ラパスへ
2月16日
ラパス空港に到着したのは明け方の3時40分だった。空港の外に出ると半月が空に輝いていた。ラパス空港は標高4100mにあるので肌寒い。以前ペルーとボリビアの国境にあるチチカカ湖に来たことがあるが、その時はペルー側からチチカカ湖に入ったので、ボリビアは私にとって初めての土地だった。
ガイドは陽気な女性のナンシーさん。ラパス空港からラパス郊外の宿泊ホテルに向かった。坂を下っていく途中で盆地型となっているラパスの街並みの街灯が綺麗だった。ホテルには5時20分に到着した。午前中はホテルで休憩となっていた。ホテルは標高3300mほどの位置に建てられており、富士山で例えると7合目辺りに相当し、短期間で効果的に高度順応するための高山病対策からホテルを選んだと説明を受けた。
ハチドリ
ペルーのリマ空港は海岸近くにあり、2時間あまりで標高を4000mまで上げたので、高山病を十分考慮することが必要だった。私はホテルに着いても仮眠は避けて野鳥の撮影をすることにした。1時間ほどの撮影だったが5種類の野鳥を撮ることができた。みな初めて撮影した野鳥たちであった。特に興奮したのはハチドリだった。深緑色のメタリックカラーに輝き、細く小さな体を花の前でホバリングしながら、次から次へと花の蜜を吸っていく姿は、実に可憐で感動的であった。7時から朝食と案内されていたが、外で野鳥を撮っていると、6時過ぎに朝食を済ませて部屋に帰って行く人がいたので、私もレストランに向かった。
ハチドリ
12時にホテルの芝生ガーデンで昼食を摂った。サラダ、ポテト、鉄板焼き牛肉、鶏肉、ソーセージ、大瓶ビールでの昼食だったが、サービスで出たマンゴーカクテルは甘くて美味かったので2杯飲んだ。昼食の終わりにラパスを代表するイリマリ山が映るパンフレットとチョコレート、菓子のプレゼントを現地旅行会社から頂いた。
ホテル従業員の子ども
午後からの市内観光に出るバスの中で、再び現地旅行会社からペットボトルホルダーがプレゼントされた。気前のいい旅行会社だ。ラテンのノリで陽気なガイドのナンシーさんは、案内のために私たちの先頭を歩いていくが、目立ち易いように民族衣装を着た20cmほどの2体のチョリータ女性を持っていた。
月の谷で陽気なガイドのナンシーさんと
市内観光で最初に訪れたのは月面を思わせる“月の谷”だった。月の谷と呼ばれている場所は、元はマリヤサ・バリーという名前だったが、人類として初めて月に着陸したアームストロング船長が、マリヤサ・バリーを訪れた際に、まるでムーン・バリーのようだ、と言ったところから“月の谷”と名前が変わったとのことだった。月の谷は砂岩で出来ており、雨風による浸食で特異の形が形成されていた。その中でウサギの仲間のチンチロに出会った。灰色のチンチロは長い尾を丸めて崖の中間で暫くうずくまっていたが、器用に砂の塔を駆け上がって行ったのには驚いてしまった。普通のウサギの尾は長くないし崖など駆け上がらないのだ。
チンチロ
ラパス市街を縦横に結んでいる交通機関にゴンドラがある。1台で10人ほど乗れるゴンドラである。それがあたかも日本の地下鉄網のようにゴンドラ網として空を走っている。西遊旅行社添乗員の堤さんが5年前にラパスを訪れた時にはゴンドラは全くなかったので、凄い変わりようだと驚いていた。私たちはゴンドラ網路線を乗り継ぎ2路線に乗った。私が知っているゴンドラはスキー場にあるもので、それを都市交通に利用しようという発想が素晴らしいと思った。ラパスの街は一方通行の狭い道が多く、空を飛ぶゴンドラは交通渋滞も緩和し、ほぼ待ち時間なしで運行されているので、市民の足として定着しているとのことだった。
ゴンドラ網路線図
