辛夷の花

                             岩井 淑

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春を告げる花・辛夷

 

親父が死んだ。

 

ライフスコープに映し出されていた心臓の鼓動曲線が一直線になった。

1998年3月21日、午前3時20分。

群馬大学附属病院西第3病棟5階15号室。

臨終に立ち会ったのはお袋と私と弟の3人だった。

 

親父さんは静かに旅たっていった。

肝臓癌だった。

3月4日に再入院した時には病状悪化のため手術は出来なかった。

それから17日で.旅たっていった。

 

親父さんは花が好きな人だった。

入院していた群馬大学付属病院の庭に咲く辛夷の花が満開だった。

辛夷は里山で春の訪れとともに最初こ咲く花である。

冬の北風の中で若芽を準備し.暖かい春風とともに柔らかい花を開く。

自らを冬の風にあたる如く厳しく律し.相手にたいしては春風の如く柔らかく接する。

親父さんは辛夷の花のような人だった。

 

親父さんは正直な人だった。

心の温かな人だった。

心の優しい人だった。

そして穏やかな人だった。

 

親父さんの心根を子どもである私たちや孫たちが受け継いでいくことが.親父さんへの一番の供養となるだろう。

私はそのようなことを.通夜、葬儀、告別式という時間の流れのなかで考えていた。

 

 

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新緑の妙義山(春・4月)

 

親父が死んだ日

                                          岩井 淑

 

1998年3月21日

この日.親父は死んだ。私が生きているかぎり.決して忘れることのない日となった。

 前日の320日.幕張テクノビルで新設備導入のための説明会に出席していた。11時過ぎに電話の取次ぎが入り職場へ連絡を取ると.「群馬のお父さんが危篤になった、との伝言がありました」と伝えられた。

 一瞬、 エッ?!

と耳を疑ったがある面ではついに釆たか、という感じだった。

すぐに一緒に説明会に出席していた同僚に.親父が危篤になった旨を伝え.午後の予定をキャンセルし.妻にすぐ家に帰るよう連絡したが.公衆電話からの声がうわずっているのを感じた。

 帰宅途中で学童保育所に寄り子どもたちを連れて帰ろうとすると.大はすでに妻が連れ帰ったとのこと。愛がまだ帰っていないので通学路を通りながら帰宅する途中、校門の前で出会うことができ一緒に帰宅した。

すぐに群馬へ帰る準備をし、高速道路を飛ばし親父が入院している群馬大学病院に到着したのは午後5時前だった。庭に咲く辛夷の純白の柔らかな花が目に飛び込んだ。

 

 すでに親父は言葉を発することは出来なかった。ライフスコープの脈拍数や呼吸曲線、心臓の鼓動曲線は乱れることなく流れていたが、愛や大が耳元で呼びかけても.それに対する反応はなかった。当然のこととして手を握ると.親父はもう握り返してはこないが.そこには暖かい温もりの手があった。危篤とはいえ、このまま死んでいってしまうのだろうか、と現実の進行と切り離されたような自分がいた。私の意識は妙に覚めていたように感じる。

 午前中に血圧が急速に低下し.500ccの輸血を実施したことにより.ようやく持ち直した状況の時に.私らが病院に到着したとのことだった。延命措置を取らないことを親父自身が望んでいたのだが.親父が息をしているうちに長男の私が会えるようにとの意味から.あえて一度だけ輸血を医師にお願いしたとのことだった。

 

 医師からは「状態は今晩か、もっても明日いっぱい」との説明を受けているとのことなのでお袋と私と弟が病室に泊まり込むこととなった。お袋は前夜、親父が大量に喀血した対応で殆ど眠ることが出来なかったと聞いたので枕元の椅子で私が起きていることにした。

 看護婦は1時間おきに体温や血圧や尿のデータを採りに廻ってくる。ライフスコープのモニターはナースセンターからも見ることが出来るようになっているとのことで私がモニターを見ながら.血圧が低下したかな.などと感じていると直ぐにやって釆て.対処していくのである。担当医師が2人臨時に泊まり込んでくれていた。

 

 230分、胃の出血を鼻から差し込まれているチューブから太い注射器で3本分抜き取り.胃の洗浄を終えた後、血圧は60台へと低下し.再び上昇することはなかった。

 3時前に医師から.

