夢想神伝流居合について渡辺先生から学んだことを書き留めたものです。
夢想神伝流居合
中山博道範士
1、夢想神伝流居合について
「夢想神伝流」とは、居合の始祖・林崎甚助重信を流祖とし、昭和の剣聖・中山博道範士が体制化をなした。古くからは林崎流、林崎夢想流、夢想流等と称されており、戦後においても長谷川英信流、大森流等まちまちの流名で呼ばれていたが、昭和40年代に至り中山博道範士の門流に連なる者は「夢想神伝流」と統一され今日におよんでいる。
居合神社とは、正式名を「日本一社林崎居合神社」といい、始祖神は「林崎甚助重信」であり、今から460年前の永禄4年に
ビデオ鑑賞後、渡邊先生は剣の発生と歴史、日本刀の構造と西洋の剣との製造方法の違いが日本刀をして世界一の技術水準を生んだ経緯を「居合」の歴史とともに淡々と語られた。瞳に力を持つ渡邊先生は65歳と自己紹介された。
道具についての質問では、練習にはどのような姿で参加してもかまわないが、居合道の練習着は一着1万円前後で居合刀は3〜10万円くらいという。私は摸擬刀をすでに持っているので黒の稽古着を買おうと思った。今日の参加者の練習姿はトレーニングウエアにTシャツが多かったが、剣道着や空手着、柔道着の人もいた。
練習時間については、次回からは武道館職員との関係もあるので18時から各自三々五々練習を始め、19時から教室として正式に練習を開始し20時30分に終了するという時間帯で進むことが確認された。楽しい居合道教室になるといいなあと思う。
渡邊先生は今回の「居合道教室」は全10回で終了するがその後、居合を続けて行きたい方には引き続いて指導をしますとのことであり、武道館へは週3回足を運んでいるとのことである。練習を終えて帰る時に渡された名刺には、「正統居合道・大森流、長谷川英信流を学ぶ会」師範・渡邊修巳とあり、裏面には次の文面が記されている。
「私達は剣道、居合道の神様とまで称えられた中山博道範士の高弟で、不世出の居合道の名人と謳われた羽賀準一先生の門人の一人です。羽賀師は人生で真に役立つ居合道、正しい心の居合道を教えて下さいました。あらゆる職業をとおして現実の生きざまの中での名人の心を会得することが出来る居合道を教えて下さいました。一人一人の心に希望の光りを灯して止まない居合道です。正統居合道を学ぶ会は私達のより所でもあります。中山博道範士、羽賀準一師と伝わってきた伝統ある居合道こそが本来の居合道と確信して、正統居合道を学ぶ会を結成しました。中山博道範士が血の汗を流して会得し伝えてくださった居合道を私達は学んでおります。この困難な世の中を生き抜く苦しみに負けない心を会得できる居合道こそが正統の居合道と思います。私達にとって段位称号は求めるところではありません。生きていくのに有意義な居合道こそ魅力あるものです。」
居合の始祖・林崎甚助重信(林崎居合神社鎮座)
2、居合いの歴史について
居合の歴史は、刀剣術の1種で刀剣術は剣術と居合術に分かれていますが、居合は武術のひとつとして格調高い特有の「形」があります。勿論、その源はひとつで今から約4百数十年前、林崎甚助重信が神から授かり刀業に自らあみだした「神夢想林崎流」居合術をもって居合の始祖と伝えられています。時代とともに各流祖は武術の道に精進し1流1祖各流祖が発祥します。その「形」は各流派により多少の相違はありますが、先人流祖が実戦の「戦い」で命を賭して練りに練り上げ、磨きぬかれた太刀筋、刀業は不変であり、戦後、1流の流祖高弟の死去、伝承者の減少に加え、一部の指導者により安易に新しい太刀筋、刀業の創作など古流居合の揺ぎない所作、必殺の太刀筋が消滅していくことは悲しむべきことです。
居合の位置付けは「人つくり」です。
この伝統の精神は礼儀作法を学び今日に受け継がれています。建武式目の「理国之要」に見られる国を統治する手段としては「礼法」をもちいるのが最上と言われています。
この居合道教室のように目的意識を同じくする人々の集まりの中では、各自それぞれの間柄を意に持ち「こんにちは」ひとことの挨拶がすべてです。
礼による維持秩序の望ましい形が作られれば、規律統制などの手段などを用いることなく楽しい集団の秩序維持が可能です。つまるところ、平素の心がけひとつであり居合道は礼法を重視します。