ボリビアは1826年スペイン植民地から独立し、広さは日本の面積の約3倍あり、周りをブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、チリ、ペルーに囲まれた内陸部にある。以前は現在の国土面積の2倍あったのだが、周辺の国々との戦争に次々に負けて領土を奪われ、現在の広さに縮小されたのだった。私たちはスペインによる植民地支配の名残りの旧市街地を散策した。人通りの少ない石畳が残る狭い路地を抜けると、革命広場(英雄広場)に出た。広場の中央に革命を指導した英雄像が立ち、周りには国会議事堂、市役所、大聖堂などが建っていた。広場には赤・黄・緑の3色の国旗が風になびいていた。ボリビアの国旗の3色の赤は革命、黄は資源、緑は自然を意味し、中央にコンドル・アルパカ、銃、月桂樹などが描かれた国章があった。国章は国会議事堂正面にも付けられていた。
ラパスの街並み
私たちが公園を訪れたのは日曜日の午後だった。広場には多数のくつろぐ市民とトウモロコシの餌を求める多数のドバトがいた。挙の中に餌を持っている少女の頭・肩・腕にハトが群がり、悲鳴を挙げている少女の姿は日本の観光地でもよく見かける光景だった。広場の脇ではパラソルや茣蓙を拡げ、アイスクリームやジュース、果物を売る人たちで賑わっていた。また、公園の角でパラソルの下に各国の通貨レートを書いた看板を立て掛け、堂々と闇換金しているおばさんたちも目立った。私はUSドルと現地のボリビアーノ通貨との換金はホテルで行ったのだが、旅行者にとって換金率は低くなるものの闇換金のほうが便利かもしれない。
革命広場に立つ少女像
革命広場の脇に土産物屋が立ち並ぶサガルマダ通りがある。最初に案内された店の入り口に、子羊の毛が付いているミイラや、干からびた子羊が掲げられいた。なんだこれは、と初めての体験として驚いた。そこには先住民としての呪い的な意味があるらしかった。店に入ると香辛料の匂いが充満し、絵から一目で分かる怪しげな精力剤も置いてあったが、私が買いたいと思うものはなかった。
路地売りのインディオ
ボリビアではあちこちで民族衣装を着た人に出会った。先住民の文化が根付いているようにも感じた。土産物屋の店先に子羊のミイラが吊り下げられているのも引き継がれてきた文化のひとつであろう。2006年に就任したエボ・モラレス大統領はボリビア史上初めての先住民出身で、13年という長期政権は腐敗をうみ、昨年2019年10月に4期目の大統領選挙に勝利したが、11月にメキシコに亡命し大統領を辞任した。どこの国でも権力を長期に握ると腐敗と恣意的な政権運営が起こる。日本も例外ではない。
ウユニ塩湖
2月17日
ボリビアへ来た目的は、雨季の広大なウユニ塩湖を自分の目で見ることだった。乾季には水が全て蒸発し広大なウユニ塩原となるため世界最速の命懸けの自動車レースが行われる。
ウユニ空港行き8時55分発のアマゾナス航空に乗るため、6時55分にラパスのホテルを出た。ラパス空港から離陸した50人乗り飛行機の右側席からウユニ空港着陸の15分前にウユニ塩湖が見おろせた。雨季とはいえ随分水が張っていたのに驚いた。定刻の9時45分にウユニ空港に到着した。50分のフライトだった。
赤ちゃんを背負って
私たちは空港からウユニ塩湖のあるコルチャニに5台の4輪駆動車に分乗して向かった。私が乗った2号車のドライバーはルイチェルさんで日本語が少し話せた。ピクニックランチを積み込むため、ホテルとは反対方向にあるウユニ町のレストランを兼ねた休憩所に寄った。積み込みが終わるまでの時間にマテ茶を飲むと気分がほんわかして来た。町の商店の扉は殆ど開いておらず、町は静かだった。20分休憩してホテルに向かった。それにしても野良犬が多く、田舎町の印象を受けた。信号機はあったものの止まったままだった。町ではアンデスの民族衣装を着た人が目に着いた。赤ん坊を布1枚に包んでの背負い方が独特である。
列車の墓場
ホテルに到着する前に30分間、列車の墓場と呼ばれている場所に寄った。1950年まで銀や塩の輸送で活躍した機関車や列車が今は棄てられ、いわゆる"列車の墓場"と呼ばれ、今ではボリビアの観光スポットのひとつとなっていた。観光客は想い想いに機関車や列車に上って写真を撮っていた。空には彩雲と日輪が浮かび、天候の悪化を暗示していた。
