屋で一杯である。向かった先は都内各地でリーズナブルな寿司チェーン店を展開している『すしざんまい』の系列店。時間も早かったせいもあり、すんなり席に着くことが出来た。寿司9巻とタコの吸口を食べながら辛めの冷酒を流し込む。このひと時が実にいいのだ。寿司も酒も美味かった。
ほろ酔い気分で勝鬨橋を渡っていると50数年前の小学校6年生時(1960年)の修学旅行が思い出された。私たちの世代の修学旅行は東京だった。豊島園で宿泊し、皇居、科学博物館、松坂屋デパートを見学し、隅田川を下った。その時、勝鬨橋の下をくぐったのである。勝鬨橋は橋の中央が跳開する橋であったが、大型船の航行が無くなったことと高度経済成長による車両交通量の増加によって1970年を最後に跳開は終了したのだ。しかし、私たちの修学旅行の頃、勝鬨橋は1日に5回、橋の真ん中が跳開していたのである。修学旅行終了後にグループ単位で修学旅行の思い出を絵に描いたが、私たちのグループは隅田川下りの絵だった。船を描き、勝鬨橋を描いたことが思い出されたのである。
月島に入り、通称「もんじゃ通り」をそぞろ歩く。「もんじゃ通り」には、名前のとおり40軒近くのもんじゃ焼き店が軒を連ねている。私が歩いたのはお昼時だったが木曜日のためか営業している店も半数ほどで、お客もチラホラ程度だった。これが土休日や夕暮れ時とともにお客で混雑するのだろうと思った。実際、妻が友達と夕暮れ時に訪れた時は大変な賑わいであったという。私は通りを歩いただけで店には入らなかった。60代の男が一人でビールを飲みながらもんじゃ焼きを焼いて食べるというのは寿司屋で一人飲んでいるのとは訳が違う。やはり、もんじゃ焼きやお好み焼きは複数で賑やかにお喋りしながら食べるものだと思う。
佃島地区に入り相生橋のたもとにある洋菓子店『BanyaBanya』に入った。さまざまなケーキ類がショーウィンドーに並べられていた。どれも美味しそうだった。私は妻への土産に3種類の「つくだスフレ」を買い求めた。このスフレは夕食後に妻とともに食べたが実にまろやかで美味しいスフレであった。
石川島播磨重工業が移転した跡地の再開発により高層マンション群が立ち並んでいるウォーターフロントを下ってくると、中央大橋から永代橋上に東京スカイツリーを眺められる場所があった。橋の中央まで行って写真を撮ったが、面白い構図だと思った。更に下ると関東大震災や東京大空襲にも運良く逃れた古い町並みが残っている。ここらあたりが最も古い佃島地区とのことだ。東京オリンピックが開催された1964年に佃大橋が完成されるまで隅田川を一日70往復しながら人々を渡していた佃島渡船跡の石碑の横に住吉神社の神輿とともに龍虎頭が展示されていた。掲示されていた説明版によると龍虎頭の制作年代は不詳となっているが天保年間の記録に龍虎頭の記載があるという。龍虎頭の運の良さに思いを馳せる。
佃大橋を対岸に渡り返す前に、橋のたもとに佇む「佃煮・天安」本店の年代物の暖簾に目が留まった。佃煮・天安の起源は、江戸幕府を開いた徳川家康が摂津国佃村の漁民を江戸に呼び石川島の近くに住まわせた。その島は漁民の出身地の名前を付けて佃島と呼ばれるようになり、漁民たちは湾内で獲った小魚類を塩辛く煮込んだ保存食の佃煮を作りはじめた。それが現在まで続いている400年の歴史ある老舗「佃煮・天安」なのであった。店には客が二人入っていたが、佃煮って値段が高いと思う。先日、銀座三越本店で開催された『2012年報道写真展』を見に行った際に地下鉄を利用したため地下1階の食料品コーナーを通って7階催事場までいったのだが、佃煮の詰め合わせは1万円だった。