「最後の場に立ち会う方を呼ばれますか?」

と質問を受けたが

「ここにいる3人で結構です」

と答えた。

 310分過ぎには主治医も姿を現し待機している。

主治医が懐中電灯の光に対する瞳孔の反応やライフスコープの心臓鼓動曲線を確認し、静かに「午前320分、ご臨終です」と告げたのだった。

 

 私は親父の手を握っていたが、暖かい手をしていた。私は肉親の死に直面するのはもの心ついてから初めてである。これが死なのか、もう親父とは永遠に言葉を交わすことが断ち切られたのか。さまざまなことが頭に浮かぶのだが、なぜか涙は出なかった。病室の後片付けを終え、看護婦は親父の身体を清め.着物を着替えさせてくれた。

 450分、家に帰っていた妹に、「親父が亡くなったので.530分頃に家に帰るから電気を点けておいて。その時刻では.もう明るくなっているかなぁ・・・」と伝える。

 

 死体搬送車を私の車と弟の車でサンドイッチ状態にし、弟の車の先導で帰宅した。スピードを出さずにゆっくりと走っているために.3台の車の最後を走る私は交差点の赤信号を度々無視する形となったが早朝のため.なんのトラブルもなく自宅へ到着した。その日のうちの通夜、次の日の葬儀はアッというまに終わった。

 

 親父が34日に入院してから亡くなるまでの間に.土日のたびに幕張から車を飛ばして家族で見舞いに行った。親父が独り言のように.「いつまで生きられるのかなぁ・・」と呟くのを聞いた。肝臓癌の末期だとは言えなかった。親父は医師から肝臓癌であることを告げられていたから.自分の病気については知っていた。しかし.病状の進み具合については告げられていなかったが、自分の体調の変化により死期についてはうすうす感づいていたように思う。

 見舞いに行くたびに親父の握手をする手の力が弱くなっていくのを感じた。髭も自分では剃ることもしなくなったので電気剃刀で2度剃ってやったが気持ちよさそうだった。

 

 地球上に存在するあらゆる生物は誕生の瞬間から死へ向かっての歩みを始める。このことはまぎれもない事実であり.どの生物にも必ず死は訪れ避けることは出来ない。日常の生活においては「死」を考えることはないが、身近な人の死を体験することにより.死について考える機会が与えられる。「死」を考えることは、とりもなおさず「生」を考えることでもある。死によって生命体はピリオドをうつが.どういう死に方をするかは、どういう生き方をしたのかの裏返しであると思う。私は現在49才である。漠然だが.あと30年くらいは生きるだろうと感じている。その30年をどう生きるのかを考える機会を親父が与えてくれたように思う。

                                        

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早春の花・辛夷

 

告別式での群馬県議会議員・中山治秀さんからの弔辞

弔 辞

 

慎みて 故 岩井清様のご逝去を悼み.お別れの言葉を申し上げます。

私が

西横野小学校の先輩である岩井さんのことを強く意識したのは学生服姿も凛々しく松井田駅であった岩井さんのみるからに向学心に燃えたあのお姿でありました。

 岩井さんは現在の信州大学で知られる上田市にある国立上田高等蚕糸学校に通っておられました。その頃私は高崎高校に名称変更になった旧制高崎中学に通っておりましたが、上田蚕糸は私たちの目ざす目標のひとつであり.後に私の同級生も二人この学校に受かりました。そしてこのうちひとりは大昭和製糸の重役となり.もうひとりは高校の先生になりました。

 

この国立名門校の制服制帽姿の岩井さんが突然松井田駅におられたのですから.その印象は鮮烈であり.今でも眼の中に焼きついておりますが現在の時点で言えば高校を飛びぬけて.中学卒の独学で信州大に入学したわけでありました。

 この時世界は太平洋戦争のさなかであり.欧米列強を相手に日本の戦況は次第に敗色が濃くなり.学生達は卒業を待たず学徒動員で出陣し岩井さんも士官候補として幹部候補生の軍人としての兵役に加わりました。

 そして.昭和二十年、岩井さんは兵役も途中の下士官になったところで終戦となり.間もなく帰郷し.帰郷後再び学校に通って卒業なされました。

 

岩井さんが卒業なされた時は敗戦国日本の東京は焼野ケ原、重化学工場は閉鎖、物資は不足で特に食料難という誠に厳しい.私達にとっても苦しい青春の時代でありました。

 それでも.耕す畑も無く.木を切る山も無い人は何とか会社員や公務員の道をみつけて働かざるをえませんでしたが、岩井さんのお宅は二町歩近くの豊かな農地を持ち.岩井さんが八才の時に奥さんを失った長吉さんが、おばあさんのちょうさんと共に農業を営んでおられたので、親孝行で家庭的な岩井さんは自然と農業を継ぐことになられました。

 

今も尚、地球上には戦火はたえず戦争は人間の運命を水の上の木の葉のようにもてあそびますが、岩井さんにとって農業を継がれたことが幸か不幸かわかりませんが.戦争が岩井さんの運命を決定づけたのはいなめない事実と思えてなりません。