高速道路にのりホテルへ向かう途中にリャマの牧場があった。リャマもラクダ科の動物であり、ビクーニャに似ている。車窓からビクーニャも見えたが、こちらは野性だった。キヌアの畑も続いていた。昨晩の夕食に出ていたが、キヌアの種類はたくさんあるとのことだった。
キヌア畑
私たちが宿泊するホテルはウユニ塩湖の湖畔に建ち、柱や天井の一部が塩で出来ている"塩のホテル"に着いた。2連泊するホテルである。ウユニ塩湖に向かうため、防寒対策と長靴の準備をして再び四輪駆動車に乗り込んだ。日没までウユニ塩湖のあちこちを彷徨うのだ。ウユニ塩湖の大きさは秋田県とほぼ同じの12000平方キロメートルである。ウユニ塩湖は深い所で250mあるとのことだった。驚くことにそれが全て塩の結晶なのだ。昨日一昨日と2日間この地方に大雨が降ったが、それ以前は雨季にもかかわらずウユニ塩湖は干上がっていたとのことだった。
ウユニ塩湖での集合写真はシンメトリー
4輪駆動車に乗った私たちはウユニ塩湖に乗り入れた。大雨の影響でウユニ塩湖は水量が増し、四輪駆動車のタイヤ半分が水没している状態だった。4輪駆動車の底にはプラスチック板が貼ってあり、塩害を多少なりとも防いでいる。風は無く絶好のコンデションとなった。ウユニ塩湖の塩分濃度がどのくらいか舐めてみると、海水よりも塩辛かった。それもそのはずで足元は塩の結晶が広がっているのである。水が張られた湖は水鏡となり、上下シンメトリーの幻想的な景色が、自分を中心にして360度に渡って展開されていた。それは湖の中に立った人間しか見ることのできない景色だった。この景色を見るためにはるばるボリビアまでやって来た甲斐が報われたことになり、私は言葉では表せられない感動に包まれていた。
水鏡のシンメトリーにはしゃぐ
4輪駆動車を5台使って日避けのタープを作り、その下でランチタイムとなった。ビュッフェスタイルのランチは野菜が多かったが美味かった。その後も写真タイムだったのでトリック写真も撮った。思う存分写真を撮ると同時に景色を自分の目に焼き付けたのである。
ウユニ塩湖の中に建っている古い藁葺き屋根の“塩のホテル”に向かい休憩となった。トイレは古く有料だったが、汚水はどのように処理しているのか不思議であった。このホテルには2人の共同経営者がいたが、自然保護か経営利益かで意見が別れ、経営利益を求めた方は湖畔に新たに塩のホテルを建てたのだった。そのホテルに私たちは泊まっていた。現在、ウユニ湖内には新たな建物は建てられなくなった。
塩のホテル横に各国の国旗が立っている
ホテルの隣に各国の国旗が靡いていた。最初はホテルの宿泊者の相互理解のためにホテル側が旗を立てたが、そのうち各国からの観光客が立てるようになったとのことだった。旗の前で写真を撮った。シャッターは日本語が分かる若者に頼んだ。旗の中には2020年1月と署名が書かれた日の丸の旗もあった。
テーブルに赤ワインがセットされた
一旦ホテルに戻り、18時に再度夕焼けを見にウユニ塩湖に出かけた。ウユニ塩湖はホテルから車で2分の近さである。夕焼けを待つ間は現地リーダーが椅子を並べて様々なポーズを取っての集団写真撮影を行なった。やがて西に太陽が傾く頃にテーブルとグラスがセットされた。グラスに赤ワインが注がれ、ツアー参加者全員がグラスを掲げて夕陽に乾杯である。太陽を背にワイングラスを持った影絵の写真を撮影した。いよいよ夕焼けの撮影である。湖面に反射して上下に映し出される夕焼けは実に見事である。私は徐々に赤さを増すし、水面の上下に映る夕焼けに満足であった。
ウユニ塩湖の夕焼け
ホテルに戻り夕食後に星空観察と撮影に再度ウユニ塩湖に出かけた。星が降る如く満天の星空だった。南十字星がハッキリ確認出来たので、私はその十字星を狙って撮影に入った。横版、縦版をそれぞれ20枚ほど撮影し終了した。ウユニ塩湖の初日に私は十分満足だった。
満天の星空に南十字星が見えた