居合の形と実技の基本業に関し初心者が最初に学修する基本業は、大森流・1本目「初発刀、正座」です。「正座の重要性」は武道稽古において凛とした態度の正座姿勢は好感がもてます。居合の場合も正しい姿勢が重要です。正座は道場稽古の時のみでなく、日頃、暮らしの中においても「あ、そうだ」と気楽に立ち、座る動作がスムーズな立居振舞いになるよう心掛けていれば、のちに進む居合業はおおむね、立ち、座る変化業であり、正座「基礎」の形が整えば次の段階へ意欲を持って進めます。しかし、勉強しすぎて深刻になり、何のため何のためと毎日考えると実行にかかれないときがあります。ある程度の趣味を楽しんでいるようなこころのゆとりが必要です。
林崎居合神社(
3、居合いの形について
「夢想神伝流」は技の名称を以下のように規定している。
【初伝:大森流】
1、初発刀 2、左刀 3、右刀 4、当刀 5、陰陽進退 6、流刀 7、順刀 8、逆刀 9、勢中刀 10、虎乱刀 11、逆手陰陽進退 12、抜刀
【中伝:長谷川英信流】
1、横雲 2、虎一足 3、稲妻 4、浮雲 5、颪 6、岩浪 7、鱗返 8、浪返 9、滝落 10、抜打
【奥伝:居業】
1、霞 2、脛囲 3、四方斬 4、戸詰 5、戸脇 6、棚下 7、両詰 8、虎走
【奥居合:立業】
1、行連 2、連達 3、惣捲 4、総留 5、信夫 6、行違 7、袖摺返 8、門入 9、壁添 10、受流 11、暇乞 12、暇乞 13、暇乞
初発刀「大森流・1本目」
次の要綱で進めます。
@ 礼式
A 刀の作法、「名称、持ち方、握り方、右手、左手の使い方」
B 正座、目付け「害意ある正面の敵」
C 抜きつけ「気力みち、吸気とともに必殺の抜きつけ」
D 振りかぶり
E 斬り下ろし「遠心力にて円を描く気持ち」
F 血振るい「右額上、軍人の敬礼、挙手の要領にて雨傘の先を握り、サッと雨滴を振り払うイメージ」
G 納刀「必ず、水平納刀を心がける」
H 着座
左刀 「大森流・2本目」
意義:吾が左側に座している敵に対して行う技であり、「初発刀」と同じ意義である。
動作:正面に向かい右向きに正座し、刀を抜きつつ右膝頭を中心に左に回り、正面に向かい右足を踏み出すと同時に抜きつけ、更に左足を一歩踏み出し振りかぶり、上段より相手の真っ向正面へ斬り下ろす。
両手を十分に伸ばし、遠心力を利用して刀先が円形を描くように鋭く斬り下ろす。柄を握る左拳は臍前一握りとし、刀先は床上、約30センチ位に斬り下ろして止める。血振りと同時に中腰に立ち上がり、右足を左足の位置に踏み揃え、左足を大きく一歩退き納刀する。
右刀 「大森流・3本目」
意義:吾が右側に座している敵に対して行う技であり、「初発刀」と同じ意義である。
動作:正面に向かい左向きに正座し、刀を抜きつつ左膝頭を中心に右に回り、正面に向かい右足を踏み出すと同時に抜きつけ、更に左足を一歩踏み出し振りかぶり、上段より相手の真っ向正面へ斬り下ろす。以下、「初発刀」と同じ。
当たり刀 「大森流・4本目」
意義:吾が後方、吾と同一方向に座している敵に対して行う技であり、「初発刀」と同意義だけれど、回り込み方は右膝頭を中心(軸)」とし、左回りに百八十度回り、左足を一歩踏み出す。
動作:正面に対し真後ろ向きに正座し、右膝を軸とし左へ回り、正面に向かい左足を踏み出すと同時に抜きつけ、以下左刀と同じ。ただし、旋回度が大きいため上体の揺れに注意すること。
特に注意し、忘れないようにすることは、
@
発刀(抜きつけ)時、鯉口を握る左手は充分過ぎる気で後方へ引く。
A
実技中は体の中心を保って、体が前後左右に曲がらないように気をつけること。
B
飛び足、跳ね足にならないように気をつけること。
陰陽進退 「大森流・5本目」
意義:吾が正面の敵に抜きつけ〔1本目、初発刀の抜きつけと同じ〕たるも不十分。逃げるを追うて上段より斬り倒したるに、別の敵の攻撃し来るを抜き打ちに斬りつけるも不十分。退る敵を追うて上段より斬り下ろし勝の意なり。
動作:正面に向かい正座、正面の人物の害意を察知、正面に向かい、右足を1歩踏み出すと同時に抜きつける。後ろに逃げようとする敵を直ちに追うために、中腰に立ちながら抜きつけた刀を両手に持ち頭上に振りかぶり、左足を大きく1歩踏み出すと同時に上段より斬り下ろす。〔この時の姿勢は、2本目・左刀と同じ〕そのままの位置で刀を右脇横に開いて血振い右膝頭を床に付け納刀しながら左足を静かに右膝頭あたりに引きつける。鍔元6センチ(2寸)くらいまで納刀した時、別の敵より正面攻撃を受ける。素早く立ち上がりながら左足を大きく1歩後方へ退き、横一文字に抜きつけざま敵の退くのを追って大きく振りかぶると同時に右足より前進し、真っ向から斬り下ろす。以下、血振るい、納刀は初発刀と同じ。
