元気一杯 楽しかったペルー旅行
マチュピチュ遺跡
2009年9月17日から27日までの11日間、南米ペルーへ行ってきました。以下のレポートは写真を10〜15枚ずつ添付した旅行報告を私の職場の仲間にメール送信したものです。
はじめに ---------------------------- 第1回報告
岩井です。
お世話様です。
60歳の退職記念としてペルーに娘と甥と一緒に遊びに行ってきました。地球の反対側のリマまで成田からニューヨーク乗り継ぎで26時間はさすがに遠いですね。11日間の旅で、リマ、クスコ、ウルバンバ、オリャンタイ、マチュピチュ、プーノ、ティティカカ、イカ、ナスカ、パラカス、と回ってきました。
素晴らしい大自然に感動したのは勿論ですが、沙漠であると同時に水産国でもあるペルーの料理はどれも美味しかったです。ビールとブランディのピスコを毎日飲みながら楽しい旅行でした。おかげで高山病にもかからず元気いっぱいの3人でした。
3000枚ほど写真を撮りましたので数枚添付します。
料理について ---------------------------- 第2回報告
岩井です。
お世話様です。
ペルー旅行報告の第2通目は、旅行での食事のいつくかを紹介します。
11日間のペルーカタログ旅行は全食事付きでした。
・朝食はビュッフェです。
・昼食はビュッフェとコースが半々でした。
・夕食はコースでした。
私には全ての料理が口に合いましたが、川鱒料理、地鶏料理、アルパカ料理、鹿肉料理、牛肉料理、豚肉料理、海鮮料理、と種類は様々でした。ペルーは思ったよりも食材が豊富で市場へも足を運びましたが、野菜や果物や肉がたくさん並べられていました。
インカ帝国がスペインに滅ぼされてから550年経ちます。その間に食事も地元の食材を使いながらスペイン化が進んだことは容易に察しがつきます。ホテルに泊まるツアー旅行では、どうしても西洋系の食事メニューになるのだろうと思います。
街のレストランに入るとメニューはスペイン語で書かれ会話もスペイン語です。娘はイタリア語に似ていると言いながらコンタクトを取っていましたが、私は全く分かりませんでした。
物価は日本よりもずっと安く、酒屋でビールを買うと大瓶が6ソル=200円、ミネラルウオーターは1.5ソル=50円ほどでした。
旅行で出合った子どもたち ---------------------------- 第3回報告
岩井です。
お世話様です。
ペルー旅行報告の第3通目は、旅行で出合った子どもたち、です。
子どもたちの服装やちょっとした仕草から生活の一端を垣間見ることができます。
日本の同世代の子どもに比べて外で遊ぶ子どもが多いことを感じました。それは保育所、幼稚園などが整備されていない結果でもあると思います。
地方に行くと家畜の世話は私が子どもの頃のように子どもたちの仕事です。どの地域でも出会う子どもたちの瞳は黒く輝き、とても人なつっこく好奇心旺盛でした。
今から12000年前、モンゴロイドはシベリアからベーリング陸橋を渡り北アメリカから最南端のチリまで移動していきました。アンデスの子どもたちは私たちと同じく赤ちゃんの時にお尻に蒙古班が出るし、血液型は16世紀にスペイン人がやってくるまでは全てO型だったとのことです。日本人とつながっているのを感じます。
フジモリ前大統領は1日1校の学校を作ると公約し10年間の在籍中に3650校を遥かに上回る6000校の学校を作りました。人間は教育と環境によって形成されていく動物ですからペルーという国を向上させる基本に教育を据えたのだと思います。学校建設は同時に教師の育成を伴い、今後、質の向上という課題が残されていると感じます。
出合った子どもたちの笑顔が消えず元気に成長していって欲しいと思います。
旅行で出会った動物たち ----------------------------- 第4回報告
岩井です。
お世話様です。