今夜は満天の星空だったが、日輪が見えていたので明日からの天候の崩れが心配だった。あと2日天候が持ってくれればいいのだがと思いつつ眠りに着いた。
ウユニ塩湖
2月18日
明け方の星空観察と写真撮影のため4時にホテルを出発した。撮影場所に到着したが、空には薄い雲がかかっており、星がハッキリ見えないため星空撮影は中止し、朝日が昇るまで車内で待機した。朝日が見えるのだろうか、と嫌な予感がした。6時18分の日の出時刻より1時間前に車外に出て、夜明け前の月夜を撮影したが、月はぼんやりしていた。日の出時刻になっても山の稜線を覆う雲が去らず、スッキリした日の出は撮影出来なかった。残念だが仕方がなかった。これも自然現象なのだ。翌日に再チャレンジすることにした。
午前中は10時にホテルを出発し、コルチャニ町の塩工場見学に行くことになった。コルチャニ町は人口1200人の小さな町で、主産業は塩工場、コキアなどの野菜栽培、土産物屋などとのことだった。塩工場に入って塩の生産工程を見学した。
塩工場の袋詰め行程
塩の採掘はウユニ塩湖の中央部で行われており、昔は手掘りだったが今は機械掘りに変わっている、との説明をうけた。塩の生産工程は、天日干し、熱処理、ヨード添加、袋詰というものだった。昔ながらの生産工程だった。見学後、塩工場につながっている土産物屋でアルパカセーター1枚を14USドル、香辛料入り塩を10個20USドルで買った。塩工場を出て土産物屋が連なる通りを見て歩く中で、皮の飾りが巻いてあるショットグラス2個を5USドルで買った。この買い物は安いと思った。11時05分に土産物屋通りを出てホテルに戻った。
コルチャニの土産物屋
塩工場見学を終え、一旦ホテルに戻ってから長靴を履いてウユニ塩湖へ向かった。最初に天然塩の掘出し場所を訪ねた。山型に塩を盛り上げ天日干しにしたものを工場に運ぶので、あちこちに掘られた塩が小山になっていた。その近くにガスが吹き出している所があった。ウユニ塩湖の250mの地下には水脈があり、その水脈から水とともにガスが上がって来たもので、人体には影響ないとのことだった。
地下から湧き出しているガス穴
ガス穴は大きな場所もあり、塩の運搬車や観光用車は穴を避けて進んでいるが、昨日は大雨後で水量が増し、よく道を知っているベテランドライバーが塩輸送トラックの車輪を穴に落としていた。積んでいた塩をドライバー1人で荷台からスコップで降ろしていた。大型トラックなので大変な作業だと同情してしまった。
ガイドがワイン瓶と椅子を車から取り出した。何をするのだろうかとみていると、椅子の上にワイン瓶を横たえて、ワイン瓶の上に人が座っているようなトリック写真を撮ったのだった。なあるほど、お客を楽しませるために現地ガイドもなかなか考えていると感じた。次にはジャンプして空中に浮かんでいる写真を撮った。標高3500mを超える高地で、1人と2人でリハーサルも含めて何度もジャンプした。少し息が上がってしまった。
ワイン瓶を使ったトリック写真
山際では雨雲が発生し、稲光が走り、雷が鳴っていた。昨日列車の墓場を訪ねた時に、彩雲や日輪が見えたので天気の崩れるのを心配したが、やはり崩れて来ていた。私たちの車にも雨が落ちて来た。野外ランチは昨日同様に塩湖の中で食べる予定でいたが、場所を変更し昨日も訪れた古い塩のホテル=プラヤブランカで摂ることにした。ビュッフェスタイルで鶏の唐揚げ、ジャガイモ、野菜3種類、パン、リンゴ、甘菓子、であった。
ダカールラリー記念碑
ウユニ塩湖はダカールレースのコースになっていた。元々は1979年に始まった世界一過酷な自動車レースで、フランスのパリからスタートし、スペインのバルセロナからアフリカ大陸に渡り、セネガルのダカールまでの12000kmのレースだったが、2009年に開催地を南米アルゼンチンのブエノスアイレスからチリを回るコースに変更され、2012年からペルーを加え、2017年からボリビアを通るルートになった。毎年、コースが変更ており、昨年2019年はペルー、今年2020年はサウジアラビア1か国の開催となっている。そのダカール記念碑が塩のホテルの近くに立っていたので歩いて行った。記念碑は優勝トロフィーの形をしており、様々な国の観光客が訪れていた。記念碑の前での写真の順番待ちに、私はスマホやカメラのシャッターを何回か押してやった。
