三代王神社春季大祭で福餅をゲット
福餅をゲット
2月11日は建国記念の日だった。前日は関東地方の山間部にあたる栃木・群馬・山梨・埼玉に大雪注意報が出て雪を降らせていたが、千葉の幕張では小雨がパラパラ落ちていた程度だった。翌日は朝から雲ひとつなく晴れ上がり、幕張北4丁目自治会が千葉市から借りている土地区画整理地での家庭菜園の共同作業を終え、自宅に帰って一休みしていると、裏の鎮守の森からピーヒャラ・ピーヒャラと笛や太鼓や鉦の音が聞こえてきた。
鎌倉時代初期に創建の三代王神社
裏の鎮守の森には三代王神社が祀られている。何のお祭りだろうか? と思いながら石段を登っていくと、左手の舞台で武石町の人たちが笛や太鼓や鉦を奏でていたのである。こういう演奏はだいたい年寄りが幅を利かせているものだが、演奏している人たちは珍しく若い人たちだった。ベンチに座ってしばらく聴いていると、軽トラの人がやってきたので、「今日は何かあるのですか?」と尋ねると「あれは春季大祭の練習をやっていて、午後の2時から本番があり、餅まきもやります。田舎のことなので時間は変わるかもしれないけれど・・」とのことだった。午後に出直すことにして家に戻った。
午前中の練習風景
初詣の際にいただいた神社の由緒記によると、三代王神社の祭神は天種子命(あめのたねのみこと)であり、2月11日は春季大祭、10月20日は秋季例大祭となっていた。神社の創建は千葉常胤の三男の胤盛が武石城に居城してから31年後の鎌倉時代の建仁2年(1202年)に郷中安全の守護神として天神神社を創建したのが始まりと伝えられている。千葉常胤は昨年のNHK大河ドラマの『鎌倉殿の13人』にも登場したが、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて房州・安房に逃れた時に、頼朝を匿い助力し、頼朝からは父と慕われた人物である。その息子が今から800年前に創建した神社が三代王神社だという。
巫女の奉納舞い
午後2時になっても笛や太鼓の音は聞こえてこなかった。3時になるとピーヒャラと笛や太鼓の音が聞こえてきたので、再び三代王神社に登っていった。石段を上った左側の舞台には武石囃という垂れ幕が掛けられ、中央に御弊が立てられていた。午前中に私服で練習をしていた人たちが白装束となって太鼓や笛を演奏していた。しばらくすると白いお面をかぶった巫女姿の女性が出てきて御幣を振りながら舞い出した。私は幕張に転居してから30年経つが、三代王神社で奉納舞いを見るのは初めてだった。
翁の釣り人の舞い
女性の舞いが終わると、次は翁の面を被りキンキラキンの三角帽子をかぶった男性が出てきて刀を振りかざしながら舞った。舞いの説明がないので、意味が分からなかったのは残念だった。3番目に登場したのは恵比寿様のような釣り竿を持った男性だった。ひとつの舞いは3分くらいだろうか? 同時に3人が出てきて掛け合いで舞ったものもあった。3時から囃子に合わせて舞いだしたが、なかなか福餅なげにはならなかった。
3人の掛け合いの舞い
空は晴れているものの、2月中旬の気温はまだまだ肌寒く、私は社務所で用意してくれた石油ストーブに手をかざしながら舞台を観ていた。宮司がやってきて、「今年は久しぶりに大勢の人が集まってくれて良かった。昨日の天気だったら最悪だったが、今日は晴れてくれて本当に良かった」と感慨深いようだった。宮司の言うとおり老若男女を合わせて、集まった人たちは70人から80人ぐらいだろうか? 集まった人たちは寒空のもとで、福餅なげがいつ始まるのだろうかと期待を込めて舞台を眺めていた。
奉納舞いを見る人たち
集まった人たちの輪が舞台を中心に縮まっていった。いよいよ福餅投げが始まるのかと思っていると、1升枡を持って舞っていた翁が枡のなかに入っていたビニール袋で包んだ白い丸餅を投げ始めた。最後列の椅子に座っていた私も立ち上がり、輪の中に入っていった。
福餅なげに集まる人たち
私の正面に2個の丸餅が飛んできた。右手と左手で運よくキャッチしポケットに入れ込むと、続いてもうひとつが飛んできた。右手でキャッチしポケットに入れた。実にラッキーだった。福餅はなるべく多くの人たちが分けるものであり、私の家族は3人なので予定数の終了である。その後も餅は投げられていた。丸餅が終わると子どもたちに菓子が投げられた。菓子は軽いので、舞台の手前に集まっていた子どもたちの所に落ちていった。私は満足して自宅に戻った。
福餅にお金が包まれていた
自宅に戻って袋の中の丸餅を確認すると、丸餅の横に紙に包まれた何かが入っているのが眼にとまつた。紙を開けてみると、なんと100円玉だった。びっくり。神社にお賽銭をあげることはあっても、神社からお金をいただいたのは初めての体験だった。この100円玉は使わずに、財布の中にお守りとして紙に包んだまましまった。地元の幕張にも長年伝えられてきた神社の舞いがあることに改めて感動してしまったのである。