今年はホルチン沙漠へ

 

穏やかな5月の陽光に草原を渡って来る風が軟らかい黄緑色のポプラの若葉を眩しく揺らす。この光景だけを切り取るならばここが沙漠なのだろうか、と思わず見とれる景観であるが、反対側に目を転ずれば遥か彼方まで茫漠とした沙漠の大地が拡がり、改めて現実の世界に引き戻される。ここは日本に一番近い中国・ホルチン沙漠なのだ。

私は昨年、NTT労働組合・東日本本社支部「沙漠を緑に、第1次・緑の協力隊」の1員として中国・内蒙古自治区・恩格貝・クブチ沙漠に20名の仲間とともに植樹ボランティアとして参加した。3年続きの旱魃で文字通りの暑い沙漠での作業は今までの人生の中で未体験のものであった。穴掘りや水遣りで汗をかきながら作業の合い間に交わす仲間との会話は沙漠の中という特殊環境の中で確実に私の心の中に「人間と自然環境」を考えさせる契機をもたらし静かに広がり、そして心の底に沈殿していったように思う。

 今回、同じ内蒙古自治区だが、場所をホルチン沙漠へ移し、「第2次・緑の協力隊」が企画されたので昨年に引き続いて参加した。

 

旧満州鉄道の夜行列車でカンチカへ

 

ホルチン沙漠は日本に一番近い沙漠で北京の東北方向約800Kmにあり、沙漠化は毎年数キロずつ西から東へと進み、春先に日本に飛んでくる黄砂はホルチン沙漠から飛来するものもある。今回の参加者も昨年同様の21名だった。

 さて沙漠での作業は時季により異なり、植樹、水遣り、剪定、草方格作り、等々があるなかで今回は「緑化作業とはどういうものか」を体験する意味も込められてのプログラムであったため、植樹、水遣り、剪定、草方格作り、の全てを体験することができ非常に有意義であった。

植樹に関して苗木は枝葉を払い釣竿状にした挿し木3年のポプラである。時季によっては樟子松や楓、あるいはアンズや柳やサジの苗木を植える場合もある。1日に植える本数にノルマはないが1人当たり平均24〜25本で、今回は総数で766本の植樹だった。

 参加者は3班に分かれて作業を進めたわけだが、直径30cm、深さ70cmの穴掘りは参加した5名の女性には大変だったようだが、チーム内でお互いをカバーしながら黙々と作業を続けていく中から自然と連帯感が生まれていった。

 

砂の流動を防ぐ草方格作り

 

沙漠の夜は当然のことながら電気のない暗闇の世界である。懐中電灯を片手に星空ウォッチングに出かけた天空にこれほど星があったのかと驚き、素晴らしい星の輝きをより一層引き立ててくれたのは日常生活では忘れて久しい暗闇の世界であった。沙漠に寝転びながら流れ星を幾つ見られるかを楽しんだ。私は4個の流れ星を確認した。また人工衛星があんなにも多く飛んでいるのかも驚きであった。

 再会の驚きもあった。昨年のクブチ沙漠で「日本沙漠緑化実践協会」の現地スタッフとして活動していた高木さんが今年はホルチン沙漠の「NPO・グリーンネット」の現地スタッフとして活動していたのだ。緑化に取り組む彼の考え、生き方は美しいと思う。

 私は沙漠への植樹が2回目ということもあってどうしても昨年との対比で今回の内容を考えざるを得ない。そういう視点から感想を述べる。

 

深さ70cmの穴掘り作業

 

1は、一番印象に残ったことは緑化に取り組む中国人の姿勢の問題である。

 どういうことかというと、私は昨年の感想で「クブチ沙漠において日本からの10年間のボランティア活動の実践によって沙漠は確実に緑化出来ることが証明された。今後は圧倒的に広がる沙漠の緑化はそこに住む中国の人たち自身の手で行われるべきであり、日本人はあくまでも補助的な役割なのだ」と記した。そこのところが解決できないかぎり、「沙漠を緑に」という活動は日本人の自己満足に終わってしまうであろうと危惧したのであるが、今回のホルチン沙漠に出かけてみると中国の人たち自身により圧倒的に拡がる沙漠の大地の緑化に向けて、通遼市では1ヶ月に10万本、年間100万本の植樹を実践中であり、その光景がいたるところで見られ実に感動したものである。中国の人たちのなかでまだまだ克服しなければならない問題点は多々あると思えるが、自らの問題として沙漠緑化の実践に取り組みだしたことに拍手を送り応援の手を差し伸べたい。

