熊野三山詣
熊野三山の奥宮である玉置神社
2016年8月18日、7泊8日にわたる大峯奥駈道縦走を無事に終えたあと、熊野本宮大社、熊野速玉新宮大社、熊野那智大社の熊野三山詣を行った。私が熊野三山詣を行うのは約40年ぶりである。熊野三山詣は奈良時代に起こった熊野権現信仰に基づくもので、神社に祀られている神々はそのままでは俗世に姿を現すことができないので、仮(権)に仏に姿を変えて現れることを「権現」と説かれたという。そこから権現信仰が広まっていくのだが、その結果、熊野本宮大社に祀られている熊野夫須美大神は千手観音に、熊野新宮大社に祀られている熊野速玉大神は薬師如来に、熊野那智大社に祀られている家津美御子大神は阿弥陀如来として現れ、滅罪と人生の蘇りを求めて多くの信仰者が熊野三山詣として訪れているという。その奥宮として熊野の山奥に玉置神社が祀られている。
前日の縦走出発点が玉置神社であり、終了点が熊野本宮大社だったため、18日は熊野本宮大社には向かわず以前本宮大社が建っていた大斎原に向かった。本宮大社から歩いて5分ほどの熊野川沿いにこんもりとした森がある。1889年(明治22年)の熊野川の大氾濫により本宮大社の中4社、下4社が流され、流失を免がれた上4社が2年後の1891年に現在の位置に遷宮されたとのことで、昔の本宮大社はこんもりとした森がある場所に建っていたという。森の入口に日本一と言われている大鳥居が建っている。鳥居までは一直線の参道が整備されており、両側は田んぼだった。育った稲穂が微風に揺れていた。鳥居の足元に立って見上げた中央には金色の八咫烏紋が印されていた。
熊野本宮大社旧社地の大斎原
私は朝6時ころに大斎原にいたので観光客もおらず、散歩をされている地元の方に出会ったので挨拶を行った。大斎原は河原の堤防からは50mほど離れており、前日に熊野川を歩いて渡った時も水流は少なく、とても神社自体を押し流すような濁流が襲ったとは考えづらいものだった。
大斎原にお参りした後は熊野交通バスに乗って新宮市に建っている熊野速玉新宮大社に向かった。丁度、高校生の通学時間帯と重なり、男女3人ずつの高校生が乗ってきた。バスは熊野川沿いを新宮市に向かって下っていくわけだが、熊野川の幅や深みが増しているのが車窓から見て取れた。昔は本宮大社前から川舟に乗って新宮大社に向かったとのことなので、熊野川の水量も多かったのだろう。バスに乗って約1時間で権現前バス停に着いた。
バス停から歩いて5分で熊野速玉大社に着いた。ここでも朝まだ早い時間帯のため観光客の姿は少なかったが、私と同じようなザックを担いだ若者2名が神社の掲示板に書かれている文章を丁寧に読んでいる姿が印象的であった。熊野速玉新宮大社は朱色に塗られた綺麗な神社だった。
熊野速玉大社
お札を販売しているところが開いていたので、巫女さんから扇子と御祈祷神符を買い求めた。神社の境内で、おばちゃんが餡子餅を売っていたので妻へのお土産として一箱買った。今朝作ったばかりなので3日間は柔らかいままだと言った。
権現前から熊野那智大社に向かうためにバスに乗り那智駅に行った。35年ほど前の電電公社時代には研修施設として三重県白子市に鈴鹿学園があり、その研修に入ったころに那智駅までやってきて駅近くの那智海水浴場で泳ぎ、海の中から那智駅が眺められたことを思い出した。私は一人で海水浴場にやってきて泳いでいたが海水浴客は非常に少なかったことも思い出された。
熊野那智大社
那智駅からバスに乗り終点の那智山で降りた。そこから長い石段を登りつめた所に熊野那智大社が建っている。那智というと1番に思い浮かべるのは日本一の大滝である那智の滝であり、2番目には青岸渡寺の朱色に塗られた3重の塔と滝のコラボレーションが浮かび、熊野那智大社は影が薄いように感じられる。それでも観光客は大勢見られた。拝殿前で写真を写そうとセルフタイマーをセットしていると、50代と思われた男性外国人が「何か私でお手伝いできることがありますか?」と英語で訊ねてきた。シャッターを押してあげますよ、という意思表示だったので、「サンキュー!」と答えて、ありがたくシャッターを押してもらった。
熊野三山詣を終えた後は、日帰り熊野温泉に入浴し、マグロ丼を2か所で食べ、夜行バスの発車する紀伊勝浦港の魚介類専門販売店の食堂で、ひめ貝のお造りと焼き物を肴に地酒を飲んだ。更に店を変えてマグロのお造り、マグロの胃袋のトマト煮、亀の手を肴に地酒を飲んだ。満足・満足の熊野三山詣だった。