ジェットコースター山岳道路

 

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ポーター満載のジープが断崖絶壁の山岳道路を行く

 

 パキスタン北部カラコルム地方に聳える世界第2位の高峰K2(ケートゥー・8611m:地方名チョゴリ)に初登頂したのはイタリア山岳協会であった。1953年のことである。それから24年後の1977年、日本山岳協会が第2登に成功した。その経緯については広島三郎著『K2登頂 幸運と友情の山』や本田靖春著『K2に憑かれた男たち』に詳しい。現在でもK2は世界の山々の中で最も登頂が困難な山として美しいピラミダルな白い姿を私たちにさらしている。

 

 日本山岳協会が登頂した当時はパキスタンの北部主要都市ラワルピンディからスカルドゥまで飛行機で飛び、そこでキャラバン隊を組織しジープやトラクターに分乗し車が乗りいれることのできる最終地のバハーまで進む。それ以降はブラドル川沿いの徒歩となり、テント7泊後に人が住む最終村落であるアスコーレに到着した。つまりスカルドゥからアスコーレまで1週間かかった。30年後の現在では、ブラドル川沿いに山岳道路が開通しており1日でアスコーレまで入ることができる。アスコーレから先は人が全く住まない沙漠と岩と氷の世界であることは現在でも全く同じである。

 

断崖の道が続く・右側は千尋の谷

 

 V字谷の断崖絶壁に切り拓かれた山岳道路は実に肝の冷やされる道路である。ハッキリ言って悪路である。日本にはこのような道路は存在していない。山側の土砂崩れ、谷側の崩壊は日常茶飯事のこととして雨が降れば道路を横切る小川は増水し川となって流れを作る。ガードレールのない砂利道である山岳道路は氷河より流れでたブラドル川の濁流に沿いながら曲がりくねり上下を繰り返し、まるでジェットコースターに乗っているようだ。しかし、ジェットコースターはレールで保障され速度も安全であるが、この山岳道路は全て運転手の腕だよりであるところが違っている。特にペアピンコーナーが急角度おまけに傾斜がきつく、一度のハンドル操作では曲がることができず、切り返しを行うばあいが続くところでは、このまま落ちるのではないかとひやひやものである。4WDを運転する地元ドライバーがハンドル操作を誤れば、怒れる濁流の泡となって私たちの命は確実に消え去るのが実感できる。それでも山岳風景に魅了された人たちはドライバーに命を預けアスコーレへと進んでいくのだ。

 

道路は殆どの区間で1台が通過できる道幅であり車の擦れ違いは出来ない。それでも遥か前方に車影を認めると擦れ違い可能な場所で対向車を待つことになる。ドライバー同士はお互い知りあい同士なのでトラブルはないようである。パキスタンは多民族国家でありカラコルム地方のガイドやドライバーが話す言葉は3種類ある。すなわち国際共通語としての英語、パキスタンの国語としてのウルドゥ語、そしてフンザ地方の母語としてのブルシャスキ―語である。ガイドやドライバー同士が話す場合はブルシャスキ―語で話すので私たちには何を話しているのか全く不明である。

 

スカルドゥからアスコーレへ向かった時と142kmのバルトロ氷河トレッキングを無事に終え、逆にアスコーレからスカルドゥに戻る時のドライバーは同一人物だった。片言の英語で意思疎通を図った。ドライバーの名前はフェダ・フセインさん、実に立派な鼻をもったかたで年齢は44歳。お母さんと妻は既に亡くなり、6人の子どもを育てており、弟と妹がいると家族構成を説明してくれた。山岳道路は4台のジープに分乗したわけだが、私たちのグループが乗った車はトヨタのランドクルーザー4WDで左側後部座席の窓に2名の外国人のサインと1980年という年号が残されていた。つまり、車はパキスタンに来てからでもゆうに30年を超えているということだ。実に長持ちしている。

 

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キャラバンを終えたアスコーレでポーターのみなさんと記念撮影

 

フセインさんは「パキスタンは貧乏。日本は裕福。日本人が観光に来てくれると私たちも助かるので大歓迎」と私たちを最大限に持ちあげてくれる。それは山岳ドライバーとして一家を支えるフセインさんの実感だろうなぁと思う。ちなみにパキスタン警察官の月給は1万ルピーである。1ルピーは日本円で約1円である。バルトロ氷河トレッキング15日間のポーターの方たちの賃金は1万5千ルピーである。これといった産業のないなかで極暑極寒の気象条件のなか平均24kgの荷物を運ぶ厳しい肉体労働であるが、ポーターへの賃金は山岳観光客が払った旅費の中から出ているのを見ていても感じることである。

 

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