大きな鏡の上に立って
また、以前テレビで見たのだが、ウユニ塩湖の乾季には世界最高スピードを競う命がけのレースが行われている場所でもある。ジェット機ばりの高性能エンジンを搭載した車が世界一平らな塩原を超スピードで一直線に走るレースで、ウユニ空港や塩のホテルにバイクやコンボ車のポスターが貼られていた。
今回のウユニ塩湖の観光には湖の中央に唯一つ存在するインカワシ島と呼ばれるサボテンが育っている島に行く予定であったが、現地ガイドの判断で湖面の水深が深すぎ4輪駆動車では行けないこととなった。この中止は残念だったが、仕方のないことであった。
ホテル内のカーニバル人形と一緒に
一旦、ホテルまで戻って休憩後の18時に再び夕焼けを見にウユニ塩湖に出かけた。ホテルを出るときに空を仰ぐと、昨日に比べて雲の量が多く夕焼け空の期待は持てなかった。塩湖の観察地点に到着したが、日の入りまでに時間があったので、ツアー参加者が1列に並び、3つのポーズを決めた周りを車で回りながら、助手席に座ったガイドがアイホンを使ってインターバル撮影を行った。すぐに動画を見せてもらったが、コマ落としされた映像は中々面白いものだった。私はアイホンにインターバル撮影機能が付いていることさえ知らなかったが、ガイドも最新のIT知識を取り込んで仕事をしていると感じた。
夕焼けの前にワインで乾杯
私たちはワインを飲みながら日の入りを待っていたが、余り期待していなかったのとは大違いで、素晴らしい夕焼けが湖面に反射し、真っ赤な幻想的な景色が登場した。期待していなかっただけに、いやぁ驚いた。素晴らしい光景だった。71歳にして初めて見る景色だった。今回の旅は素晴らしいことの連続だったが、この景色を見ただけで今回の旅は成功したと感じた。
幻想的な夕焼けが湖面に映えた
私は21時からの星空観察と撮影は昨晩で充分なので今夜はパスし、翌朝の日の出に期待した。星空観察に出かけた人に状況を確認すると、空は曇り、星は見えず、イナズマを撮影しただけで早々と退散して来たとのことだった。
再びラパスへ
2月19日
私は昨晩の星空観察に参加せず、今朝の日の出観察のみとし、5時30分にホテルを出発した。ウユニ塩湖の撮影場所に到着したが、風が強く、雲も多すぎ、日の出は残念ながら期待できなかった。車の中で暫く待機したのだが、結局、日の出は見られずにホテルに戻った。朝食の後、再び1時間ほどのウユニ塩湖撮影が企画されたが、今朝の状況から判断し私は参加を見合わせた。
荷物を整理した後にホテルのロビーで一緒に旅に出た友だちと話していると、JALパックツアーで来ていた年配の日本人男性がやってきたので話した。JALパックのツアー参加者は14人で、新婚カップル3組と残りは年寄りだという。マチュピチュ、クスコ、ウユニと回りながら、これからリマ、ニューヨーク経由で成田に帰るゆったりした10日間ツアーで、天候に恵まれて快適な旅行を楽しんでいるとのことだった。私たちがパタゴニアに行ってきたことを話すと非常に驚いていた。パタゴニアまで足を延ばす旅行者は殆どいないのだ。
ウユニ空港
11時にホテルを出てウユニ空港に向かった。暫く右手にウユニ塩湖が見えていた。ウユニの町まで45分の道のりだが、途中で20頭のビクーニャがいたので停車し写真を撮った。グアナコがたまに道路に飛び出すのだろうか、"グアナコ注意"の青い標識が立っていた。日本では山間部の道路を走ると、シカやタヌキに注意の黄色の標識が多いことを思い出した。
ウユニのレストラン“チカ”での昼食