ペルー旅行報告の第4通目は、旅行で出会った動物たち、です。
アカエリシトドにあったのはマチュピチュ遺跡見学中でオスメスの2羽で仲良くエサを探していました。私は子どもの頃から野鳥が好きで現在日本野鳥の会会員ですが、直ぐにホオジロの仲間であることが分かりました。
トカゲはマチュピチュ遺跡から太陽の門へ向かうインカ道で出会いましたが、20cmもある大きなもので、日本のトカゲに比べると体が大きく顔が獰猛でした。
ラクダ科のアルパカは高級毛糸を提供してくれる可愛い動物ですが食肉としても重要です。羊と同じで食べてみると美味しい肉でした。娘が被っている白い帽子はベビーアルパカの毛(赤ちゃんの最初に刈り取った毛)で作ったもので感触が柔らかくとても滑らかです。
クイは日本ではモルモットと呼ばれています。地元農家を訪れた時は台所で飼っていましたが来客時のみ料理するとのことです。街のレストランで丸焼きを食べてみました。鶏肉に似たさっぱりとした味の美味しい肉でした。
私が食べると何でも美味しく感じられます。内モンゴルでサソリを食べた時も香ばしく感じました。
フンボルトペンギンやペリカンやアシカがうじゃうじゃ生息するリトルガラパゴスと呼ばれているバジェスタ島にモーターボートで出かけました。島に上陸は出来ませんがボートからの観察では半端じゃあない物凄い鳥の数で島の色が変わっています。それだけ餌となる魚が豊富ということだと思います。沖にカタクチイワシを魚粉にする母船が停泊していました。魚粉生産はペルーの重要な産業です。このバジェスタ島だけは日本人観光客に一人も出会いませんでした。
大らかな自然について ---------------------------- 第5回報告
岩井です。
お世話様です。
ペルー旅行報告の第5通目は、大らかな自然について、です。
インカ帝国の首都クスコから標高4500mのララヤ峠を越えてボリビアとの国境の湖:ティティカカ湖に向かう山岳大平原は僅かな草の生える牧草地帯です。行けども行けども同じ光景のなかでリャマ、アルパカ、牛、羊、が草を食む長閑な風景が広がっています。アンデスの峰々は白い万年雪の帽子を被り、空気は薄く澄みきり射す陽は痛く感じるられ浮かぶ雲は手に届くように低いのです。
山岳大平原を走っていると哀愁を帯びたフォルクロ−レの名曲「コンドルは飛んで行く」が頭の中に自然と浮かび、大きく翼を広げたコンドルがゆったりと上昇気流に乗りながら羽ばたいていくイメージが容易に浮かんできます。
どこまでも透き通った青空に染まったウマヨ湖面に反射した光が目に眩しく届きます。ウマヨ湖は全く観光地化されておらずのんびりした空気が流れています。
イカ砂漠に小さなワカチナ湖というオアシスがあります。小さな湖のほとりにあるホテルに宿を取り砂漠に沈む夕陽を静かに眺めました。絵に描いたようなオアシスの周りは砂砂砂の砂山ばかりです。翌朝、朝霧で霞む中庭の木々から小鳥の囀りが聞こえ足元には小さな花が咲いていました。
南北アメリカ14カ国を縦断するパンアメリカン・ハイウエイは海岸線に沿って砂漠を切り開いていきます。草木が全く生えておらず吹き抜けていく風の音のみが聞こえる死の世界は異常です。世界遺産のナスカの地上絵もパンアメリカン・ハイウエイによって分断されています。
日本の風景とは全く異なる大自然の只中に入り込むと最初は落ち着かない気持ちになりますが、時の経過とともに自然そのものにどっぷりと浸かっていく自分を感じます。見渡す限り砂の砂漠地帯や山岳大平原地帯のように変化の無い自然を体験すると、やはり四季の移ろいがはっきりしている日本の自然のほうが私には合うようです。
旅行で出会った花たち ---------------------------- 第6回報告
岩井です。
お世話様です。
ペルー旅行報告の第6通目は、旅行で出会った花たち、です。