 そして.その後、私と岩井清さんご一家とのご縁は ご次男の久芳さんと三番めで長女の孝江さんと.教員と生徒の立場でめぐりあい.PTAでは奥さんの吟子さんにおせわになり.南中の近くの桑園で手入れをする清さんとも語り合う機会もありました。

 お話する度毎に岩井さんの秘めている教養の深さには敬服するばかりでありましたが、私をはじめ多くの男達が家庭を二の次に.外の社会に向かってばかりいる者共の中にあって.岩井さんの眼は常に家族や家庭や己の内面に向かっているように思われました。

 

岩井さんの子供さんは私の知るかぎり.どなたも礼儀正しく.人情に厚いように思われます。私が正月に新年のご挨拶にまわると.寒い中に毎年外で待っていてくれるのも岩井さんご一家です。私の二度の選挙事務所はお近くの新井昭二さんにおせわになって烏留に設けましたが、その時もご家族の皆さんには献身的に裏方の仕事をして頂きまして有り難うございました。

 岩井清さんの烏留での地域へのご参加は納税組合長や統計調査員.農協の火災共済の係と丹念なご努力と金銭に正直なことが必要な役職を長く続けられたようであり.その意味においては町も大変お世話になりましたが、このことも地味で内面的な心の探さや辛抱強かと思っております。

 外にばかり眼を向けてきた私のような者には、真の岩井さんの偉大さ計り知ることが出来ず残念でありますが、素晴らしい奥さんと共に過ごされた五十年近くを或る意味では宗教家のように敬虔で謙虚で誠実な真の人間としての人間愛、自然への愛に満ちたいぶし銀のように光り輝く人生と思えてまいります。

 

岩井清さん、永い間おせわになり.有り難うございました。

 岩井家の皆さんはNTT営業部にご勤務なされるご長男淑さんと地元で信越化学の社員であるお二人とも良い職場にめぐまれておられるようでありますがお孫さんの代になってもおじいさんのご努力を見習って.益々ご繁栄下さることを念じてやみません。

 今、上越の山々にみる残雪も次第に少なくなってまいりました。

めぐりくる春を待たず逝った先輩にせめて今ひとたびの春の花をとの思いは私ばかりではないと思います。

 心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

                                平成十年三月二十二日

                                   群馬県議会議員

                                    中山 治秀

 

 

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金 婚 式

メッセージ

金婚式のお祝いでの家族の寄せ書き

 

 親父さんとお袋さんの結婚50年(金婚式)をお祝いする宴が割烹・大吉で開かれた。

2月14日のことである。

ささやかな宴であったが3人の子どもとその家族、親父さんの妹夫婦と子ども.それにお袋さんの姉さんの子ども夫婦が出席した。

 次男の久芳の司会で宴は進行する。

昭和23年1月25日.園田喜三郎夫妻の媒酌により結婚

昭和23年11月.長男誕生

昭和25年 6月.次男誕生

昭和27年 7月.長女誕生

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    ・

 2時間にわたっての和やかな宴の中でお祝いの色紙にひとことずつのメッセージが書きこまれ、午後8時にお開きとなった。この数日前から.親父さんは歯痛、腹痛にさいなまされていた。今から考えると親父さんの身体は病魔に急速にむしばまれていたことになる。

 

 翌、2月15日は大雪であった。

記念写真を「武者フォトスタジオ」で撮るため車3台に分乗しスタジオに出向く。最初に親父さんとお袋さんの夫婦写真を撮り.次に家族写真を撮る。12人家族ともなるとシャッターが切られる瞬間に必ず一人や二人が瞬きのために.目をつぶるものなのでそれを考慮しシャッターは何回も切られた。

 記念写真というのは一種の儀式であり.緊張の中にも一人ひとりの心の中にその意義を記憶させていく。10分程で2枚の写真撮影は終了した。人の生命とは分からないものである。親父さんは記念写真撮影から半月後に再入院し.入院後17日で帰らぬ人となってしまったのである。この2枚の写真が親父さんにとっては最後の写真となったわけである。

 

家族写真(金婚式)

親父さんの最後の写真(1998.2.15)

 

「結婚してから50年を祝う金婚式に夫婦そろって長生きしていることは非常に珍しいことなので私たちもそれにあやかりたいと思います。親父さんとお袋さんに乾杯!」

と.祝う宴で音頭をとった余韻がまだ残っている状態である。

親父さんは人生の節目としての金婚式と自分の父親である長吉さんの50回忌供養を済ませ、安心したかのように一気に去っていったのである。

 

 

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四十九日法要

 

辛夷の花

岩井清・追悼集

 

 月日の流れは速いもので、あっというまに四十九日法要を迎えた。

 四十九日法要については三十五日から四十九日までの間で.三月にまたがってはならないということなので.住職と家族のスケジュールの関係で4月25日に執り行うことになった。

