成田からカラファテへ
(成田→メキシコシティ→リマ→ブエノスアイレス→カラファテへ)
今回の南米への2月10日から2月22日までの13日間の旅の目的は、アルゼンチンの氷河観光、チリのパイネ観光、ボリビアのウユニ塩湖観光の3ヶ所の観光であった。
2月10日
成田空港のアエロメヒコ航空のチェックインカウンターでメキシコシティまでの搭乗手続きをすると、係員はマスクをかけていた。今年になってから猛威を振っている新型コロナウイルス対策だろう。チェックインカウンターは不特定多数のお客と対応するので、自分の身を護ると同時にお客を護る対策はしっかりするべきだろうと思った。
成田空港から15時25分発のメキシコシティ行きは直行便で、成田空港からロサンゼルスまで太平洋を一直線に飛び、そこから方向を変えアメリカ大陸の西海岸線を南下するコースで、メキシコシティの到着は日付変更線を越えたため同じ2月10日の12時40分だった。予定より20分早く到着した。太平洋上空は西からの偏西風で追い風だったが、ロサンゼルスからメキシコシティの間は南からの向かい風となり飛行機は激しく揺れた。到着したメキシコシティの気温は23℃で天候は晴れだった。
飛行時間が12時間15分あったので機内では、グリード2、アルキメデスの大戦、リングサイドストーリー、ライフと4本の映画を観た。機内食は2度出て、夕食はマカロニ、サラダ、パン、ケーキ、缶ビール、ワインだった。朝食は生ハム、ジャガイモ、パン、リンゴ、缶ビールだった。
メキシコシティ空港の第1ターミナルから第2ターミナルを結ぶ列車
メキシコシティ空港第1ターミナルから第2ターミナルへの移動は空港間を結ぶ列車だった。列車は民族や動物のイラストが色彩豊かに描かれたパッケージ列車で車内も綺麗だった。ホームで列車を待つ乗客に対して列車の到着時刻が分かるように秒単位でカウントダウンしていた。第2ターミナルに着き、ペルーの首都のリマへ乗り換えるため、ラタン航空のチェックインカウンターまで移動したが随分長い距離を歩いた。
空港の土産物屋で売られている商品の色彩が激しく目に眩しい。プロレスのお面が沢山売られていた。メキシコのプロレスにはたくさんの覆面レスラーが登場するのだ。こちらの公用語はスペイン語である。スペイン語は英語と違ってあまり聞き慣れていないので、耳に届く言葉が早く感じられ、意味は全く分からなかった。
ラタン航空のチェックインカウンターと搭乗ゲートも離れており、リマへの出発は1時間遅れて16時40分だった。メキシコシティからリマへの5時間50分の飛行時間のなかで観た映画はスターウォーズ、トンブライダーの2本だった。機内食はチキン、マッシュポテト、サンドイッチ、缶ビール2本だった。リマへは12分遅れて22時42分に到着した。以前、娘の大学入学祝いでマチュピチュ、ナスカ、チチカカ湖に来たことがあり、その時にリマ空港に降りたので南米もここまでの距離は来たことがあるが、これから先は初めての土地となる。
2月11日
2回目の乗り換えはリマ空港からアルゼンチンのブエノスアイレス行きで、同じラタン航空だった。16分遅れて0時26分に出発した。4時間25分の飛行時間の中の機内で観た映画はミッドウェーの1本だった。真夜中の乗り換えだったが神経が高ぶっていたのか睡魔は殆ど感じられなかった。真夜中に出た機内食はチキン、サラダ、フルーツで、缶ビール、ワイン、を飲みながら食べた。
ブエノスアイレスはアルゼンチンの首都で、地理的には南部に位置し大西洋側にある港町である。機内で飛行ルートと現在位置が確認できるフライトマップを見ると、ブエノスアイレスに切り込む湾は海水が白く濁っていた。内陸から大西洋に流れ込む川は2本あり、その水が白く濁っているのが湾全体に広がっているように見えた。
ブエノスアイレス湾の色
ブエノスアイレス空港に6時21分に着陸し、飛行機のタラップを降りてバスに乗り込む時に丁度太陽が昇って来た。天候は晴れで、久しぶりに太陽を見た気がした。日本とアルゼンチンとの時差は12時間となり、丁度地球の反対側に来たことになった。思えば遠くに来たものだ。しかし、乗り換えはまだ終わらない。更に国内線のアルゼンチン航空の12時05分発でアルヘンチーナ湖畔のカラファテに向かうのだ。搭乗ゲート26の近くのカフェでサンドイッチとビールで昼食を摂ったが、カフェ内のテーブルは満席で、外の待合いフロアで空いている椅子を探して食べる状態だった。
