国立歴史民俗博物館を訪ねて その1

先史・古代コーナーへ

 

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獲物を蒸し焼きにする旧石器時代の人

 

7月16日 日曜日 晴れ

私は歴史を学ぶのが好きである。現在の「歴史」といわれるものは、日本最古の古事記や『日本書紀』にしても、その時代の権力者によって書かれたものが残されているだけで、その時代に生きた圧倒的多数の人びとの生活は記録されていない。微かな残り香から推察する以外に方法はないのである。私はこれまでも全国各地の遺跡や歴史資料館、歴史博物館などを訪れながら、当時の人たちが生活していた社会を想像するのである。

 

千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館の展示がリニューアルされたとのことなので出かけてみた。京成佐倉駅で下車し佐倉城址公園内にある国立歴史民俗博物館に向かって歩き出した。歩いて15分前後なのでGoogle マップを参考に歩いて行くと、成田街道から左に折れて細い道を案内された。やがて佐倉城址公園へと入っていった。その入口に佐倉城の説明板が立っていた。

 

草の上にいくつかの木

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佐倉城の土塁の説明板

 

説明板には「佐倉城は石垣がない土づくりの城で、城の防御のために土塁と呼ばれる土手を作り、外敵から守るために土塁を巧みに配置して城の守りとしていた」と書かれていた。説明板の後ろに青々と茂る大木には、シラサギがあちこちに巣を作っており、子育て真っ最中の状態で、親鳥と雛が鳴きかわすカエルの鳴き声のような叫び声が連続して響き渡っていた。

 

大分県の臼杵磨崖石仏・古園大日如来像のレプリカ

 

博物館に登っていく愛宕坂の途中に、大分県臼杵市にある臼杵磨崖石仏の古園大日如来像のレプリカが置いてあった。違和感があったが大きさは縦横3mぐらいだろうか。石仏は丸顔のふっくらとした頬と福耳の優しい顔をしており、両手で忍を結んでいた。この大日如来像の後ろの崖にも大きな木が茂っており、その枝にもシラサギが何個も巣をかけているのが下から見上げられた。巣の中には雛と思われる鳥が確認できた。

 

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国立歴史民俗博物館の玄関

 

気象庁より関東地方の梅雨明けは発表されていないが、焦げるような暑い日差しが降り注ぎ、風が止まり身体の周りに熱がまとわりついていた。博物館の入場券販売口でJAF会員カードを見せると、600円の料金が350円に割引きされた。館内は第1展示室から第6展示室に分かれており、第5展示室がリニューアル中であることを知らされた。展示の順番通り第1展示室に入った。

 

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展示室の入口

 

第1展示室は(先史・古代)となっており、「最終氷期に生きた人々」「多様な縄文列島」「水田稲作のはじまり」「倭の登場」「倭の前方後円墳と東アジア」「古代国家と列島世界」「沖ノ島」「正倉院文書」という8つのテーマとなっており、その時代に生活した人々の暮らしと文化が展示されているようだった。

 

ダイアグラム

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人類進化の流れ

 

私たちが中学や高校で習った歴史は、原始・古代・奈良・平安・鎌倉・室町という時代区分であったが、ここでは奈良時代までを先史・古代と区分していた。今回のリニューアルで歴史用語ではない「原始」という言葉を外し、「先史」という歴史用語を使用しているとのことだった。

 

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獲物を解体する旧石器時代の人

 

日本列島がまだ大陸と分離しておらず 陸続きなところを通ってホモ・サピエンスがやってきたのは3万7000年前の後期旧石器時代とし、平均気温が現在より10℃ほど低い最終氷期だったとのことだ。当時の人たちは寒さから身を守るために狩猟で得た獣の皮を剥ぎ、それをなめして衣服を作った。残されている当時の道具は石器である。木や竹の道具も使われたであろうが、それらは朽ちて残っていない。生きていくための必要から道具は発明される。当時の人々の生活は遺跡より発掘されている出土品から再現され、火を使っていたために石を並べた炉で葉に包んだ肉を蒸して食べていただろう生活も再現されていた。

 

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出産を表わした土偶

 

約1万年続いた新石器時代に位置する縄文時代の生活は、移動する単なる狩猟採集生活ではなく、青森県の山内丸山遺跡などは森を切り開いた大規模な集落が存在し、石器、土器、土偶、石偶、石棒などから祈りなどの当時の人たちの精神世界も推理していた。私も三内丸山遺跡には2度訪れているが、その住居規模の大きさには度肝を抜かされたものである。ガラス質の黒曜石を巧みに割って鏃、尖頭器、ナイフ形石器を作って狩猟効率を高め、土器で煮炊きをすることで食事内容が豊かになっていった。海の近くに住む人たち、山に住む人たちがそれぞれの環境で工夫をこらして生活していた状況を想像した。

 

私が中学生のころ冬になり農作物が無くなった畑を歩いて鏃や石器を探したものである。当時は遺跡指定がされていなかったが、長野高速道路の建設に伴う遺跡調査を行い、縄文時代の「松井田八城遺跡」というものに指定され、大量の土器や石器が出土した。私は鏃と石斧を持っていたが、いつのまにか紛失してしまった。

 

マップ

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東アジアにおける水田稲作の拡散

 

弥生時代の水田稲作を私たちは静岡県の登呂遺跡で習ったわけだが、展示では東アジアにおける水田稲作の拡散という視点からとらえ、中国や韓半島南部の遺跡と九州福岡の遺跡の比較検討を踏まえて、日本列島における水田稲作のはじまりを紀元前1000年に遡っていることである。科学的根拠は遺跡出土品から炭素14年代測定法によって年代を特定していることだ。狩猟採集から水田稲作への生活環境の変遷は、いっぺんに変化したのではなく、縄文農耕論が指摘するように、徐々に移り変わっていったと考える方が妥当であり、狩猟採取の時代に韓半島から稲作文化をたずさえた人たちが日本列島に渡ってきて、列島の西から東の方に拡大していき、狩猟採集の生活と畑作耕作や水田稲作の生活とが重なっている時代がずいぶん長かったことがわかる。

 

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遺跡出土骨格から再現された弥生人と縄文人

 

第1展示室は8つのテーマに分類されていたが、今回は「最終氷期に生きた人々」「多様な縄文列島」「水田稲作のはじまり」の3つのテーマを細かく見ていくことで3時間かかった。弥生時代の終わりのところに縄文遺跡と弥生遺跡から発掘された骨格から再現された女性の「縄文人」と「弥生人」のマネキンが立っていた。縄文人は丸顔で弥生人は面長だった。私は丸顔のほうに親しみを感じた。

 

テーブルの上にある数種類の食事

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美味かった刺身定食

 

ひとつひとつのテーマを当時の生活をあれこれ想像しながら観ていくのは楽しいが、3時間も集中して観ていたので私は疲れて博物館を出ることにした。当日は日曜日だったので、子ども連れの家族や外国人の見学者も多かった。国立歴史民俗博物館は私の家から電車で1時間なので再び三たび勉強に訪れたいと思う。佐倉駅前まで戻り、遅いお昼ごはんを摂るために居酒屋に入った。頼んだのは生ビールと刺身定食だった。美味かった。

 

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