神田明神から湯島聖堂へ

 

神田明神の静かな境内

 

 秋葉原のソニーサービスステーションにカメラの清掃を頼み、出来上がるまでの1時間半の待ち時間に近くの神田明神と湯島聖堂にお参りすることにした。ソニーサービスステーションから10分ほど歩くと、江戸総鎮守の神田明神の裏参道に着いた。ビルが立て込んでいるところに突然石の階段が現れ、神田神社裏参道の石柱が立っていた。いつもは表参道からお参りしているので、裏参道からお参りするのは初めてだった。

 

水野年方顕彰碑の説明板

 

約60段の石段を登って神社境内に入った。本殿の右奥のようだった。そこには江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した歌川派の浮世絵師であった水野年方の顕彰碑が立っていた。上品で繊細な美人画を得意とした水野年方は1908年(明治41年)に42歳の若さで逝去したと書かれてあり、門人からは鏑木清方を筆頭に池田輝方や蕉園などの近代日本画を代表する画家たちが多く排出されたとのことだった。鏑木清方は鎌倉にある清方美術館に入って作品を観たこともあるし、美術全集も持っているので画風は知っていたが、その師匠が水野年方という画家であることを初めて知った。顕彰碑の横に咲く紅梅が満開となっていた。

 

神田明神祭りで担がれる江戸神社の神輿

 

神田神社境内にはたくさんの神社が祀られており、その一つの末廣稲荷神社の朱塗りの社にふたりの方が手を合わせていた。末廣稲荷神社の創建は1616年とあったので、家康が江戸幕府を開いたばかりのころである。出世稲荷として尊敬されているとのことだった。それらの神社を見ながら右側を回っていくと、江戸神社というのがあり中に立派な神輿か収められていた。江戸神社の祭神は建速須佐之男命とのことで、中の神輿は2年に1度の神田祭りで担がれる神輿とのことだった。渡御の際には千数百人の担ぎ手により宮入りが行われ、宮入りの際には大小200台以上の神輿が町中で担がれるとのことだ。今年の5月の神田祭までに新型コロナウイルスの感染拡大は収まるのであろうか。

 

神田明神に掛けられていた絵馬

 

境内に絵馬がたくさん掛けられていたので覗いてみたらビックリ!絵馬が随分様変わりしていたのだ。絵馬は干支や神社関連のものがデザインされているのが普通だが、掛けられていたのは眼の大きい少女のメイド姿や自分で少女の絵を描いた絵馬も多数あった。秋葉原で人気の少女アニメ風の絵馬が多かった。いやはやなんとも、時代は変わったものだ。ここの絵馬は少女の絵が多く、今年の干支である牛はわずかだった。

 

ラブライブ・アニメツーリズム『スクール・アイドル・プロジェクト』

 

 絵馬がなぜこのようなことになっているのだろうと考えてみた。ヒントは境内に建てられた神田明神文化交流館の地下1階にあった。トイレを借りようと地下1階に降りると、ラブライブのアニメツーリズムのスタンプラリーが置かれてあり、それをスマホで撮影している若者がいたのである。ラブライブとは9年前にスタートしたスクール・アイドル・プロジェクトのことで、そのキャラクターが女子高校生なのだった。ラブライブの人気に目を付けた神田明神が、若者を取り込もうとしてラブライブとタッグを組んだ結果が、少女たちの絵馬の登場となったものと思われた。神田祭のポスターにもスクール・アイドルのアニメが登場していたのである。商魂たくましいというか、時代の流れに敏感といおうか、神田明神もたいしたものである。

 

神田明神の朱塗りの髄神門

 

2月に入ったけれども神田祭り囃子の音がスピーカーから流れ、初詣の幕が下がり、本殿にお賽銭をあげながらお参りしている人がいた。平日のためか参拝する人は少なかった。朱塗りの随神門の中には左右に武将が弓を携えて座っていた。その左手に手水場があったが柄杓は置いてなく、池坊の東京連合支部青年部により、新型ウイルス感染症が早く終わることを祈って献花がされてあった。

 

海からやってきた恵比寿様

 

手水場の左に東京芸術大学の元学長で現在の文化庁長官の宮田亮平さんが作られた「波に乗って海からやってきた恵比寿様」のモニュメントが置かれていた。以前は野外に置かれていたが、神田明神文化交流館が建てられたので、その庇の下に入っていた。前よりも目立たない場所になった気がした。若いカップルが説明文を読みながら手を合わせていた。

