河口慧海記念館を訪ねて

 

記念館内の仏間で合掌

 

 2014年3月19日から4月1日までの14日間でネパールトレッキングに出かけました。ネパールに出かけるのは2013年11月以来2度目の訪問でした。訪問の主目的はネパールの国花である真っ赤な石楠花(ラリグラス)を見ることで、そのトレッキング途中で河口慧海記念館に立ち寄りました。

 

河口慧海は昭和20年に80歳で亡くなった坊さんです。何をした坊さんかというと、漢訳仏典の不備を感じ、梵語の原典入手と原典に最も近いとされていたチベット語訳の仏典入手のためにチベット語を覚え、日本人として初めて鎖国状態のチベットへ密入国した人です。32歳の時に日本を出国し、インド北部で現地の人と変わらない日常的なレベルまでチベット語を習得し、5000mを超える雪のヒマラヤの峠を越えてチベットへ密入国した後は、仏教を学ぶと同時に医療を施し、チベットに滞在すること3年後に日本人であることが暴露される直前にチベットを出国し日本に帰国するまで6年の歳月が流れました。その慧海がチベットに密入国する前の3ヶ月を過ごした家がジョムソン街道をカリガンダキに沿って下ってきた場所にあるマルファ村に河口慧海記念館として保存されています。


 私が慧海の口述筆記した『チベット旅行記(1)〜(5):講談社学術文庫』を読んだのは3年前ですが、内容がとても面白く記憶力が素晴らしい人との印象を受けました。その記念館がマルファの村中にありましたので訪問したわけです。マルファの村内は石畳が引かれ、当時のままに残されていました。石畳の両側に立つ石造りの家々は白く塗られ質素であるけれど清潔感のある佇まいのように感じられました。記念館を管理している40代と思われる女性が扉に掛っていた鍵を開けてなかに招いてくれました。慧海が生活した部屋は2階にあり、女性は早く上がって来いと手招きをしていました。石の階段を登り2階に上がると、当時の生活していた居間には馬具、食器、衣類、トランク、行李などが置かれ、仏間には仏画、写真、経典、仏像、灯明受けなどが保存されていました。慧海の2枚の写真の1枚はチベットへ入国した当時の若い時代のもので、他の1枚は晩年の写真という印象を受けました。

河口慧海が生活していた居間と遺品


 管理人は居間は勿論のこと、仏間や回廊にも入っていいと言うので私はすぐに靴と帽子を脱ぎ入室しました。仏間は電燈が灯されていましたが、回廊の幅は50cmほどで真っ暗闇なので管理人のあとについて入って行きましたが、長野善光寺の地下回廊廻りのような感じを受けました。写真を撮っていいと言うのでフラッシュをたきながらその明るさで見当をつけながら回廊を歩いて行きました。回廊周りをした後に仏間に入り、仏間に飾られた慧海の2枚の写真を眺めながら「お疲れさまでした」の合掌をすると同時に、慧海という人は努力家であり凄い実践力の人だと改めて思いました。慧海が持ち帰った様々なものは東北大学総合学術博物館に保存されています。