チチ村のチョルテン(仏塔)と親父の命日

 

206チチ村に立つ仏塔

ティティガオンの高台に建つチョルテン

 

 ダウラギリ峰の山麓に佇むナウリコット村に到着したのは3月21日だった。ジョムソン空港に降り立った私たち13名の日本人とネパール人のガイドやポーターを加えたトレッキンググループは向かい風の中でジョムソン街道をカリ・ガンダキ川に沿って21km下って来たのだった。歩きだした頃は青空も見えていたが徐々に曇り出した上空には雨雲が立ち込め、カリ・ガンダキ川の両側に屹立する峰々は全く雲の中となってしまった。ツクチェ村の食堂でラーメン、サンドイッチ、温野菜の昼食を食べているうちに雨が降り出し、昼食後はレインコートを着てのトレッキングとなったが暫くすると雨も止み、道路が湿ったため埃が立たず却って快適な歩きとなった。

 

私たちが宿泊した「ロッジ・タサン・ビレッジ」は海外旅行のガイドブックとして有名な『地球の歩き方:ネパール』の絶景ホテルに泊まるという特集のなかで眺望抜群の山上ロッジとして紹介されている。確かに眺めもいいが宿泊料金も高いロッジであり、利用客のほとんどは日本人のようだった。2階に上がる階段の踊り場に熊谷榧さんが描かれた祭りの大きな絵が飾られていた。迫力のあるいい絵だと思った。夕食でアップルブランディを飲み筋肉が心地よく弛緩した身体は、羽根布団の上掛けに包まれ足元に湯たんぽを入れたベットに静かに沈んだ。翌日は高度順応を兼ねてティティガオンの高台2850mへの往復6時間のトレッキングだった。ちなみに「タサン」という意味はタカリ族の住む土地、とのことだった。

 

 翌日、宿泊しているロッジの中庭でトレッキングを開始する前のストレッチ体操を済ませると、地元ガイドの20歳の女子学生を伴ってティティガオンの高台までのハイキングに出発した。針葉樹林帯の中を河原まで降り、その河原の中にかかる1本橋を渡って車道に出るが、まもなく吊り橋を渡って村々を結ぶ生活道を進んでいく。途中、コケタンティという村でアンモナイトの化石が見つかるという河原を通過し山道に入っていく。現在のヒマラヤ山脈は、かつては海の底にありアフリカ大陸から分離したインド亜大陸がユーラシア大陸に衝突した結果、お互いの圧力によって衝突面が隆起して出来あがったのであり、現在も少しずつ隆起を続けている、という。河原でたまに見つかるアンモナイトを始めとする貝の化石はそのことを証明している。

 

 私たちが歩いて行った山道の途中にはところどころに村が存在し、その村の中を通過しながらティティガオンまで登っていくのである。標高が増してくると石楠花の花がちらほら見えだして来た。足元にはサクラソウが薄紫の可愛い花を咲かせている。サクラソウは毬の形をした丸く固まる種類と通常の種類の2種類が確認できた。ロッジから3時間ほど歩くと目的としたティティガオンの高台に到着した。そこは放牧場になっており石で囲まれたカルカが見受けられた。高台なのだが曇り空のため残念ながら周りの山々は見ることが出来なかった。丁度お昼の時間となったのでロッジで作ってもらった弁当を各自で思い思いの場所を選んで楽しんだ。私はチョルテンの東側で放牧されている牛たちの中に入り、平らな石を見つけて腰をおろし握り飯と鳥の唐揚げを頬張った。食事を済ませると私たちが高台まで登って来た時に針葉樹林の中で薪を拾っている親子を見たので登っていくと彼らは木を伐っていた。その場所から山道を挟んだカルカの上に続く松林に1本の満開に咲いている石楠花の木が見えた。随分上の方に咲いている石楠花だったが、その石楠花の花を取りに行こうと思った。そしてチョルテンに供えようと思った。

 

チョルテンに供えた石楠花

 

 昨日、3月21日は私の親父の命日だった。1998年3月21日群馬大学附属病院に入院中の親父は春のお彼岸の中日に亡くなったのだった。74歳だった。それから16年が経ったが日本にいたら仏壇に花を供え線香をあげ手を合わせるのだが、今はネパールトレッキング中のため供養出来ないので、その代わりにチョルテンにネパールの国花である石楠花を供えようと思ったわけである。チョルテンは全部で6基建っていた。チョルテンに供える花をもらおうと石楠花に木に向かって急坂を登って行った。

 

 石楠花の木は5mほどの高さに育ち根元に枝ごと折れた花が散らばっていた。その花だけでは足りないと思い私の手が届く枝から花をもらった。私は両手に花を携えて坂を下りチョルテンの1基1基に花を供えていった。最後の1基に花を供える時に私の心の中に生き続けている親父に挨拶をした。私の家族4人はみんな元気に健康で、それぞれが自分の道を自分で決めて進んでおり、私は好きな山と真っ赤な石楠花の花を見るためにネパールトレッキングにやってきていることを報告した。親父の生命は16年前に消えたが、それ以来、私の心の中で親父は生き続けている。残念ながら親父の肉声を聞くことはできないが、心の対話はいつでもどこでもすることが出来るのである。

 

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