流刀 「大森流・6本目」
意義:吾が左側面より不意に頭上に斬りつけてくる敵の刀を左に受け流し、体を右斜め後方に開き敵の体が流れるのを斬る。〔この場合、敵の動作により斬る部位は腰、肩等に分かれる〕
動作:正面に対して右向きに正座する。左横側より害意を察するや、〔次の3つの動作は殆ど同時に行うように心掛ける〕
・首を左に向け相手を確認
・刀柄に右手を掛けるや、左足を一歩踏み出す
・左足を踏み出しながら殆ど水平抜刀に近い具合で刀先が鞘離れした瞬間、右手を十分うえに伸ばす
頭上、僅か前方にて敵の撃ち込んでくる刀を受け流し、体を右斜め後方に開き気味に左旋回すると同時に刀を右肩に取り、敵が前のめりになるところを左足へ右足を引きつける。〔左足、右足と踏み出し〕同時に諸手にて敵の腰部を斬り下ろす。この業は大森流の中で最も機敏な動作を求められる。斬り下ろしの際、左足を強く踏むから「タン、タン」と床音がはじけるように踏みつけ行う。
納刀:1本目から5本目までの血振るい、納刀と異なる。
納刀準備は、左足を後方に一歩大きく引くと同時に右膝付近に刀先を着け、〔上体を正面に向けて腰を十分前に出す。右膝は軽く曲げ、刀先を乗せる感じ〕右手を逆にして柄を握る。左手は鯉口を握り、逆手に柄を持って右手は充分前方肩の高さに保ち、刀を返して刀背を鯉口に持って行き、静かに納刀しながら左膝を床に着けて終る。
順刀 『介錯』「大森流 7本目」
意義:吾が正面、120センチ(4尺位)の位置に左向きの切腹人が座している。その介錯をする意なり。
動作:正面に向かい正座する。顔は正面に向けたまま刀柄に手をかけ、体を静かに右に向け左膝頭を軸にして右足を一歩前に滑らすように踏み出す。ゆっくり厳かに刀を抜きながら立つ。立ち上がるや左足へ右足を運び両足を揃え、刀は右肩上に(適当な位置に担ぐ感じ)左手は下げ姿勢を正す。機を見て頭上に刀を両手で振りかぶり、大きく右足を一歩踏み込みやや左斜めに斬り下ろす。この場合の斬り下ろしは、首の皮一枚残したところで刀を止めると同時に刀を手元に僅かに引き、首の皮一枚を静かに斬り落とす。刀先を膝頭より下げ残心の志を示した後、納刀する。納刀は6本目「流刀」に準じる。
逆刀(付け込み) 大森流・8本目
意義:吾が正面より斬り込み来る敵の刀を大きく一歩後退して外し(敵刀をすりあげる気持ちで)、敵の退く処へ上段より一撃を加えるも不十分。尚も逃れんとするを直ちに追撃して勝の意なり。
動作:正面に向かい正座する。刀柄に手をかけ両足爪立てて腰を上げながら鯉口を切り、敵の動作を注視し右足を左膝頭の処へ踏み出し、左足より一歩大きく後退さすと同時に右足も引き、左足の処で両足を踏み揃えると共に刀を抜き放す(この時、刀の操作は左足を大きく後退しながら左手で握る鯉口を後方に強く引き刀を正面やや前下に抜く。当然一瞬にして刀は鞘離れしており)すかさず右足を左足へ退きながら左肩辺にすり上げる気持ちで上段構えになり(この時点で両足揃えた諸手上段の形になる。次からなる動作は後退する敵を一撃ニ撃と追撃するがため気迫ある敏捷さを気持ちの中に心掛ける)仕損じて退く敵に右足を一歩踏み出し斬りつける(この第一撃の振り下ろす刀先の位置は胸、肩の高さ)不十分のため、逃れんとする敵を上段に振りかぶりながら左、右足と追い、右足が床に付くと同時により強く斬り下ろす(腰位の高さ)。一度、中段に構えると同時に左足を右足に踏み揃える(直立)すかさず右足一歩大きく引きながら上段に構え、充分なる残心の後、静かに上段より刀を下ろしながら右膝を床に付け刀先は床上1尺位まで下ろし止める。
納刀:先に学修した6本目・流刀、7本目・介錯と納刀動作は同じ。ただ違いは6,7本目が立ったまま行うのに対して膝を床に着けたまま行う違いだけである。
・右手を逆手に持ち柄を握る(刀刃は下向き)
・左手は柄より離し(左手を離すや、逆手に持っていた右手首を右に戻すだけで刀刃は上向きになる)鍔の前に手を開き、刀棟「刀背」の中程に掌(手のひら)に当て、右手を静かに右肩の高さまで充分引き、血ぬぐいする。次に左手は鯉口を握り、右手は逆に持ったままの刀を左手で鯉口を握る溝に乗せ、右斜め前に引き、順刀の要領で納刀する。
・右足を左足に引きつけながら立ち上がる。構えを解き左足より元の位置に戻る。
勢中刀(月影)大森流・9本目
意義:吾が右手の片より上段にて仕掛け来る敵の甲手を切り払い後退する敵を追って勝の意なり。