ブエノスアイレス空港の夜明け
こちらでは日本人が考えると、男も女も巨大なデブと思える体格の人を多数見かけるが、本人たちは実に堂々として全く恥じることがない。そういう文化なのだろうと思う。もちろん中にはスマートな二度見するような美人もたくさんいるのだが。
カラファテ空港への到着は15時20分予定だったが、15分早い15時05分に滑走路に滑り込んだ。成田空港から3回乗り換えてアルゼンチンのカラファテに到着したのだった。滑走路脇に草坊主のような丸い形をした草が一面に生えているのが印象深かった。太平洋からの風が山脈を越すとアルゼンチン側は乾いた風となりパンパと呼ばれる草もあまり生えない平原となるのだ。空港にはガイドのルイスさんが待っていた。アルゼンチン最大のアルヘンチーナ湖は琵琶湖の2倍の大きさで乳白色に輝いていた。バスはその湖の脇を走ってカラファテの市街地へと入っていった。
カラファテの歩道に咲くラベンダー
カラファテの町の名前となったカラファテとはトゲトゲがありブルーベリーのような青い実がなる植物の名前である。花は12月に咲き、今は実がなっている。食べると甘酸っぱい味がする。今は滅びてしまった民族の神話に魔女クーネックの次のような話が伝わっている。小鳥や小動物が冬になると食べものが無くなり他の場所に移ってしまい、魔女クーネックは寂しい思いをしていたが、カラファテに青い実を付けるようにすると小鳥や小動物は冬になっても移動しなくなり魔女も寂しさから解放された、ということである。実際に私もカラファテの実を食べてみたが味はブルーベリーと同じだった。
カラファテの土産物屋
私たちが泊まったホテルはカラファテの中央繁華街であるリベルタドール通りまで徒歩3分の位置にあるホテルカペンケであった。部屋に荷物を置いて街の探索に出かけた。カラファテはこじんまりした街の印象を受けた。ハイキング関連商品を売る店や土産物屋が目立った。私はお土産屋で氷河が描かれたショットグラスと2種類のパタゴニアのワッペンを買って19USドルを支払った。
カラファテの街中
街なかにはたくさんの放し飼いの犬がうろついていた。首輪をしている犬、していない野良犬など多数の犬だった。今回の事前旅行説明会で南米の犬は狂犬病の疑いがあるので、むやみに犬に近づかないよう周知されたので、犬好きの私も接触を避けたのだった。地元のジャム屋に寄った後、アルゼンチン湖まで歩いた。歩いた時間は10分ほどだった。湖にはコガモに混じって、白鳥、マゼランガン、フラミンゴが羽を休めていた。
こういう大型の鳥が街中を歩いていたのに驚いた
ホテルへの帰りに地元ワインを買った。最初に入った酒店はフルボトル720mlが200ペソ=3USドルだったので買いたかったが、USドルは使えないとのことで残念ながら諦めた。次の店は土産物屋でハーフボトル360mlが750ペソ=11USドルだった。この店ではUSドルが使えたので、酒屋と比べるとずいぶん高い値段だと思いながら買った。アルコール度数20度の強いワインだった。ホテルに戻り夕食前に飲んでみるとブドウの味が強く、ワインというよりは葡萄酒という感じの初めて味わう味だった。
氷河観光クルーズ
2月12日
パタゴニアを代表するロスグラシアレス国立公園内の氷河観光の日は朝から快晴で気持ちが弾んだ。私は氷河トレッキングを希望していたが年齢制限があり、65歳までは氷河トレッキングに参加できるが、66歳以上の人は氷河湖であるラゴアルゼンチーノ湖のクルーズ船による氷河観光となっていた。過去に氷河トレッキングで66歳以上の方の死亡事故があり、65歳までという規則が出来たとの説明を受けた。アルゼンチンが決めたことなので仕方のないことである。
氷河観光クルーズ船
クルーズ船コースのガイドは男性のイグナシオさんだった。二枚目の彼は片言の日本語を話すが、片手に持ったタブレット画面に必要項目を記入しつつ説明したが全て英語だった。前日に今回のツアー会社の堤添乗員から氷河観光の概要説明を聞いていたので問題はなかった。
