波の伊八を観に行元寺へ
伊八の作品と北斎の作品
江戸時代後期に5代続いた武志伊八郎信由という彫師が存在した。その初代は波を彫らせたら日本一と称された「波の伊八」(1751年〜1824年)で、現在の千葉県鴨川市の生まれだという。妻の生家から車で10分ほどのところにある行元寺に作品が残っている。先日、妻の生家へ新米を貰うのと墓参りで寄った帰りに、前から観たいと思っていた「波の伊八」の彫刻を見るために行元寺に寄った。平日で雨模様だったこともあり行元寺の参拝者は私たちを含めて8人だけだった。
寺の駐車場に車を止め仁王門まで登っていくと、参道脇に伊八の作品や葛飾北斎の富嶽三十六景のひとつである神奈川沖浪裏図の看板が立っていた。本堂の入り口を開けたが受付の人はいなかった。右奥の方で声が聞こえるので、声のほうに歩いて行くと参拝者6人と作品説明者の婦人が戻って来るところだった。参拝者は行元寺に残っている様々の作品の一通りの説明を受けて帰るところだったのである。60代と思われる婦人は引き続いて私たち二人への説明に入った。本堂には参拝者が座る20脚ほどの椅子が置かれており、その椅子に着席して婦人の説明を聞いた。本堂正面の柱は黒く漆が塗られ、上部に金箔の三つ葉葵の紋が神々しく輝いている。天井近くに高松又八の極彩色の彫刻が鮮やかである。
婦人の説明によると高松又八は御用彫り物棟梁として江戸城改修工事、上野寛永寺、芝増上寺に作品を遺したが、江戸城の作品は江戸の大火で焼失し、寛永寺、増上寺の作品も第2次大戦で消失してしまい、幻の名工と言われていたが、行元寺の本堂欄間に残っているのが発見され、現在は極彩色に復元されているとのことだった。麒麟、虎、龍、兎、海馬、獏、唐獅子、牡丹、錦鶏、などの動物や花が見事に彫り出されていた。また、なぜ千葉の山奥のお寺に徳川家の三つ葉葵紋や御用彫師の作品が残っているのかについては、徳川家康の信頼を集めた天海とともに上野寛永寺学頭であった厳海が出た寺が行元寺であったことに由来しているという。厳海は3代将軍となった家光の学問の師としても有名である。本堂には左に天海、右に厳海の絵が飾られていた。
本堂内の彫刻に伊八の作品が見当たらなかったので何処にあるのかと思ったら、本堂とは別棟で玄関には三つ葉葵の幕が飾られていた藁葺き屋根の建物の欄間に彫られていた。作品は両面から観ることのできる透かし彫りで、浪と鶴、波と宝珠、等が欄間作品として5枚飾られていた。波と宝珠は波頭が砕けるダイナミックな構図であり、宝珠と富士山を置き変えればたちまち北斎の神奈川沖浪裏図になることが一目で理解できるものである。伊八は北斎よりも50年前に活躍した人物で、北斎が伊八の作品からヒントを得て神奈川沖浪裏図を作成したことは容易に想像できるのである。
今年は2020年開催予定の東京オリンピックエンブレムで盗作問題が世間を賑わせたが、伊八や北斎が生きた江戸時代にあっては著作権などという概念は全くなく、容易にコピー作品が作られたことは度々指摘されている。有名な歌川広重の『東海道五十三次』の作品も広重よりも50年前に活躍した司馬江漢の作品が元絵であることが指摘されているのである。
本堂右側の藁葺き屋根の建物内の部屋の欄間に伊八の作品がある
境内に建つ休憩所内に「波と宝珠」の写真と「波の伊八」の歌詞が掛けられており、入り口の柱にあるボタンを押すと演歌調の歌が流れるようになっていた。
飛龍の目玉が キラリと光り 動かんばかりに迫りくる
波を彫らせりゃ 日本一 神社仏閣 諸国を巡り
数多の名作を世に遺す 波の伊八が 今熱い
安房の長狭で 生まれて育ち 幼き頃よりノミを持つ
欄間彫刻 天下一 中で目を引く 名代の作は
波濤に宝珠の 行元寺 男伊八の 夢舞台
馬の背に乗り 何度も海へ 崩れし横波ついに視る
燃える執念 造形美 彫氏一代 其の技極め
江戸の文化に 華添えた 波の伊八は 不滅なり