動作:正面に対して左向きに正座する。座る右側より斬り付けて来る敵に、柄を右手にかけると同時に顔を右の敵に向け、左膝頭を軸として右足を右に開き立ち上がりながら(右に回る)右足を一歩力強く踏み出す。同時に上段より斬り下ろさんとする敵の両腕(両手首)を斬り払う(この場合、水平抜刀でなく中心よりやや斜め左上、円を描くように相手の甲手に向けて切り下ろす)敵は後退するので追撃のため腰は伸びきらないように、直ちに右足に左足を引き付け更に右足より大きく一歩踏み込んで逃げんとする敵の正面を素早く上段に振りかぶり真っ向に腰辺りまで斬り下ろす
納刀:血振いの後、一本目・初抜刀の要領による。
尚、この「勢中刀」のみ立ち姿勢のまま血振い、納刀する場合もある。
虎乱刀(追風) 大森流・10本目
意義:前方にある敵、吾の姿を見て逃げんとするを追い討ちにして勝つの意なり。
動作:正面に向かい直立に立ち、敵の姿を認めるや、やや前傾姿勢にて刀柄に手をかけると同時に鯉口を切り、左足を半歩前に踏み出し敵を注視しながら右足を大きく踏み出すと共に初発刀の要領にて胸部を横一文字に抜きつける。
後退する敵を更に左足を踏み出しながら上段に振りかぶり右足を大きく踏み込んで真向へ斬り下ろし、そのまま直立姿勢で血振い。右足に左足を踏み揃え右足を半歩後方に退き納刀。左足に右足を引き付け動作を終える。
注意:上体を前かがみにするのは、足運びを俊敏に追い討ちをたやすくするためためのものであり斬り下ろし後は直立姿勢は常に正しく気をつけること。
4、居合について
居合とは立合いに相対する言葉で、江戸期においては「居相」「居合術」「抜合」「抜剣」「抜刀術」「鞘の中」などとも言われていた。
立合いが両者相対して行われるものであるのに対し、いついかなる方向からの敵の不意の攻撃に対しても臨機応変に対処し、居合わせて敵より一瞬早く抜刀してこれを制す。鞘離れの一刀で勝負を決める自己防御の刀法である。つまり「居ながらにして合わせる刀法」であり、その習得は並大抵のことではない。更にその奥義は「抜かぬ太刀の功名」との諺の如く、刀を抜くことなく勝利を収めることを旨としている。その意義は、一に話し合いよる解決、ならびに平和裏に物事をまとめる意識が肝要であり、二つに日頃の修業を通じて敵に刀を抜かせぬほどの心気を身につけることが必要であり、正にこれこそが世にいう「活人剣」の極意である。
居合の生命は抜きつけの一刀にある。故に、その抜きつけは心気充実全力を注ぎ、鞘放れの横一文字に斬り倒すのである。居合は鞘の中にあり、鞘の内にて勝負は決し、抜いたら倒しているものである。更に、これに真っ向から斬りつける止めの一刀、これがいずれも居合の生命といわれている。
刀を抜かずに勝つ、すなわち抜刀前に気力で敵を圧倒し、鞘放れの一刀で勝ちを制するのが居合の極意である。故に居合は「鞘の中に勝ちがある」という。
しかし、万が一、やむを得ず刀を抜かねばならぬ事態に至っても、後の先を以って敵を倒すべきであり、また、可能ならば機先を制して敵に刀を抜かせずに圧することが肝要である。これを指して「鞘の中」という。
居合道の修業目的は、自己完成にあり居合道修業によって心身を鍛え人格の向上に努め、立派な精神を養い社会に貢献する人間になることである。修業上で最も重要なことは礼儀を重んじることである。
礼は武人特有のものとして、武道には三つの礼がある。それは神前に対し、恩師に対し、同僚に対する礼であり、居合の場合は更に刀に対しても、当然、己を修業(身体、技術、精神)する礼として頭を下げ、四つの礼となる。むろん、武道には厳然たる正しい礼法作法があります。しかし、作法は知らなくても恥とはなりません。知らないことは日々学修していけば自ずと身についてきます。この礼法を常に真心を込めて行うことである。真心のこもった「よろしくお願いします」と丁重な礼はとても爽やかで気分のよいものです。それが姿勢態度に現れ処世道にも通じることにもなる。また、技は正確に強く大きく行うことで、正座の大森流の基本技として時間をかけて修業することが肝要である。
5、居合い修業上の留意点について
@ 正しい礼儀、態度で行うこと。
A 周到な準備と細心の注意をもって行うこと。
B 常に正しい姿勢を保つこと。
C 呼吸の調節に注意を払うこと。
D 太刀を詳細に点検すること。
E 精神統一を心掛けて行うこと。
F 気力を充実させて行うこと。
G 常に真剣味を失わないこと。
H 道場の規則、師の教えを守ること。
I 欠点は早く矯正するよう心掛け、目標を定めて常に向上心を持って行うこと。