ウユニは埃っぽい町だ。行きに寄った休憩所はホテルとレストラン"チカ"を兼ねていたので、今日の昼食はチカだった。肉はビーフ、リャマ、魚はサーモン、スパゲッティ、野菜、パン、のビュッフェスタイルだった。地ビールを飲みながらの食事だった。こちらに来てリャマは何度か食べたが、今回が1番美味かった。レストランで食事をしたのは3組の日本人ツアー客だった。このレストランがツアー会社の指定レストランなのだろうと思った。ツアー客の中にホテルで話したJALパックの男性の姿もあった。
レストラン“チカ”の看板
食事を終え、空港に向かう途中にあった学校のフェンスに、革命に関する画が10枚ほど描かれていた。その中にボリビアで殺害された革命家チェ・ゲバラの顔もあった。エリート医学生であったゲバラが南米を旅する中で貧困にあえいでいる民衆と話すなかで革命運動に身を投じ、カストロとともにキュウバ革命を勝利に導いたが、そのままキュウバにとどまらず各地を転戦し、最後はボリビアで逮捕され処刑されてしまった。ここでは現在でもゲバラは英雄だった。
学校の壁にボリビア国旗とともに描かれたチェ・ゲバラ
ウユニ空港に到着し搭乗手続きを終え、手荷物検査まで時間があったので、可愛らしいアルパカのキーホルダーを10個買った。10USドルだった。ウユニ空港14時45分発の50人乗りアマゾナス航空は10分遅れて離陸した。乗客は全て日本人だった。私は機上の人となったが、遠ざかるウユニ塩湖を見降ろしながら、もう2度と訪れることはないと思われる場所だが、私にとっていい思い出が出来た素晴らしい場所だった。
ラパスの街並みと雪のイリマリ山
標高4100mのラパス空港には15時45分に到着した。ラパスは今回の旅で2度目の滞在である。ガイドは前回同様のナンシーさんだった。空港から街中に下る前にラパス市街を一望に見下ろせるペチャママ展望台から写真を撮った。ラパスで宿泊する緑色のプレジデントホテルが街の中心部に見え、遠くに白く輝くイリマリ山が聳えていた。
街中の闇換金屋のおばさん
ホテルにチェックインし、一休みしたあとホテルで10USドルを換金すると69ボリビアーノだった。その現地通貨をもって土産物屋が連なるサガルマダ通りの散策に出かけた。土産物屋は上野のアメ横商店街のように入り組んでいた。ウユニ塩湖のワッペンを探したが見つからなかったので、ボリビアの国旗のワッペンを買った。1枚10ボリビアーノ=150円だった。次にワインを買いたいのだが、酒屋が中々見つからなかった。レストランの呼び込みに聞いた場所に行ってみると、ワインは酒屋ではなく普通の駄菓子屋で売っていた。ワインのフルボトル720ml1本が25ボリビアーノ=400円弱だった。赤ワインを1本買ってホテルに戻り、夕食前に飲むと甘い味ながら抜群に美味かった。アルゼンチンのカラファテで飲んだワインと同じ味がした。
駄菓子屋で赤ワインを買って栓を抜いてもらった
ラパスでの夕食はホテルの16階のレストランだった。ウエルカムドリンクとして私は地ビールを頼んだ。酒が弱い友だちがビールを回してくれた。その2本のビールを飲みながら、皿からはみ出るような大きなステーキを食べた。食事はいつものように美味かった。
ホテル16階のレストランからの夜景
ホテルはラパス市街の中心部にあるため、擂鉢状の底に位置し、外を眺めると街灯が山の上へと伸びているのが分かった。ホテル近くの広場では夜中まで大勢の人たちが集まり歌を歌い踊りながら騒いでいた。この騒ぎは毎夜のことだという。凄いエネルギーだと思った。明日からは、いよいよ飛行機を乗り継いでの長い帰国の途につく。
ラパスから成田へ
ラパス→リマ→メキシコシティ→成田
2月20日
今回の旅を全て終え、いよいよ日本への帰国となった。ラパス→リマ→メキシコシティ→成田と飛行機の乗り継ぎとなるのだった。
ラパス空港では現地通貨が20ボリビアーノ残っていたので、売店でチョコレートのような菓子を買った。ラパス空港午前4時39 分発のリマ行きラタン航空2401便に乗るために、ホテルを午前1時50分に出発した。真夜中のホテルチェックアウトは、昨晩22時30分まで飲んでおり、仮眠もわずかなため頭の中がぐちゃぐちゃだった。バスの中で朝食のボックスが配られた。中にはサンドイッチ、バナナ、ジュース、ヨーグルト、水、菓子が入っていた。空港に到着するまでに食べた。