氷河クルーズ船の桟橋までのバスに乗り込む前にランチの注文が取られた。ランチはチキン、ベジタブル、ラムの中から選ぶもので、私はラムを頼んだ。ホテルから40分でクルーズ船が出るプンタバンデラ港の桟橋に到着した。途中でフラミンゴに出会った。生のフラミンゴに会うのはキリマンジャロ登山以来なので10年ぶりだった。
氷河に接近する
8時30分からクルーズ船への乗船が始まり、私たちは2階の客室に入ったが、クルーズ船が出港したのは9時だった。桟橋にはマゼランガンが羽を休めていた。ガイドから渡されたチケットには大きく"7"が記されており、7はクルーズ船の船体番号であった。クルーズ船は双胴船になっていた。船内で髪を赤く染めたアニメの主人公のような女性が話し始めたが、スペイン語なので全く意味不明だった。ひと通りスペイン語の説明が終わると英語に変わった。この女性は乗組員ではなく観光客の写真を撮って売るカメラマンだった。とても目立つ格好をしていた。
熱き恋人たち
クルーズ船の観光時間は昼食を含めて7時間という長いものだった。私はクルーズ船の舳先部分にいた。午前中は二股に分かれた左側の奥へと進むウプサラ氷河観光だった。船首で熱く抱き合う恋人たちに当てられて氷河もグズグズに融け気味だった。一般的に外国人は日本人と違って愛情表現を他人の目をはばかることなくストレートに出している。ここでも例外ではなかった。私の隣の女性が岸を指差して何かを叫んでいた。彼女の指差す先の湖畔の木にコンドルが羽を休めていた。会いたいと思っていたコンドルに早くも出会えて実にラッキーだった。この後、飛んできたコンドルが別の木に舞い降りるのも見ることが出来た。
樹上のコンドル
私は氷河が崩落するシーンを見たいと思っていたが、午前中だけでも2度も見ることが出来た。こちらも上出来だった。突然、女性から、あなたの帽子が素敵だ。どこから来たのか?と質問されたので、日本からやって来たことを伝えた。私が被っていたのはネパールへのトレッキングに出かけたときに、ナムチェで買ったヒマラヤンホックスの毛皮の帽子だった。とても暖かい帽子でアイスランドのオーロラ観光でも被った帽子であった。
スペガッティ―二氷河のそばの桟橋から上陸し昼食になった。レストランの周りに咲く黄色のタンポポの花が印象的だった。クルーズ船には200人ほどの乗客がいたので、時間差をつけてレストランへ入ったようだが、私たち9人が最初だった。ガイドのイグナシオさんは私たちの世話をしていて、自分の昼食は食べなかったようだった。
流れ出す氷河
レストランで食べたのは出発前に頼んだラムだった。渡されたエコバッグにはケーキ、ナッツ類、菓子が入っており、冷蔵庫から好きな飲み物を選んだ。私はビールの500ml缶を選ぶと別料金で200ペソ=3.38USドルだった。4ドル支払うと50ペソのお釣りがきた。ラム肉は冷凍肉だったので、レンジで7分間温めて食べた。最近日本でも冷凍食品の品質向上は目覚ましいものがあり、飛行機の機内食を含め、レンジで温めるだけで食べることが出来るので、このようなツアーでも利用されるのだろうと思った。
スペガッティ―二氷河で思い出したのは、発音が似ているアルプスの画家として有名なセガンティーニのことであった。私の好きなセガンテイーニは氷河を殆ど描かなかったが、アルプスの山々の暮らしを沢山描いた。スイスのサンモリッツにセガンティーニ美術館があるので訪ねたい場所である。
スペガッティ―二氷河
氷河が崩落したかけらが湖面に浮いているが、水面上に出ているのは僅か10%で、残りの90%は水面下に潜っているのである。欠けた氷山は青色に輝いており、実に美しい青だと思った。クルーズ船の舳先に行って氷河をバックに写真を撮った。最初は一人で撮り、次に友だちと一緒だった。シャッターは陽気な女性に頼んだ。
16時20分にプンタバンデラ港の桟橋に戻り、ペリト・モレノ氷河展望台に向かった。途中でフラミンゴがいたので撮影したが、遠すぎて巧く撮影できなかった。野鳥を撮影するには最低でも500mmの望遠レンズは必要だと思う。
ぺリト・モレノ氷河