古来より、「技から技に移る間は3呼吸」と言われている。
3度目の息を吸い終わる頃に刀を抜き始め技が終わるまで息を止め、納刀が終わると同時に軽く吐き出す。技の途中で呼吸をすることは全体のまとまりを欠く結果となるのでやるべきではない。
居合は常に油断のない心を養うことが大切であり、そうした稽古を積むことにより隙のない心構えが養われる。一動作ごとに油断なく真剣に始めの抜きつけから納刀に至るまで気をゆるめず、全身に心気充満していることが肝要である。一人の敵を倒して安堵していては他の敵にしてやられる。終始一貫、心技体ともに充実していることが肝要である。
さて、「目は口ほどに物を言い」とか「目は心の窓」とも言われるように、目は大変重要な働きをする。初対面の場合、目の働き一つが名刺代わりともなり、その人の人物評価を左右しかねない。古くから武人は「目付け」「目線」と常に目の付けどころを重要視し大切にした。
居合の目付けとは目の付けどころのことで、古くから多くの方法が編み出され、その方法は時と場合によって使い分けられ、羽賀準一師からは10の目付けを示された。
古い武士道の根幹をなすのが剣術、技術の訓練、兵法の修練であったといえる。刀と刀の命を賭けての戦いは死に物狂いで頭に血が上り、正に錯乱状態で日頃の業の十分の一も使えないのが実戦である。それゆえ武人は技の鍛錬と共に相手の動きを監察する心の「目付け」の鍛え方にも重点をおき、相手の目の動きを読み、初期初動一瞬にして勝負を決めることを最大の眼目としたのである。
6、10の目付けについて
@ 二星の目付け:行動意志はまず目に現れるので両目の動きに注視のこと。
A 谷の目付け :目を中心とした顔面(表情)全体の動きに注視のこと。
B 二つの目付け:初動の起こりは刀と切り先と柄を握る拳に現れることから、2点に注意のこと。
C 楓の目付け :「二つの目付け」のうちでも、拳は楓の目付けという。
D 気の目付け :「神気の目付け」ともいい、意の初発動には拳とともに奥歯を噛み締める顎の洞察「気」に注視のこと。
E 蛙の目付け :肩には力の入れ具合や凝りが現れやすいので、それらを見逃すな。
F 遠山の目付け:遠くの山を見るが如く、相手の構え全体を見ることを言う。
G 鳥見の目付け:複数の相手と対峙する時、瞬時に全体の動きと構えを見回す。
ただし、背後や特殊な技以外には首を振らず、落とし目、流し目を良しとする。
H 有無の目付け:ここまで来ると既に達人の域に達する。
相手の全体(構え、呼吸、気)を一見し心底を見抜くこと。
I 鶴見ニつの目付け:必要なる諸目付けを注目して観(正面の相手の目を正視したまま)
他方、周りの相手の動きを自然に目に入れるように見ることをいう。
目の付けどころは、おおよそ270センチ(9尺)先方の床とする。しかし、八方に心眼を注ぎ遠山を望む気持ちになることである。剣道にも「見る目弱く、観る目強く」とあるように半眼に目を開き心の目で観ることである。動作中は対敵約180センチ(6尺)、斬り下ろした際は敵を見越した地点とする。なお目は半眼のあるのを常とする。
間合いとは、我と彼の距離である。剣道では一足一刀の間としているが、居合の場合は「腰の一刀が鞘放れ斬りつける間」である。剣道の遠間に比べて居合は近間であり、敵を誘引し適当な間に至った時に腰の捻転により抜きつけ倒すもので、その間合いは各自修練によって自ら自得するものである。
居合道と剣道の関係については、居合は剣道の奥の院ともいわれ、表裏一体・車の両輪であって、その本体の目的は同一である。剣道は相互に構えあっての勝負であるが、居合は居ながらにして合わすの術であるから、いついかなる場合、いかなる場所においても対処する。その相手は仮想敵である。また、剣道は打ち合いの技であるのに対し、居合は斬り落としの術であるゆえ、おのずとその手の内は異なる。
居合における、守・破・離について述べる。
守とは、名人・大家・師の教えを忠実に守って修業することをいい、即ち全てのことを学ぶ上での基礎の時代をいう。
破とは、ある程度の修業が出来た後に自分の力や工夫によって、守を破る時代をいう。
離とは、苦心研鑚して独自の境地を見出し、一流を立てることである。即ち、守・破の時代よりも一段と進歩した時をいうのであって、この教えは居合道のみに止まらず、人生における生き方の全てに同様のことがいいうるのである。
7、武士道について(その1)