 

カンチカ第4小学校3年生の子どもたちとの共同植樹

 

 第2は、日中友好の交流を民間レベルの「NPO・グリーンネット」を通して実現できたことである。カンチカ第4小学校3年生の子どもたちとの共同植樹、小学校訪問での子どもたちの文字通りの熱烈歓迎や授業参観、全校生徒と教職員の前での緑化隊員による尺八演奏、校長先生を始めとしての意見交流会、あるいは夕食への通遼市の第1人者である李書記の参加と交流、明るく朗らかで共に植樹をした李君や現地の人たちを通しての肉声や息づかいを感じながらのひとときは確実に中国の人たちを以前より身近の存在としたのである。

第3は、最近、NPO、NGO等の言葉を聞く機会が多いがNPOの活動を身近に見たことである。「NPO・グリーンネット」の活動の基点は、地球規模での自然破壊が進行し続ける現状に対する危機感にあり、ホルチン沙漠での緑化活動は内蒙古通遼市と長期プロジェクトを組み、3年目にして瓦房牧場、モンゲンダバ牧場から第3の地域へと拡大している。「NPO・グリーンネット」理事であり現地責任者の斎藤さんは62才である。斎藤さんとはたびたび言葉を交わしたが、物静かな実に誠実な方であり沙漠緑化の実践に11年取り組み中であった。クブチ沙漠から出発した沙漠の緑化活動が沙漠化現象の発生と克服点を理論的に明確化し、現地の人たちとの共同活動による実践力によって緑化目標を実現させようと努力している姿に強い感銘を受けた。

 

沙漠ウオッチングへ

 

第4は、行動を起こすことの大切さである。

私たちは近代化といわれる過去100年の間に生活の便利さと引き換えに多くの自然を破壊し現在も破壊し続けている。自己の存在を客観的に捉え、人生の流れの中で仕事の忙しさに流されるばかりではなく、立ち止まり、考え、行動を起こすことが必要だと思う。

今回の植樹ボランティアは30才以下の若者を中心とした企画であり、沙漠における植樹は自然破壊への対策の小さな一歩だが、植樹に限らず自分で考え行動を起こす姿勢は総てに通じることだし、「青年よ荒野をめざせ」という考えは今も生きていると思う。そしてボランティア参加を契機として自らの生活を見直していくことが大切なことと思われる。

 最後は、上野隊長のもとに共に汗を流し協力し合った21人の尊い仲間が出来たことである。ほとんどの人と初対面であったが7泊8日の日程を終えるときは旧知の友であった。

密度の濃い交流があったからこそのふれあいだったと思う。この出会いを大切にしたいと

思うのは私だけではないと思う。

 

植樹したポプラの剪定作業

 

以上が「沙漠を緑に、第2次・緑の協力隊」への参加報告であるが、沙漠の緑化活動の前後日程に北京市近郊の観光も含まれている。

今回の植樹前の観光は、マルコポーロが『東方見聞録』文中に東洋で最も美しい橋と絶賛した日中戦争勃発の地・芦溝橋と中国人民抗日戦争記念館を訪れ、植樹後は瀋陽の故宮と北京の故宮博物院(紫禁城)、天安門前広場を訪れた。

65年前の1937年7月7日、芦溝橋に響き渡る1発の銃声に欄干に彫られた獅子は何を考えただろうか、戦線を拡大し続け泥沼の戦争へ突き進む日本は8年後に広島と長崎に原子爆弾を落とされ焼け野が原の中で無条件降伏という形で敗戦をむかえた。

永定河に架かる芦溝橋の石畳の上で私たち緑化隊員の1人が吹いた尺八の音色は戦争で亡くなっていった多くの人たちへの鎮魂歌として静かに流れていった。

 

芦溝橋に流れる尺八の音色

 

瀋陽は清朝皇帝が北京に移っていく前の都であり皇帝の住まいとしての故宮が残っている。瀋陽は以前、奉天と呼ばれていた一時期があり、70年前に私の祖母が一人で海を渡り鉄道を乗り継いで出かけていった場所だと母親から聞かされたのは先日のことだった。