真言宗豊山派・不動寺、村山快雅住職による読経に始まり、出席者による『般若心経』『光明眞言』『宗祖寶号』の読経を自宅で済ませたあと.お墓に出向き納骨を済ませた。お墓は親父さんが生前に「岩井家の墓」として建立しなおしたもので本人の名前は赤字で彫り込まれていたが、この赤字を落とし墓石本来の色へと変えられた。

 

 親父さんが亡くなったのは早春の3月21日だった。

周りでは梅の花に続き.辛夷の柔らかい花が満開だった。

季節は確実に移り変わり.やがて桜がこの世の春を謳歌し.それに変わって藤や山吹の花が咲く季節となり.山々は若葉の萌える姿へと移っている。

 これから月日が経つごとに.親父さんの思い出は希薄になっていくだろうと思われるが、一つひとつの節目に親父さんの在りし日を偲びつつ、お袋さんを大切にし兄弟、家族が和やかにすごしていきたいと思う。

 

命日 平成10年3月21日

俗名 岩井 清 享年 74歳

戒名 春鶯院彼雲清岸居士

初七日法要での住職の話によると.

1、春のお彼岸の中日に亡くなったこと。

 2、春を告げる鳥が鶯であること。

 3、雲がきれて清々しい春が訪れること。

これらのことを考慮し、『春鶯院彼雲清岸居士』と戒名をつけたとのことでした。

 

 

四十九日法要で読んだ作文

 

おじいちゃんの思い出

                                          岩井 大

 

横浜博覧会

横浜博覧会会場

 

 夏休みのとき.いろいろゲームカセットやデジモンを.いっぱいかってくれました。

おじいちゃんはまだ歩けるとき.保育所にむかえに来るのがたのしみで、よく.ぼくの家に来ていました。おじいちゃんはぼくをむかえに来る日.おそくてまったことがあります。

 おじいちゃんは金持ちなので.おいわいの日や、お年玉、きんこんしき.などに.いっぱいお金をくれました。

 おじいちゃんは 2しゅうかんくらいにゅういんして.73さいでなくなりました。

「まだわかいのに なくなっちゃって.かわいそうね」

と.よく言われます。

 おじいちゃんが.100さいいきてれば うれしかったのに.73さいでなくなりました。ぼくは100さいまでいきようと思います。

 おじいちゃんには もっと長いきしてほしかったなと思います。

 

大の絵

てんごくのおじいちゃん

 

 

四十九日法要で読んだ作文

おじいちゃんの思い出

                                       岩井 愛

サーカー観戦

サッカー観戦

 おじいちゃんは.とってもやさしい人でした。ぐんまに行くと.かならず五百円玉を.いっぱいくれました。五千円をくれて.おもちゃを買ってくれました。お金なくならないのかなぁと思ったときもありました。

 おじいちゃんは武石の時、よくとまりに来てくれました。おじいちゃんはタバコが好きだけど私がぜんそくなので庭ですってくれました。サンスポマラソンにも.いっしょに行ってくれました。けれども私は、お母さんに話しているのに、おじいちゃんが「うん。うん」と言うので.「おじいちゃんには言ってないの!」

と.つめたい言葉を返したことがありました。

 

 がくどうで お母さんにむかえに来てと.たのんだら.おじいちゃんが来たので.大泣きしたことがありました。けれど おじいちゃんにとっては せいいっぱいのやさしさだったのかなぁと思いました。

 初めに話した五百円玉をためて海外旅行に行こうと.私たちは言っていました。お父さんがパンフレットを集めていました。

「五百円玉集めているんだ」

と話したら.五百円玉を.たっくさんくれたおじいちゃんもいっしょに行こうと考えていました。

「おじいちゃん、飛行機はだいじょうぶだよね」

「遠くまでつかれないかなぁ」

と.そんな話をしているうちに.おじいちゃんが入院したという知らせがきました。そして.約二週間で おじいちゃんは なくなりました。

 私は.

「おじいちゃん、いっしょに海外旅行にいけないね」

と話していました。

 私がおじいちゃんの話をみんなにすると.

「やさしい.おじいちゃんだね」

という声がかえってきます。なのに、もうその話はできません。

 

 きんこん式の時、100才までがんばって、と書いたばかりなのにと思います。

 私は、こんなにやさしいおじいちゃんは、もういないと思います。日本「いや.世界一、もっと.うちゅう−のおじいちゃんだと.私は思っています。天国に行っても.やさしい、やさしいおじいちゃんでいてください。そして.空の上から.神様になって私たちを見守っていてください。ぜったい私はおじいちゃんより.長いきできるようがんばります。

 

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