第2次大戦後50数年間に幾度か文化的な復古調の波があり、最近「武士道」「剣術」などの活字を目にすることが多い。書店、図書館には多くの解説書、専門書があり、昔と違い知識を得ることにことかかない。
「武士道」ひとつにしろ、侍社会から生まれ、成長する社会様式、精神内容、武士道完成までの長い成立過程がことこまかく興味深く記されている。
いつの世にも人が暮らしていくには社会秩序の根源とも言われる「道理、道徳」規律規則の規範がある。人がこの規範を習慣的に身につけていれば、一般的に社会秩序維持だけの規範はあまり必要としない。しかし、人間本来の欲望本能は倫理行動、思想内容の違いとなって現れ、しばしば既存規範と衝突する。
さて、「武士道」という言葉が頻繁に用いられ始められるのは江戸時代中期以降〔享保年間、丁度、長谷川英信が享保隋一の剣客と記され、英信流居合術を確立した年代〕といわれ、当時、小幡景憲の「甲陽軍艦」、貝原益軒の「武訓」を始めとして武士道論が盛んに説かれ、また正しい武士道を探求する優れた儒者がこの時代〔寛文から享保年間、1660−1730〕に多く出た。とりわけ、それら数ある著書の中で今日まで武士道の聖書として有名なのが次の2冊である。すなわち、山本常朝が著した『葉隠』と大道寺友山が著した『武道初心集』である。
山本常朝の『葉隠』は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の記述の如く、忠孝を最高目標とし、勇の武士魂を持つ武士像を理想の武士とした激情型「死の覚悟」を前提規範としたのに対し、大道寺友山の『武道初心集』は穏健派としての「儒教武士道」であった。
私たちが「武士道」を語るとき、基本的に「正義と道理」に生きる武士たるもの、すなわち聖人なるイメージを持っている。ところが、この時代、筆を揃えて「正しい武士道とはかくあるべき」と武士再教育用の教科書を世に多く出した。逆説的に見れば戦国、江戸初期の過熱した武士道の規範、諸徳性が大いに損なわれ乱れてきたからに他ならない。本来、武士階級層は戦場で戦う武術を売り物に武功・手柄を飯の種にしてきた。頭のほうは多少問題があっても強力な肉体と戦闘力を持ち合わせていれば栄進できた。しかし、幕藩体制が固まり泰平の世ともなれば武芸のみの武骨者は疎んじられるご時世となった。
平和時において武士層の中の「下級武士層」の不平、不満から武士として生きようとすれば当然先行き置かれる地位、役割に強い不安・疑いを持つこととなる。規範の乱れ、退廃は封建支配体制維持の幕府、各藩の支配層である「上級武士層」にとっては頭の痛い問題となってきた。
そのような世情の中、不平不満武士を対象に武士は今や3民の上にたつ指導階級であり、今一度、武士道の在り方、その精神規範の確立を急務とし、その使命をにない多くの優れた武士道論書が世に多く出されたと言えよう。
8、武士道について(その2)
葉隠武士と穏健派武士
武士道の歴史、研究論書はいくつもあり、江戸中期に入り平和時に変質していくなかで江戸武士道は2系譜に別れていく。すなわち仲江藤樹、熊沢蕃山、貝原益軒等の著名儒学者の説く泰平の世にふさわしい、仁・義・礼・知・信の儒学五常を主体とする学者によって机上理論付けされ、忠孝を最高目標とし来るときに備え、常日頃から一切の俗念を断ち、人品骨柄清く生涯一度は実のある大手柄を挙げる。これを「穏健派武士道」という。
一方、これらの士道徳性と真っ向から対立し源平依頼の合戦に武勇を本業としてきた武士道は、「親死に子討たれど顧みず」武勇の前には死ぬと言い切る実践体験から生まれた信念の士道徳であり、「葉隠武士道」という。口述者・山本常朝の『葉隠聞書』は次のような迫力ある書き出しから始まる。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。〜 」いかにも穏健派を腑抜け侍士道と説き、「犬死に、気違いと言われてもかまわない。とにかく早く死ぬことに武士道の意義がある」と常に「死の覚悟」を前面に打ち出していたのが「葉隠武士道」であった。
9、切腹と介錯について
まず、古くから侍社会には合戦に敗れ、捕まり首を刎ねられる恥辱を受ける前に最後まで己の武勇、威を表し示すため、自ら命を絶つ「切腹」という行為があり、「介錯」行為はそれから後のものである。
「切腹」については『太平記』巻之七、「軍事の条」に村上善光が戦いに敗れ自決する際、
