感謝の気持を込めて

 

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全国社会福祉協議会から永年表彰を受けて 2017114

 

 私は1977年(昭和52年)3月に千葉保育専門学校を卒業し、4月1日に千葉市職員として千葉市真砂第3保育所に保母として就職しました。その当時は保育士という言葉は使っていませんでしたが、すでに亡くなった母の「女でも手に職をつけなければいけない」という言葉の中から、子どもが好きだった私は保母になる道を選びました。20歳でした。その後、花見川第1保育所、花見川第3保育所、花見川第2保育所、宮野木保育所、黒砂保育所、幕張第3保育所、轟保育所、高洲第1保育所、花見川第2保育所と3年〜5年間隔で転勤し、2014年4月1日から花見川第2保育所の所長として子どもたちの命を預かり、子どもたちの成長を見守っています。

 

 その40年に渡る保育士勤務の中で1988年に10年勤続表彰を千葉県保育協議会と千葉市福祉協議会より頂き、1994年には千葉市から15年永年勤続表彰を頂き、2002年に全国保育士協議会から全国永年勤続保育士等表彰を頂きました。更に昨年2016年に全国社会福祉協議会より永年勤続功労者表彰を頂き、今年1月の千葉市保育士総会席上で表彰されました。

 

 私が結婚したのは1986年で29歳の時でした。夫は神奈川県相模原市に住んでおり電電公社に勤めていました。結婚までの話し合いのなかで結婚後は私が保母を辞めて相模原で新婚生活をスタートさせることになっていましたが、夫が私に対して「本当に保母を辞めて相模原に移ってもいいのか」と最終確認してきた時に私は即答しませんでした。当時の気持ちを振り返ると、私には保母を辞める決心が着いていなかったのだと思います。その私の態度を見て、夫は、「分かった。アッコは保母を続けたいと思っているのだろうから、俺が千葉に移ってきて相模原まで通勤するから」と即断しました。その夫の即断によって私の千葉職員としての保育士生活が現在まで続いています。

 

 結婚後は船橋市東船橋にアパートを探し、夫は東船橋駅から総武線・小田急線・横浜線・バスを乗り継ぎ、片道2時間半の遠距離通勤が始まり、東京都内の竹橋に転勤するまで7年間続きました。上の子どもの愛が幕張東小学校に入学する時でしたので、住居も船橋市から千葉市に転居するのと同時でした。結婚してから30数年たちますが、共働きだったため輪番勤務だった夫は休みの時は家事や育児を引き受けてくれました。イクメン“という言葉が最近もてはやされていますが、そのような言葉がなかった時代から夫は家事をやっていましたし、NTTを退職した現在でも主夫を続けてくれています。

 

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青葉の森芸術文化ホール 2017114

 

 私が40年も保育士を続けてこられたのは夫の協力は勿論ですが、すでに亡くなってしまった私の母、夫の義父母をはじめとして一緒に働いている職場の保育士仲間の協力や励ましがあったことにとても感謝しています。それがあったからこそ今まで保育士が続けられているのだと思っています。あと2か月たつと私の保育士生活も終わりを告げます。今、私の心は「感謝」という言葉で満たされています。

 

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