ラパス空港
リマ空港行きは定刻通りに離陸しフライト時間は50分だった。リマ空港には5時30分到着し、4時間の待ち合わせがあったのでLINEで、娘からのリクエストがあったアニス茶を空港内で探してみた。コカ茶はあるもののアニス茶は見つからず、店員に尋ねても無かった。今回の旅では全ての宿泊ホテルにWi-Hi設備が整備されていたので、家族との連絡は毎日無料アプリのLINEで行っていたのだった。帰宅後に娘にアニス茶のことを訊くと、町のスーパーではたくさん売っていたとのことだった。今回の旅では市内スーパーなどには寄らなかった。
メキシコシティではホテルにチェックインして仮眠をとった
リマ空港で9時25分発のメキシコシティ行きラタン航空2472便に乗り換え、1時間の時差があるものの、14時10分にメキシコシティ空港に到着した。朝が早く眠たかったので、6時間のフライトの機内で観た映画はターミネーター1本だけだった。私はターミネーターを初めて観たが、あまり意味が分からなかった。シュワちゃんも老け役で出演していた。意味を考えてはいけない映画かもしれないと思った。メキシコシティでは、成田空港行き直行便のアエロメヒコ航空に乗り継いだが、乗り継ぎまでに時間があったので空港に直結しているホテルにチェックインして仮眠を取った。
メキシコ料理のタコスとケサティーヤ
今回の旅の最後の晩餐は、6人がホテルのフロントに集合し、メキシコ料理店へ向かった。地元ビールのSOLとINDIOを飲みながら4品のメキシコ料理をシェアしながら食べた。辛いものもあったが、私の味覚と合い最高に美味かった。この食事も今回の旅のいい思い出となった。1人当たりUS18ドルの支払いだった。
トルティーヤ
21時にフロントに再集合し空港に向かった。搭乗手続き、出国手続きを終え、0時05分の成田空港行きに乗り、フライト時間15時間15分という長い帰国の途に就いた。
2月21日
午前4時40 分に目覚めると、後部のキャビンアテンダント席に行き、カップラーメン、サンドイッチ、ビールをもらってきて食べた。それから約1時間後の5時35分に機内食がでた。内容はチキン、サラダ、漬物、フルーツ、パン、ワイン、お茶だった。1時間前にサンドイッチ、カップヌードル、ビールの軽食を摂っていたので、あまりお腹が空いておらず食べすぎの感じがした。
機内食
メキシコシティから成田までの約15時間のフライト時間で観た映画は4本だった。『ザ・メグ』、『ダンスウィズミー』、『拉麺茶』、『五億円のじんせい』だった。ザ・メグは、新ジョーズとも言えるもので、大鮫との戦いが迫力満点で手に汗を握る映画だった。ダンスウィズミーは、若い女性が怪しげな魔術師の催眠術にかかってしまい、音楽を聴くと踊りだすコメデイーで、次々に面白おかしい場面が展開し笑える映画だった。拉麺茶は、ラーメン屋で働いていた青年が亡き母親の出自を求めてシンガポールに渡り、母親のスープの味を追い求める内容で胸を打たれた映画だった。五億円のじんせいは、幼ない時に心臓手術のため5億円の募金を集め、手術は成功したがその後の人生で社会のために5億円を返すというテーマを持った青年の体験と心の葛藤は、そういうものかと考えさせられた映画だった。4本を連続で観たので若干疲れたが、4本ともに面白かった。
2月22日
日付変更線をまたいで午前4時20分に2回目の機内食がでた。内容はスクランブルエッグ、マッシュポテト、パン、フルーツ、ビスケット、コーヒーだった。ビールを頼んだが、断られてしまった。2時間後には成田空港に着陸する予定だった。
最後の機内食
6時13分に雨が上がった成田空港に着陸した。13日間の短かったが充実した南米への楽しかった旅が終わりを迎えた。空港宅急便でスーツケースを自宅に送り電車で帰宅したのだった。