「唯今、自害する有様見置て、汝等が武運遂に尽きて腹を切らんとする時の手本にせよ、云々…」とある。合戦に臨み、敗れた側の侍(武将)は今を限りの瀬戸際に立つ時、前後不覚に取り乱し見苦しい最後を遂げるのは臆病武士の物笑いとなる。いずれの時か捨てる身命ならば勇者たるその振る舞い潔しとし、敵味方の耳目を驚かせ子々孫々にまで名誉を残してこそ侍の本意と自ら腹を切り自決したものであり、それ以降の時代の合戦においても勇者の最後は同じであった。後に戦場以外での切腹が行われるのは安土桃山時代以降から多くなる。練死、殉死、あるいは不始末の責任上の罰として「切腹」が行われるようになり「介錯人」を必要とした。
「介錯」については『剣法略記』巻之二に「介しゃくといふは、何ごとにも人のたすけをしてことあつかふこと、云々…」とある。つまり介抱するという意味から苦痛を早く取り除いてやるため手助けに斬首することをいい、これを行う人を介錯人といった。
江戸時代には短刀の替わりに扇子に白紙を巻いたのを三宝に乗せ、切腹人が前に置かれた三宝台から作法上扇子を取ろうと前かがみに首筋が伸びた時、刀を斬り下ろした。切腹に際し首を斬り落としてしまうと首が飛んで血が四散するので喉部の皮を残して刀を止めた後、静かに引ききり切腹人の膝に首が落ちるのを上手な作法とした。いずれにせよ、刀で人と斬り合う合戦など体験すらもない初めての介錯人は、極度の緊張感と人を斬るという恐怖心で、中にはうろたえ機を逸し、あるいは斬り損ない、血を見てますます逆上し収拾のつかない殺戮行為ともなりかねず、各藩は介錯人にその心得よくある者を命じた。
介錯について2、3の例を挙げると、尾張藩の柳生連也斎が藩主・義直の死去に殉死した。また、寺尾直正の介錯を行い首皮一枚残す太刀捌きに驚き、神業と褒め称えたとか、家光将軍の死に際して側近の内田正信以下3名、老中・堀田正盛、阿部重次の殉死の介錯をしたのが当時将軍家指南役を務めていた柳生、小野両派の介錯人であった。
10、真剣による試し切りについて
試し斬りは畳表を巻いて水で湿らせたものを台の上に立たせ袈裟がけに斬り落とすものである。最初、抜刀術を学んでいる練習生4人が模範演技を披露した。最初の人は女性で畳表を3枚巻いたものを気合もろとも見事に斬りおとした。次の人も女性で1枚巻いたものを斬りおとした。次はいよいよ5枚巻きであった。2人が模範斬りを行い、1人は見事に斬りおとし、1人はもう少しで斬りおとすところだったが少し足りなかった。4人の模範演技を真近かにみているとその日本刀の輝きと斬れ味に背筋が凍るような気持ちになった。模範演技が終了するといよいよ私たちの番である。
館長の指導のもと私たちは2班に分かれ順番に1巻きの藁束を斬りおとす。日本刀を上段に構え刀身の半ばが藁束に当たるように立って斜めに切下ろし、切下ろしたあとは刀身で自分の膝を切らないように刀の柄が腰に着くようにする。
真剣で物を斬るのは初めての体験である。どのくらいの力を入れていいのか全く判らないが、とにかくやってみることにした。私は2番目であった。2度3度素振りを行った後、上段に構え斜めに切下ろしたが、私の立つ位置と藁束の距離が遠すぎ、切っ先が抜けても藁束を斬りおとすことが出来なかった。距離が20cm近ければ完全に斬りおとすことが出来ただろうと思った。刀身の中央を斬る対象に当てる距離は自分が考えていた距離よりも随分近いことを実感した。それにしても日本刀に切れ味は凄いものだと実感した。
試し斬りが終了した後、30分ほど館長から「抜刀術の心得」についての話があり、渡されたプリントには次のように記されている。
心得 一刀萬里に遍ず
人は、真剣を以って所作(据物斬)をする中で多くのことに気付かされるものであります。
据物を見るに、見入るは心居付きて剣鈍る。残心に陰ありて悪ろし。中心(斬るものの山を言うなり)を認識は、観るに通じて剣に生あり。観るに口伝あり。
終始、強く剣を握るは打ち強かれども良く斬れず、打なる中に強く落とし引き握るを良しとする。打斬る術に口伝あり。
呼吸は、あって無きが如く浅く永きを良しとする。その程口伝あり。
気合は、所作に同化せずに瞬に発するを良しとする。間髪のことにして秘伝あり。
刀筋は、構えによって変わるものと心得ること肝要なり。気配に口伝あり。
間合いは、物打ち深き処を以って斬る心程にして常に中心で斬ること肝要なり。中心に幅あり質あり。
館長の話は内容の濃いものであった。日本刀の構造と物体を斬る瞬間の動きの関係を解説するのだか、斬るという行為を力学上の問題として捉え、人間と刀と対象を一つの流れの連続体とし、力の入れ具合、引き具合をS字の波と表現し実際に斬る様を見せてくれたが、確かに物体を斬り倒す力強い流れであった。
