ぴんぴんころり
船橋大神宮での娘と息子の七五三のお祝い
3月1日にお袋が亡くなった。96歳だった。昨年の3月に自宅で転倒し、右脚大腿骨を骨折した。その日のうちに安中市立碓氷病院に入院し、リハビリを兼ねて3か月間入院していた。退院後は群馬の自宅では段差がありすぎて車椅子での生活はできないので、老人ホームにお世話になることになった。その老人ホームで同じ右脚の膝と脛を骨折した。同じ碓氷病院で治療を続けているうちに、お袋自身の体力も落ちていき、特に食べ物を飲みくだす嚥下能力や痰を切る力が弱くなり、痰が絡んだときに吸引のできる医療介護付き老人ホームに移った。しかし、移ってから2か月後に喉に詰まった痰を取り除くことが間にあわず、あっさりとこの世を去ってしまった。
家族旅行で訪れた親父が卒業した信州大学
私がお袋が亡くなったことを知ったのは、仲間と志賀高原スキー場でスキーと温泉と酒を楽しみ、帰宅途中の電車のなかだった。昨年3月に入院して以来、定期的な診察日には病院を訪れていたため、お袋の体力が徐々に落ちていることは実感しており、3人の兄弟妹のなかでお袋の終末期について話し合いを進めていた。今年の8月のお袋の誕生日頃が最後だろうということや、延命措置は行わないことなどを確認しあっていたので、3月1日に突然お袋が亡くなったけれども、うろたえるようなことはなかった。
万里の長城を元気に歩いた
3月1日に亡くなり、葬儀は3月6日だった。四十九日法要は4月9日に行われた。その四十九日法要にあたって『あとは、まかせたよ!
岩井吟子、96歳の生涯』というささやかな冊子を作った。以下がその全文である。
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あとは、まかせたよ!
岩井吟子、96歳の生涯
6人のひ孫に囲まれた95歳の正月
四十九日法要
2023年(令和5年)4月9日
お袋(岩井吟子)は、2023年(令和5年)3月1日、17時38分に亡くなりました。
数え98歳、満96歳の生涯でした。
戒名は「春梅吟壽大姉」です。
亡くなった3月1日はウメの花が満開で、春がやってきていました。
梅の花は百花の魁として咲く花で、上品・高潔・忍耐の意味があり、吟は吟子の名前からとり、壽は大正・昭和・平成・令和と4つの時代を生き抜いた長寿の意味があります。
24年前の3月21日に亡くなった夫の清の戒名は「春鶯院彼雲清岸居士」ですから、夫婦としてバランスの取れた戒名だと思います。
15歳の時に妙義神社で舞いました
お袋は1926年(大正15年)8月3日に群馬県甘楽郡妙義町に生まれました。
尋常高等小学校(現在の中学校)を卒業すると和裁学校に3年間通いました。この時に習得した和裁技術が、のちに冬の農閑期に呉服屋から訪問着や晴れ着を縫って欲しいと依頼が入ることになったのです。
富岡の病院で看護婦修行中のころ
和裁学校を卒業したお袋は、看護婦になろうと思い富岡の病院に住み込みで勉強することになりましたが、看護婦の免許を取得する前に生家に呼び戻されてしまいました。その後は家の手伝いと親戚筋の『東雲館』旅館の繁忙期に手伝いに出るという生活でした。
カツラを作った時(金井吟子) 軍隊入隊記念(岩井清)
21歳で『東雲館』の手伝いをしている時に、烏留の集まりが東雲館で行われ、宴会で酔いつぶれた岩井清を介抱した時に、清に見初められ結婚することになりました。結婚式を挙げた翌日にお祖父さんが亡くなるなど、祝儀と不祝儀が重なり結婚早々に慌ただしい生活となってしまい、結婚式の記念写真を撮ることができませんでした。
0歳の淑を抱く岩井清
農作業を一度も経験したことのなかったお袋でしたが、夫と共に農業をしているなかで22歳の時に長男の淑が生まれ、24歳の時には次男の久芳が生まれ、26歳の時に長女の孝江が生まれました。
中学生の淑、小学生の孝江、幼児の明美と30代のお袋
お袋は当時の女性としては背が高くスラリとした美人で、授業参観日になると着物を着込み、教室の後ろから授業を見ている姿は子ども心にも自慢できる母親でした。
夫婦で沖縄旅行へ行きました
お袋は結婚以来、夫の清とともに農業と3人の子育ての毎日でした。
やがて3人の子どもたちは成長し、長男・次男は家を出て就職していきました。
子どもたちが手を離れたあとも和裁の技を生かして着物を仕立てることが続いていました。
度々カラオケ大会に出ていました
72歳の時に2歳年上の夫・清を見送ったあとは気落ちすることなく、積極的に外に出ての活動を行っていました。特に好きなカラオケには力を入れ、多くの賞をもらっていました。
72歳のオーストラリア旅行
長男家族と一緒の海外旅行にも度々出かけました。1度目の10年パスポートを取得したのは1998年で、お袋が72歳の時でした。最初に出かけたのはオーストラリアでした。コアラを抱いて喜んでいました。
グランドキャニオンの大きさに驚いていました
台湾は南端の日本人観光客がひとりもいない場所に行きました。アメリカ西海岸のグランドキャニオンの大きさに驚き、ラスベガスのきらびやかな夜の世界にも驚き、ディズニーランドの過激なアトラクションに目をつぶりながらも挑戦していました。東海岸のディズニーワールドは広すぎて大変でしたが、ハンバーグを食べながら元気に歩いていました。
イタリアのピサの斜塔
更に82歳で2度目の10年パスポートを取得し、イタリア、中国、韓国と世界を股にかけ、ピサの斜塔の隣に建つ礼拝堂内で聴いた女性の歌声は素晴らしいものでした。またレストランで食べたイカ墨スパゲティやベニスでゴンドラに乗ったのも楽しい思い出となったようでした。