ペリト・モレノ展望台から氷河の先端部までの距離は300mで、氷河は1日に2m前進し、崩落は毎日起きているという。氷河の裂け目は青く輝いていて美しい。その裂け目が限界となると崩れ落ちていき、氷河の内部崩落を含め、腹に響きわたる大砲のような轟音が起きている。氷河の先端部の幅は4km、厚さは200mあり、水面上に70m、水面下に130mある、とイグナシオさんから説明があった。氷河の先端部に向かって右側の水は乳白色ブルーをしているが、左側は濁っていた。理由は右側の水は純粋な氷河の融けた水だが、左側は氷河の融けた水に山から流れてきた水が混じり茶色に変色しているとのことだった。中央は氷河の欠片が詰まり流氷のようになっていた。
パンフレットに載っていた真っ赤な頭のキツツキについて、ガイドのイグナシオさんに訊いてみると、キツツキの大きさは約30cmで春にはモレノ氷河近くの南極ブナの森の中で見られるが、夏は高い山に移ってしまい、今の時期はこの辺りでは見られないとのことだった。イグナシオさんは森の中で写した動画をタブレットで見せてくれた。南極ブナの葉の緑色の中でキツツキの頭の赤色が目立って印象深いものとなった。
轟音が響く氷河の崩落
第2展望台で氷河を眺めていた時に大きな崩落が起きた。私のカメラは単コマ撮影に設定してあったので4コマしか撮影できなかったが、崩落過程を肉眼で見ることができたので満足であった。モレノ氷河を19時10分に出てホテルに戻った。この時刻でも周囲は、まだ明るいのだ。夕食は20時40分から始まり、エビとジャガイモ、サーモン、ケーキ、ワインは白を頼んだ。フルボトルで11ドルだったので4人でシェアして飲んだ。料理もワインも美味かった。満足の1日だった。
アルゼンチンからチリへ
2月13日
8時にホテルを出発し専用バスでチリのパイネに向かった。空は曇っていた。国境を越える8時間のバスの旅であった。アルゼンチン側のガイドはクリスティアンさん。国境を越えるとバスも運転手もガイドも変わる。国境までの距離は約300kmで約4時間30分だった。
途中の景色はパンパと呼ばれる乾燥した草原で大きな木は育たない。草原にはグアナコというラクダ科の野生動物がいるので出会えるかどうか楽しみであった。腹は白色、背中から足は褐色、顔は薄い黒をしている、という。バスが出発して30分ほど走った場所で、そのグアナコが10頭ほど丘の上を歩いているのが見えた。グアナコは標高1000m未満の比較的低い場所で生活している。
草を食むグアナコ
南米の南緯40度から56度の地域をパタゴニアと呼び、アルゼンチンとチリが含まれる。探検家マゼランが初めてやってきて、先住民が足の大きい民族=パタゴンという意味で使ったと言われている。風と氷河の大地=パタゴニアと言われているが、氷河の一端は昨日体験出来たが、はたして強風は体験できるだろうか。
1時間走った場所で写真タイムとなった。見果てるまで、ただただ広い大地にサンタクルス川が流れ、アルゼンチーノ湖が遠望できた。レッサーダフィと呼ばれているダチョのような飛べない大型な鳥がいた。野菜などを食べる害鳥として絶滅の危機にあったが、最近では保護の手が差し延べられているという。野生動物のグアナコも次々に見かけるようになってきた。単独でいるもの、5から6頭の集団でいるものなど様々な形で生活している。
グアナコの群れ
アルゼンチンは牛肉と羊毛で有名だが、道路に沿って針金を張った牧場の柵が延々と続いている。グアナコはその柵を飛び越えて自由な生活をしているようだが、時たまジャンプに失敗し、柵に引っかかり死んでいるグアナコの姿を見かける場合もあった。グアナコにとっては、まさかと思う不慮の死だっただろう。途中、たくさんの野鳥を見ることが出来たが、時速80kmで走っているバスから撮影することはできなかった。
この辺りでたまに出てくる牧場関係の家には電線が引かれていない。自家発電をしている山小屋と同じだ。10時30分にガソリンスタンドでトイレ休憩をした時にガソリンの値段を確認すると、1lあたり日本円換算で90円だった。アルゼンチンの場合、石油は全て自国産であるために値段は安い。大型バイクに乗った革ジャン夫婦はサンタモニカからのツーリングだという。年齢は50歳代だろうか。人生は1度しかないのだから自分たちの思い通りの生活をすることは良いことだと思う。それは世界を見よう。お互いを知ろう。それが人生の目的だからというLIFEの精神だと思う。