11、日本刀について
優れた日本刀の斬れ味は、その表現に「水もたまらない」といい、使い手はおろか見る人々をも驚かす大変な斬れ味である。武術の中、居合、試し斬り、剣道形において日本刀は欠かせることの出来ないものです。
古来、日本人は農耕、土木、建築、その他の生活文化に独自の創意工夫された高い技術を生み編み出してきた。世界各国に刀剣類が数多くある中で、何故、各国の刀職人が真似の出来ない優れた刀を日本人が作り出しえたのか。それは鉄を扱う優れた技術、技巧の知恵が欧米人を驚かせ世界最高の刀を作り上げた日本独特の技法にあった。
西暦754年、遣唐使の吉備真備が孫子の兵書と共に中国から優れた武器用具を持ち帰り、まだ幼稚の域をでなかった戦闘武器類、刀剣類も徐々に改良が加えられていった。
まず刀の原料は鋼鉄である。しかし、刀を造るという創作目的のためには、この硬いシロノモを自由自在に扱えるようにドロドロに溶かす高熱を出せる材料が欠かせない。科学的に分析すれば、鉄の溶解点は1800度の高温度とされる。ヨーロッパ各地では古くから石炭コークスを活用しており、1800度以上の高熱量を生み出すコークスを用い不純物の少ない純度の高い鋼鉄を手にすることができた。それぞれ目的用途の鋳型に溶鉄を鯛焼器のように鋳型に流し込み磨き上げて刀は完成した。
ところが当時の日本にはコークス等なく熱量として用いていたのは木炭類しかなく、木炭はいくら酸素をつぎ込んでも1000〜1200度くらいが精一杯で、とても鉄を溶かしきるところまでいかなかった。しかし、そのような中で低熱量の中で溶けることを拒み続ける鉄を試行錯誤のたゆまざる努力と英知で遂には世界最高の刀剣である日本刀を誕生させたのであった。
刀のもととなる素材は玉鋼である。玉鋼は砂鉄粉、石英粉、木炭粉を交互に重ね合わせ「たたら」を使い溶鉱炉の中にいれ、竃で御飯を炊く要領で素材が飴状に溶けるまで日夜数日間燃やし続ける。当然、熱度が低いため不純物は燃焼されず出来上がった飴状の銑鉄には未だ多く含まれている。その銑鉄を更に石英、木炭粉を加え同行程を繰り返し、冷まして固めた物を玉鋼という。ところがこの玉鋼は炭素分を多く含み柔軟性に乏しく脆い欠点があった。そこで玉鋼を今一度火の中に突き込み赤く焼けたところを「トンテンカン、トンテンカン」と叩き、徐々に刀の芯となる主体形になるまで精魂込めて叩き鍛え上げていくのである。しかしこの段階で磨き研ぎ上げてもまだ刀としては不十分である。そこで先人たちが考え出した技巧は刀刃の部分だけ裸で残し、刀身全体を粘土で覆い火の中に入れ、取り出すや否や今度は一気に水の中に漬け込むという所謂焼入れの技術を考え出した。焼けて硬い鋼鉄刃は一気に冷やす行程により収縮し更に密度の濃い非常に良質の刃物を生み出しただけでなく、その1本の刀(鋼鉄)の中に秘められたメカニックは粘土を塗った刀身部は折れにくい軟らかさを持ち、一方、刃はカミソリのように鋭く薄いうえに硬く大変な強度をあわせもちあわせている。化学分析のみでは解くことの出来ない技法を我々の先人は1000年以前に考え作り出したのであり、欧米人ならずとも正に驚きである。
刀造りにおいて熟練業と水の温度が重要なことは言うまでもない。水の温度が冷たければ凝縮比が高くヒビが出来やすく、また温度が高いと収縮比が低く必要とする硬度が得られない。先人たちはなによりも水の温度を秘伝とし大切にしてきた。それだけに刀鍛冶の歩んだ歴史の中には数多くの先人たちの苦難、苦労、喜悲劇の逸話が残されている。一例をあげるなら、いち早く一人前の刀鍛冶になろうと師匠の秘伝とする門外不出の水に手を入れ温度を体感し、味合う手首を水から上げた瞬間に師匠からその手首を斬りおとされた話や当時すでに鍛冶部落に多くの鍛冶職人を集め(700人を越えたこともあるという)分業による流れ作業の大量生産方式も採用され、関が原の戦いなど両軍合わせて20数万以上の兵隊が刀を差していたのであるから、出来上がった刀は鞘に入りさえすればいいという粗製乱造品があっても不思議ではなかった。
刀は敵を倒し我が身を守るものであり、なによりも折れにくく斬れることが第1である。いくら銘ある刀とて一撃で折れるのでは弾の出ない鉄砲同様に武器としての意味はない。それゆえ戦場で刃を交えるたびに刃毀れし切味が鈍る。勇猛果敢な武将は常に数本の刀を用意し取っ換えひっ換え戦ったという。