 

銭形平次と八五郎の碑

 

本殿の右側に回ると銭形平治の碑があった。銭形平治は野村胡堂の『銭形平治捕物帳』の主人公で、昔のテレビ時代劇のヒーローであった。東映時代劇のスターであった大川橋蔵の銭形平次のテレビをよく見たが、平治の住居が神田明神下にあったということで、この碑が建立されたようだ。銭形平治の碑は、犯人を取り押さえる際に投げた寛永通寳をかたどった台座の上に建っていた。銭形平治の右側にうっかり八五郎の小さな碑が建っていた。

 

親子獅子

 

本殿の右側に石獅子が置かれている。この石獅子は1730年ころに下野国の石工が作ったものといわれており、両替商が石を積んで神田神社へ奉納したとの説明書きがあった。3頭の石獅子は親獅子が子獅子を谷底に突き落とした故事となっているが、関東大震災で失われたものを1989年(平成元年)の天皇即位を記念して再建され、夫婦2頭と子1頭の3頭の親子獅子となったようだ。夫婦2頭だけが千代田区指定の文化財となっているということは、説明書きにはないが最初は夫婦の2頭だけの石獅子だったのを、再建した時に子獅子を作って谷底に置くような構図に仕立て上げたようだ。石像も子獅子のほうが新しかった。

 

湯島聖堂の大成殿

 

神田明神にお参りしたあと、道路を挟んで反対側にある湯島聖堂を訪ねた。湯島聖堂は孔子廟である。孔子は約2500年前の中国に生まれ、その教えは儒教として当時の人々に大きな影響を与え、徳川3代将軍家光の息子で第5代将軍綱吉が儒教に傾倒し、元禄3年(1690年)に湯島聖堂として孔子を祀る大成殿や学舎を立て、自ら論語の講釈を行うなど学問を奨励したという。大成殿は銅の板葺瓦に黒塗りの建物は重厚感に満ちていた。正面に大きな額がかけられており、お参りする人は額の前で一礼をしながら粛々と立ち去っている。立派な建物だが関東大震災で焼失後の再建とのことである。

 

ツバキの花が満開だった

 

大成殿は土日祝日のみの開館で、平日は閉まっていたために入館しての見学はできなかったが、置かれていた漢文検定案内には論語テキストの内容見本として、子曰、「学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」という論語の冒頭の文が書かれていた。見本は初級ということで、しのたまわく、「まなびてときにこれをならう、またよろこびしからずや。ともありえんぽうよりきたる、またたのしからずや。ひとしらずしていきどおらず、またくんしならずや。」と。いう読み下し文が示されていた。この文に目を通した時、中学1年の国語の授業で半田喜作先生から論語を習ったのが蘇ってきたのである。13歳の時だったので59年前のことだった。

 

湯島聖堂に掛けられていた絵馬

 

しばらく「人徳門」の横に立っていると、次々にお参りの人がやってきて大成殿の前で一礼して過ぎ去っていった。神田明神も湯島聖堂も周りを全て高いビルに囲まれ、ぽつん開いた空間に置かれているという感じである。湯島聖堂は600mほど離れているが、同じ湯島にある菅原道真を祀った湯島天満宮と並んで「学問の神様」として受験生が訪れる場所として有名である。掛けられていた絵馬は神田明神のような漫画はなく、合格祈願の札が並んでいた。苦しい時の神頼みとはいえ、黒い字で書かれて質素であるが切実でもある。

 

世界最大の孔子像

 

敷地内に孔子の銅像が建立されているので寄ってみた。穏やかな顔をしており髭を伸ばしたおじいさんという感じである。銅像は世界一の大きさとのことで、台湾の台北ライオンズクラブから寄贈されたとのことである。その銅像の側にという木が植えられていた。楷は中国にある孔子の墓所に植えられている木で、楷書の語源になったといわれており、銅像の側で大きく枝を広げていた。孔子と楷の木は離すことができないと記されており、植物学者の牧野富太郎博士によって孔子木と命名された旨も書かれていた。ツバキの花が満開だった。そろそろカメラの清掃が終わる時刻が近づいてきたので、サービスステイションに戻ろう。

 

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