アルゼンチン側の国境事務所
国境まで1時間30分となり、アルゼンチン側の群青色のシルエットの左側に雪を被ったパイネ山群が遠望できた。トーレス・デル・パイネは先住民の言葉で“青い塔の群れ”という意味だという。バスは広大な草原の中を走っていく。この広さは今まで体験したことのない広さである。牧場の柵以外はほとんど人工物がなく、自然のままの世界が広がっており、あきれかえるほど真っすぐな道路がパンパの中に延びていた。そのなかで時たまヒツジの群れがのんびりと草を食んでいるのである。道路に沿ってヒナゲシの白い花が延々と咲いていたが、パンパの中にヒナゲシは咲いていないので、道路を作った際に人間が持ち込んだものが広がったのだろう。
12時10分にアルゼンチン側の出国管理事務所に着いた。運転手とガイドが事務所に入り状況を確認する間、私たちはバスの中で待機した。確認が取れた後、私たちはパスポートだけを持って出国手続きを行なった。事務所の外観は写真に撮っても大丈夫だが内部はダメと注意された。事務所内には3つの窓口があり、私たちは真ん中の2番で手続きをした。係員は20代後半と思われる女性だった。室内には500000ペソと250000ペソの賞金付きお尋ね者の写真が5枚貼ってあった。
アルゼンチン側の出国を終え、チリ側にバスに乗って向かった。国境には鉄製のゲートが立っていた。バスで10分ほど走るとチリ側の入国管理事務所を着いた。ここでも運転手とガイドが状況確認後に私たちは入国手続きを済ませたのだが、こちらはレントゲンによる手荷物検査があった。迂闊にもスーツケースに入れずにポケットに果物ナイフが入っていたのを思い出した。幸いにもザックだけの検査で服装についての検査がなかったのでセーフだったが冷や汗タラタラだった。
チリ側の土産物屋兼食堂
チリ側への入国手続きが済んだところで昼食となった。場所は1階が土産物屋で2階が食堂をしているもので、ここら辺りではたった1軒のレストランだった。ガラス窓には隙間のないほど様々なワッペンが貼られていたのには驚いた。食事のメインはサーモンとポテトで、昨晩食べたホテルのメインと同じだったが今回のほうが美味かった。野菜スープ、果物のデザートなどを瓶ビールを飲みながら食べた。ビールはUS5ドルだった。食事時に今回のツアー参加者13名の簡単な自己紹介がなされた。
ホンダ♂(神奈川)、ムシヤ夫妻♂♀(埼玉)、ナガイ♀(岐阜)、マツムラ♀(大阪)、イワイ♂(千葉)、ヒラタ♂(東京)、ニシムタ♀(大阪)、ツマノ♂(愛知)、ホソダ夫妻♂♀(埼玉)、サクライ♀(大阪)、ニシワキ♀(兵庫)というものだった。
食事後に先住民の土器製のお面を買った。US20ドルだった。大きな木製のお面もあったが、私のスーツケースに入らない大きさなので買うのは控えた。チリ側に入ってから宿泊ホテルまでは約50kmだった。ホテルに向かう途中で流れ出す川のない塩湖の展望台で下車した。塩湖はとても美しく青かった。湖を含む広大な土地が個人の所有なのでバラ線の柵が張られていて湖には近づけなかった。昔は先住民や野生動物が自由に行き来していたであろう土地に、あとからやって来たスペイン人が柵を立て、周りを囲って自分の土地としたことは、自然に対して人間のエゴを見せられているようで空しかった。
出会ったサイクリスト
アルマガ湖に向かう途中でグアナコの群れに出会い下車した。グアナコはおとなしい動物で、決して私たちに向かってはこない。グアナコの前に回り込むと1mほどの距離から撮影ができた。今日の目的は野生のグアナコに出会うこと、というものだったので目的は達成できた。アルマガ湖も塩湖だった。ここあたり一帯が昔は海の底だったのが隆起して陸となり、土地に含まれている塩が長い年月に流れ出し塩の湖を作りだしたのだった。これから向かうことになるボリビアのウユニ塩湖も同じ生成過程のものだ。カシラダカに似た野鳥にたくさん出会った。
チリ側ガイドのナタリアさん