タイでは孝江と一緒に象に乗りました
次男・長女夫妻との中国旅行では万里の長城を歩き、タイ旅行では象にも乗りました。現地の食事は何でも食べ、快活に動き回る母親でした。
88歳の米寿の祝いも軽くクリアしました
100歳まで生きることを目標にしていたお袋は、88歳の米寿の祝いも軽くクリアしました。年を取ってからも拡大鏡を片手に、新聞を隅から隅まで目を通し、世の中の出来事に興味を示し、会話には即答する頭脳明晰な母親でした。
大腿骨骨折後に老人ホームへ入所しました
そのお袋も寄る年波には勝てず、昨年3月に96歳を目前にして自宅で転倒し大腿骨を骨折しました。碓氷病院に3か月入院し、退院後は車いす生活となり、今まで生活していた家では段差も多く、車いすでの生活は無理なので老人ホームに入居することになりました。その後も膝、脛と2度に渡って骨折を繰り返し、そのたびに動きが緩慢になり、体力が衰えていきました。食事の時も食べたものを飲み込む力や痰を切る力も弱くなり、吸引を受けるようになりました、それは、生命力の減退でもありました。
姪の康子さんから頭を整えてもらっていました
新型コロナウイルスの感染警戒度が低く、老人ホームから外出が出来たころは、次男が安中市役所松井田支所から車いす用福祉車を借りて運転し、野外の景色を眺めたり、長年娘同様に接していた姪の美容院で頭を整えてもらっていました。
碓氷病院の診察日は直接話ができる時でした
1度目に入所した老人ホームでは喉に痰が詰まった時の吸引処置ができないために、医療付き老人ホームに移りました。新型コロナウイルスの感染対策として直接の面会は出来ませんでしたが、1週間に1回のリモート面会の際や、1か月1回の碓氷病院での骨折回復状況の確認診察があり、その時がお袋と直接話すことが出来る機会でした。お袋の話す内容も的確で、まだまだ長生きできると思われました。
秋の好天に菊を観に出かけました
しかしながら、のどに詰まった痰を取り除くことが出来ずに、2023年(令和5年)3月1日、17時38分、岩井清が待つ世界へ旅立ちました。人生を充分に生き抜いた96歳8か月の生涯でした。夫の清が亡くなった時にお袋は72歳でしたが、それからの24年間は人生を積極的に生きようとする姿勢が随所に見られました。それを主にサポートしたのは一緒に生活をしていた次男の久芳でした。
イタリアのトレビの泉の警備警官に話しかけてのツーショット
好奇心旺盛で決して弱音をはかずに前に進んでいくお袋は、私たち三兄弟妹にとって自慢の母親であると同時に、人生の見本を示すように、年をとってもボケずにピンピンコロリであっさりとこの世を去ったのでした。見事な人生の終わりかたでした。
お袋は3月1日に亡くなりましたが、友引や仏滅などの六曜や不動寺のお坊さんのスケジュールの関係から葬儀は5日後の3月6日となりました。それまでの間は老人ホームに入所するまで生活していた家で眠っていましたが、毎朝、顔を見ながらお線香をあげると、決して起き上がってはこないのですが、すぐに起きだしてくるような感じでした。
岩井吟子の葬儀式場です
お袋と直接話すことは出来なくなりましたが、ことあるごとにお袋と話したシーンや言葉が蘇ってきます。心のなかではお袋は生きています。
お袋、長い間、お世話になり、ありがとうございました。
四十九日法要の日に
2023年(令和5年)4月9日
三兄弟妹(長男:淑・次男:久芳・長女:孝江)
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お袋は夫と一緒のお墓に入った
4月9日の納骨の日にお袋は夫と一緒の墓に入った。そこにタイムカプセルのように『あとは、まかせたよ!』の冊子をガラス瓶に入れて一緒に納めた。
思い出すのは20年前に、尾瀬岩鞍スキー場で読んだ詩である。その詩は「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。千の風に、千の風になって、あの大きな空を吹きわたっています。秋には光になって畑にふりそそぎ、冬はダイヤのようにきらめく雪になる。朝は鳥になってあなたを目覚めさせる。夜は星になってあなたを見守る。・・・」という『千の風になって』という詩だった。詩を読み終わったとき、私は死というものをどのようにとらえるのか、という点で衝撃を受けたのだった。
その詩を読んだ後でしばらくたつと、『千の風になって』の歌が爆発的にヒットし、毎日のようにテレビから流れていた。お袋が親父と一緒のお墓に入った時に、その『千の風になって』の詩が蘇ったのである。私はお墓にはいません。あなたがた一人ひとりの心のなかに生き続けています、というメッセージとして私は受け取ったのである。
25年前の親父とお袋の金婚式の記念写真
96歳までボケないで長生きしたお袋には感謝あるのみである。生前、お袋と話をすると、子どもが親にすることは「親孝行」だが、「子孝行」という言葉を知ってる?
子孝行というのは親が子どもにするもので、それは長生きすることなんだよ。子どもにとって親はかけがえのないもので、親に感謝し、親の望むことをやってやりたいという子どもの気持ちは親がいてこそできることで、親が長生きすることが子孝行なんだよ、と言うたびにお袋はうなずいていた。私はもうすぐ75歳になる。本当に長い間お世話になりました。