今回の旅行は9月でしたので南半球のペルーでは日本と反対の季節で春分の頃に当たります。その時季に出会った花々の紹介です。
カントゥータはインカの聖なる花としてペルーを代表する花です。
あちこちでよく見かける花でした。
アフリカンチューリップは別名を火炎木(カエンボク)と呼ばれており、朱色が激しく燃え灼熱のアフリカをイメージする花でした。野生に生える花ではなく整備された公園に咲いていました。
マチュピチュ遺跡の中に野生ランが3種類咲いていました。現在日本ではバイオテクノロジーによって高価だったランが量産化されていますが、野生に生えているランは小ぶりで繊細な印象を受けました。
朱色や赤の花がひときわ目を引くブーゲンビリアは南国を代表する恋の花です。リマの公園やホテルの庭でたびたび見かけました。
マチュピチュ遺跡のインカ道の石垣に毅然と咲く深紅の花を見たときは吃驚しました。赤い天使と名づけました。気品さが溢れる花でした。
道端に咲く花でも、花は見る人の心を静かに癒し優しい心持にしてくれます。私たちの生活の周りに花があることは精神生活においてとても重要なことだと感じます。仕事がどんなに忙しくても花を愛でる心の余裕をいつも持っていたいものです。
旅行で訪れた遺跡について ------------------------------ 第7回報告
岩井です。
お世話様です。
ペルー旅行報告の第7通目は、旅行で訪れた遺跡について、です。
インカ帝国の首都であったクスコには当時の遺跡がたくさん残っています。市内に残る石壁もそのひとつです。面取りした石をカミソリの刃1枚も通さないほど隙間なく精巧に組み合わせており、12角もある石の組み合わせの正確さには只々驚きの言葉のほかは見つかりません。面取りした石を触っていたら「触らないで下さい」とインカ皇帝の衣装を着たモデルさんに日本語で注意されてしまいました。
サクサイワマン遺跡はクスコ市街を見下ろす小高い丘全体が城塞となったもので大きな石組みが残っています。大型重機が無い時代にどのようにして石組みを構築していったのか実に不思議です。人間の英知は計り知れないものです。
お馴染みのマチュピチュ遺跡はペルーを代表する遺跡です。インカは石の文化といわれているように急峻な山肌に素晴らしい段々畑を構築し、石造りの街をあたかも「天空の城・ラピュタ」のように建設しました。遺跡を実際に目にすると作り上げていった当時の人たちのバイタリティに感服します。
ウマヨ湖を見下ろす小高い丘にシルスタ二遺跡があります。落雷により破壊されたチェルパと呼ばれている墳墓に潜り込んでみました。中は思ったより広く高さは3mほどありました。以前、日本全国の古墳を回っていた頃、墳墓にも度々入ったことを思い出しました。
ナスカの地上絵を4人乗りセスナ機に乗り上空から眺めました。今から2000年前に何のためにナスカ人は巨大な絵を描いたのか現在でも解明されていません。描かれている動物がナスカの暦に出てくるものが多いため季節を確認するためのものという説が有力ですが不思議な遺跡です。
さまざまな時代の遺跡を回って感じることは、今は過去の遺物として観光対象となっていますが、その時代時代でそれらは活用されていたという事実です。それらの時代に生きた人たちの意識は現在の私たちの意識からは懸け離れたものであり理解することはできませんが、膨大な時間と人力を費やして「ある目的」のためにそれら「遺跡」を作り上げていったことに、規模が大きければ大きいほど感嘆の声が自然と沸きあがってくるのでした。
都市と周辺、砂漠・山岳との地域差について ---------------------------- 第8回報告
岩井です。
お世話様です。
ペルー旅行報告の第8通目は、都市と周辺、砂漠・山岳との地域差について、です。
ペルーは3分の1が海岸地域、3分の1が山岳地域、3分の1が熱帯地域で、今回訪れたのは細長いペルーの中南部地域で海岸地域と山岳地域です。