国立公園事務所に寄ると周辺で見かける野生動物や野鳥のパネル紹介があった。またトレッキングコースの紹介もしてあった。国立公園事務所からホテルに向かう途中でグアナコの大群に出会った。私たちを見てもすぐに逃げ去ろうとはしないで、のんびりしているように見えた。しかし、リーダーの1頭は見晴らしのいい高台に登り、ピューマなどの外敵に対する見張りを行っていた。終始、頭や耳の方向を変え、360度の範囲を警戒している姿は頼もしいものだった。危険を察知すると甲高い鳴き声で群れに対して知らせるのだろう。こういうリーダーがいるので群れは安心して草を食んでいけるのだろう。
パイネの角
いよいよパイネの2本の角が現れた。私はこの角に出会うためにはるばると地球の反対側までやって来たのだ。角の上がわずかながら雲で霞んでいたが、鋭い角を空に突き上げていた。見事な角だった。
洒落た宿泊ホテルはペリエ湖の中の小島の中に建っており、幅1mほどの橋を渡って行くようになっていた。パイネの観光パンフレットに度々登場するホテルだ。ホテルのロケーションは抜群で、湖面上にパイネ山群が一望のもとに見渡せるところだった。中庭にマゼランガンの親子がオオバコのような植物の葉を啄んでいた。1mの近くに寄っても逃げることはなかった。後で聞いたところでは餌付けされており、今の時期には北に渡ってしまうが、このマゼランガンはホテル周辺に居着いているとのことだった。このホテルでもWiFiが2年前に開通し、瞬時に全世界とインターネット接続が出来るようになっており、情報面では世界は狭くなったが、旅を続けていると知らないこと初対面のことが次々と現れ、そういう面では世界は広いことを実感するのだ。
マゼランガンの親子
動物に餌付けすることの賛否は昔から話されてきたことである。餌付けされることにより動物たちの可愛らしい姿を間近に見ることが出来るのは利点なのだが、餌付けされたことにより動物が本来持つ警戒心なり敏捷性や逞しさが損なわれ堕落した見世物・ペット化されることは欠点である。自然の動物と動物園で飼育されている動物を見比べれば一目同然である。私は動物でも植物でも自然のあるがままが本来の姿だと思うので、動物の餌付けはするものではないと思う。
パイネの角(クエルノス・デル・パイネ)ハイキング
2月14日
私たちはパタゴニアを代表する名峰が連なるパイネ国立公園内のペオエ湖畔のホテルに宿泊していた。7時に目覚めた。夜半に屋根を打つ雨音が聞こえていたが、朝になると雨はやみ、強い風が吹いていた。雲の下側が朝日に照らされて赤く染まっていた。部屋の外に出てみると黄色の嘴のムクドリがいた。人なれしていて近づいても逃げない。パイネの角(クエルノス・デル・パイネ)の上部は雲の中だった。左隣のパイネグランテはどっしり重厚だが、やはり上部は雲の中に隠れていた。ペオエ湖の湖面は西から吹き降ろしてくる強烈な風のため白く波立っていた。
宿泊したホテル
9時にハイキングに出発した。ガイドは女性のナタリアさん。13歳の息子の母親だという。明るいキャラクターの持ち主であった。2600mのパイネの角が見え初めてきた。青空が広がり湖面は青く輝きを増して来た。2011年に大規模な山火事がこの辺り一帯を襲い、大半の草木が燃えてしまった。南極ブナの燃え残りは死体のように見えた。ブナという言葉は同じだが、日本のブナとは種類が違う。ハイキング途中のパイネ大滝に虹が掛かっていた。滝の水量は多く轟音とともに流れ落ちていた。湖面を走って行く白いクルーザーが一葉の絵のようだった。
パイネ大滝
パイネの角の尖端を覆っている雲が徐々に薄くなっていった。角は2本あり、天に向かって鋭く突き上げている。ハイキングコースはその角に向かってゆるやかに進んで行くのだ。天候は晴れているが強い風に乗って雨が吹き付けてくる。天候が目まぐるしく変わる。風により前進が妨げられ後ろに押し戻される。風と氷河の大地=パタゴニアをもろに体験した風の勢いだった。この風は午後のハイキングでも体験する強烈な風となって吹きまくっているのである。
パタゴニアを代表するノトロの花