瀋陽駅と駅前には現在はデパートに変わっているが建設当時そのものの建物が残っており、90年前の1912年の文字が確認できた。赤レンガのがっちりとした立派な建物である。

 瀋陽に滞在している時に朝鮮民主主義人民共和国からの亡命希望家族5人が日本総領事館に駆け込む事件が発生し日中間で政治問題化したわけだが、衛星放送で流される映像を見るにつけ中国武装警官の主権侵害と、救いを求める亡命者に対し日本総領事館員の人権感覚のなさによる不適切な対応に憤りを感じた。

瀋陽の夜市は賑やかだった。中国第4の都市と言われているわけだが、昼の顔と夜の顔がガラリと変わってしまうようだ。リヤカーに荷物を積んできて板切れを並べてその上に品物を並べ道端で商売を始める、という逞しい生き方をしている人があちこちに見受けられる。売られている子犬などをみると、きっとどこかでかっさらってきた子犬ではなかろうかと思うし、ウサギやアヒルやカメなども売っている。勿論、怪しげな品物もたくさん並べられている。揚串や蒸しトウモロコシなどを食べながらそれらの店を見ていくと新旧渾然となって進んでいく中国という国のバイタリティさが感じられる。 

 

瀋陽の清朝皇帝の住まいであった故宮

 

食事については当然のことながら毎食中華料理となる。中国の4大料理は北京料理、上海料理、四川料理、広東料理であるが、ガイドが常に携帯電話でレストランに連絡を取りながら私達の到着時刻に合せて4大料理の中から日本人好みのミックス料理を準備してくれた。テーブルの上には平均して12〜13種類の料理が出てくるが味付けは日本人に合うように薄味に付けられており、毎回とても美味しく食べられた。

酒もよく飲んだ。中国の酒は米を醸造した老酒と小麦や高粱の蒸留酒である白酒の2種類に大別される。老酒の中の紹興酒は日本でもなじみだがアルコール度も15度と低いため、それを温めてもらい甘い乾燥梅干を入れながらよく飲んだ。私はあらゆる酒の臭いについては割り切ってしまうので気にしないが、臭いが鼻について飲めないという人が結構多いようで酒杯に注いだだけという人もいた。白酒では中国の国酒と言われている茅台酒が有名だが、アルコール度が56度というのを口に含むとモアーとした熱さが口中に拡がり喉元から胃の中に落ちていくのが解る。この白酒を緑化のために訪れたカンチカで天と地の神様に感謝し自分の幸せを祈るために行うモンゴル式歓迎会の時はモンゴルの歌を聴きながら、ドンブリに注いで一気に飲み干したのだからいやはやなんともであった。

 

モンゴル式歓迎会

 

ビールもよく飲んだ。中国の人はビールを冷やして飲む習慣はない。冷たい物は体に悪いとの考えによるものだが、私たち日本人には冷やしたビールを出してくれる。ビールのアルコール度は2.8%程度で日本のものよりも大分軽いのでどんどん飲める。各テーブルで飲みすぎると冷やしたビールがなくなり常温のビールとなるのは飲みすぎであった。

朝、早起きをして街中を散歩すると街角で揚げているアゲパンや蒸しているショウロンポウ、ドラム缶で焼いた芋、等を売っている。細長いアゲパンは計り売りなのだが2個で日本円に換算すると8円だし、ショウロンポウは4個で16円だったがとても美味しかった。また、朝の仕事の開始がとても早く、建築現場に行ったら6時には既に仕事をしており小売店も開いている。働き者だなあと思うが当然のことながら残業などないようだ。田舎では明るくなれば起きて働き、暗くなれば仕事をやめて休むという本来の姿があるように思われる。

 NTT社員として気になる街角の公衆電話は全てICカード式で国際通話兼用になっており数箇所から幕張の自宅に電話をかけてみたがいずれも通話明瞭度は抜群だった。

 

サソリの唐揚げを食べる関根君と斉藤さん

 

カンチカ第4小学校を訪れた時の先生たちとの交流会で話されたことだが、子どもたちに一番人気のある授業はパソコン授業であり、2〜3人に1台位の目安で端末機が設置されているがインターネットにはまだ接続していないとのことだったが、瞬時に全世界との通信を可能にし情報を取得できるインターネットの広がりは急速に広まっていくだろうと思われる。

 

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