訪れた街は、現在の首都:リマ、インカ帝国の首都:クスコ、マチュピチュ、ティティカカ湖:プーノ、物資中継地:フリアカ、等々、それら街の周りは砂漠や山岳大平原です。
今回は秋9月の訪問でしたからペルーでは反対の春で乾期から雨期へと季節の変わり目です。雨が殆ど降らないために空気を含めて全体が埃っぽく感じられ、リマ市街地区は治安対策を前提に住宅が造られているため物々しい印象を受けます。
首都リマの周辺にも沢山のスラムが存在しています。スラムの住人は昔からのインディオの人たちで、地方から都市に出てきて勝手に住んでしまうからスラム街は増え続けています。市内と周辺では住宅の差からも貧富の差を感じます。
砂漠にあるスラムはより悲惨です。3mほどの竹で編んだもので東西南北を囲み、同じ材料を屋根にした粗末な家というよりは小屋に住んでいます。どのような職業について生活の糧を求めているかは分かりませんが、日本人の感覚からいうと大変な生活であることは間違いありません。
フジモリ前大統領は36万人を超える都市周辺および山岳住人に強制的避妊手術を行ったことが知られていますが、ペルーという国の貧民層の出産制限を通して全体の生活向上を目指したように考えられますが、インディオの人たちにとっては民族の衰退になりかねない両刃の剣だったといえるでしょう。
ブランディの「ピスコ」を買うためにリマ市内のスーパーマーケットに入りました。日本と同様に商品が溢れていますがスラム生活者が利用するとは思えませんでした。
日本でも生活保護世帯数が8年連続で最多数を更新しているように最近10年で貧富差・生活差が急速に拡大していますが、ペルーの貧富差は物凄く大きいと実感します。日本から外に出て、そこでの体感が日本を考える契機になります。今回は11日間という短い体験ですが、私は日本は凄く恵まれていることを国外に出るたびに実感します。
旅行で感じたあれこれ ----------------------------- 最終回報告
岩井です。
お世話様です。
ペルー旅行報告の最終便は、旅行で感じたあれこれ、です。
マチュピチュ遺跡でも見事な段々畑を見ることができますが、アンデネスと呼ばれている段々畑の素晴らしさには本当に感心しました。ペルー山岳地域には様々な場所に段々畑が作られ今でも使われているところがたくさんあります。耕地面積を少しでも広げようとする探究心と勤勉さ我慢強さを段々畑から感じました。
ティティカカ湖の中に浮かぶ藁島であるウロス島で生活する人たちはすぐそばに陸地があるのに陸に上がろうとせず不安定な浮島で生活しています。フジモリ前大統領の施策でソーラーパネルは設置されていましたが浮島の生活はどう考えても不便極まりないのに、なぜ陸での生活を選ばないのか不思議でなりません。
日本からペルーへの移民は110年前の1899年(明治32年)の第1回航海の790人から1920年(大正9年)までの22年間で1万5000人を超えます。海を越えた人たちは言葉も分からず厳しい自然気候のなかで生活していかねばならず大変な思いをしただろうと感じました。フジモリ前大統領も移民の子です。
まだまだ撮影した写真も沢山あり、旅行で感じたことも沢山ありますが旅行報告は9通目のこの回で終了します。今まで添付した写真のひとつでもが忙しい仕事の合間に見てホッと心が癒されたら幸いです。
今回の旅行はペルーの代表的観光地を回るカタログツアーでしたが、次回はオリジナルな旅として、3泊4日のインカ道トレッキング、ワイナピチュ登山とマチュピチュ登山、ジャングルツアー、円形実験農場や岩塩発掘所などを回れたらいいなぁと思っています。
私は旅に出ることにより現在の環境を意識的に遮断することによって心身のリフレッシュ化(OFF,ON)が出来ると思っています。そろそろ雪が降る季節となっていますが天候が良ければ今週金曜日から長野新潟県境の山に登りに行きます。
2009年9月17日〜27日