角に掛かっていた雲が消えた。素晴らしい展望だ。パイネ山群の最高峰であるパイネグランテも広く長い3050mの山頂部に雪を載せた圧倒的な存在で姿を現した。素晴らしく惚れ惚れする景色だ。パイネの角は尖端と下部は黒の泥岩で真ん中が白い花崗岩だった。これほど見事な白黒の縞模様は珍しい。パタゴニアを代表する赤いノトロの花があちこちに咲いている。青い湖を従えて屹立するパイネの角が凛々しく映った湖のほとりで、2本の角を背景にガイドのナタリアさんと一緒に写真に収まった。私は満足だった。
ガイドのナタリアさんと
昼食に入ったレストランは宿泊ホテルの近くでペオエ湖畔に建っていた。私はビーフステーキをレアに焼いてもらった。店内のテーブルからコックがステーキを焼いている場面が眺められた。皿に乗ったステーキは注文したとおりに、周りは焼けていたが中はほぼ生肉だった。この肉が軟らかく実に美味かった。付け合せにはジャガイモとマカロニを頼んだ。パイネ生ビールを飲みながら美味い食事を堪能した。
レアに焼いてもらったビーフステーキ
食事を終えて外に出て野鳥を撮影していると、後ろが騒がしくなった。近寄ってみると何とアルマジロが足元で動き回っていた。私はアルマジロを初めて間近で見た。両手で持ち上げようとしたら、ノータッチの声がした。アルマジロは、のそのそもそもそ動く動物だった。
のそのそ歩くアルマジロ
午後からは場所を変えてグレイ氷河展望台までの往復2時間半のハイキングだった。ブルーベリーに似たカラファテの青い実がなっていた。食べてみると時期遅れのために乾燥したベリーで味は少し渋めだった。南極ブナの森を進み1度に6人まで渡れる吊り橋を相互交通で渡った。橋の両側に係員がいて交通整理をしていた。森の太い木の幹にキツツキが開けた穴があちこちに見られた。
強風に耐える野鳥
森を抜けて川原に降りると、グレイ氷河から分離した氷河のかけらが川岸まで流れ着いていた。流れ着いたかけらは青色をしていた。小さなかけらは透き通った氷なのだが、大きな塊になると青い氷になるのだった。川原を横切り、再び森の中を歩き、グレイ氷河が見えてきた。しかし見えた氷河は展望台よりも随分奥のほうで迫力に乏しかった。地球温暖化の影響で氷河の先端が年々後退している、とガイドのナタリヤさんが写真で説明してくれた。地球温暖化現象は全世界的規模で進んでいることをここでも実感した。帰りに川岸に近づくと氷河の小さなかけらが流れ着いていた。手に取ってみると全く混じりけがなく透き通っている氷だった。オンザロックで飲めば美味いだろうと思った。2日前の氷河観光の日に私たち66歳以上は氷河クルージングに参加したが、65歳以下で4人の希望者が氷河トレッキングに参加した。その時のトレッキング参加者は、氷河を砕いた氷でオンザロックを味わったという。果たしてその何万年という遥か昔に出来た氷の味はどうだっただのだろうか。
現れた牡鹿
駐車場まで戻って来ると運転手が、鹿がいる、と教えてくれた。肉眼では小さくてよく見えないので、望遠レンズで確認すると立派な角を持った牡鹿だった。牡鹿は草の中に座っていて動かなかった。今日は思いもよらず、2種類のパイネの角に出会えたことになった。
パイネの角
2つのハイキングを終えてホテルに戻る途中で、ペオエ湖の向こうにパイネ山群が聳える絶好の展望地で写真撮影のためにバスを下車した。すると、偶然にも彩雲がパイネ山群に降りそそいでいる幻想的な光景に出会った。偶然とはいえラッキーだった。
彩雲が掛かったパイネ山群
ホテルに戻り、ホテルから徒歩2分程度の展望台で夕陽に照らされたパイネ山群の写真を撮った。パイネの角の花崗岩に当たる西日が明るかった。
チリからボリビアへ
2月15日
今日はチリからボリビアへの移動日だった。チリからボリビアまでの移動は、プエルトナタレス→サンチアゴ→リマ→ラパスと飛行機を乗り継いで行く。長い行程なので根性で頑張るしかなかった。朝目覚めると天候は曇りだったが強烈な風が吹いていた。薄日が差すようになっても雨が落ちていた。パイネ山群は雲の中だったが、10時にバスが出発する頃には徐々に姿を現してきた。バスは出発し途中で小パイネの展望地で写真を撮ったが、もの凄い暴力的な風が吹いていた。私の被っていた帽子も一瞬にして吹き飛ばされたが、ブッシュで止まり事なきを得た。身体が一気に持っていかれるような暴力的な風こそがパタゴニアの風だと改めて実感した。
悠々と歩くピューマ
国立公園事務所のある場所がピューマ出没地域ということで看板が立っていた。注意深くバスの車窓からピューマを探していると、大阪から参加のマツムラさんがブッシュの中を丘の上へと向かって悠々と歩くピューマを発見した。車内の私たち全員が興奮した。運転手はバスを止めた後、ピューマが見やすい場所までバックしてくれた。ピューマに出会うのは現地の人でも稀れであり、運転手は25年間で3度目、ガイドのナタリアさんは9度目とのことだった。私たちは初回で野生のピューマに出会うという幸運に恵まれたのだった。
丘の上で佇むピューマ
バスは荒涼なパンパ平原を走って行った。湖の中で一直線に並んだチリフラミンゴの姿があった。この隊形はパタゴニアに吹き荒れる暴力的な風に対応するための隊形である。競輪レース、ノルディック距離スキー、パシュート、などで縦一列の隊形を目にすることがあるが、それと同じで隊列の先頭が風を受け、2番以降は先頭が風除けをするために比較的楽にレースが運べるのと同じ理屈である。彼らの知恵に感心したのだった。
フラミンゴの風よけ1列隊列
プエルトナタレス空港からの出発時刻までに時間的な余裕があるので、バスはチリ国境からパイネまで来た道を戻り、セロカスティーヨの町に寄った。チリやアルゼンチンの土産を買っていない人や買い足りない人のために2日前に昼食を摂った土産物屋に寄ったのだった。私は既にチリ先住民の仮面のレプリカを買ってあったが、パタゴニアのワッペンを3枚買った。値段は14USドルだった。店内は昼食の時間帯と重なり、凄い混み方だった。手触りの良いアルパカの毛皮には1枚100USドルの値段がついていたが、荷物になるので買わなかった。
先住民の像と一緒に
国内線のプエルトナタレス空港には13時に到着した。売店でパタゴニアのマークの入ったペンギンの縫いぐるみを33歳の娘への土産として買った。娘も立派な社会人だが、私にとってはいつまでたっても娘である。昨日のグレイ氷河ハイキングの帰りに同じペンギンの縫いぐるみを見つけて買いたいと思ったが、現地通貨のペソ支払いでないとダメと言われたものだった。値段は10USドルだった。
プエルトナタレス空港発ボーイングA320-E
出発まで時間があったのでホテルから渡されたサンドイッチとリンゴを食べた。定刻通り15時15分発のボーイングA320-Eに乗り、チリの首都であるサンチアゴ空港に向かった。機内は満席だった。サンチアゴ空港には30分早い18時10分に到着した。入国手続きの係員が最初はスペイン語で話しかけてきた。私が反応しなかったので、次は英語でスペイン語か英語を話せますか?と話かけてきた。私は日本語だけ、と答えると係員は苦笑しながらパスポートに入国のスタンプを押してくれた。相手の眼をしっかり見て答えれば通じるものだ。
チリの国章
更に国際線でペルーのリマ空港行きの20時40分に乗り換えるのだが、乗り換え時間に余裕があったので、夕食はツアー会社の西遊旅行から夕食代として渡された20USドルを使い、空港内でサンドイッチとビールを買った。14USドルだったので結果として6ドル余った。
サンチアゴ空港からリマ空港までのフライト時間は2時間の時差がある関係で3時間45分だった。同じ南米内でも時差が出るので、そのたびに時計を合わせなければならないのは結構面倒だった。機内食は1回出てバターライスチキンを頼み、ビールとワインを飲んだ。映画はゲミニマンとコングの2本を観た。コングは昨年12月にホノルルマラソン参加のためにハワイに行った際に撮影場所を訪ねていた。密林内のヘリコプターの不時着場面や動物の骨が散乱する場面などを思い出していた。
機内食のバターライスチキンとビール
更にリマからラパスまでの飛行は翌日の夜中の0時26分発というものだった。チリからボリビアへの移動は、国内線と国際線を3区間乗り継いだことになった。航空会社は全てラタン航空だった。日本からアルゼンチンに来た時も飛行機の乗り換えが4区間連続したが、チリからボリビアへの移動も距離的には日本からアルゼンチンに比べれば短いのだが、体力勝負での乗り換えの連続だった。