深夜の七年祭磯出式
4時7分、磯出式クライマックス
「岩井さん、11月1日、2日に七年祭があるのでスケジュールが空いていたら手助けをお願いしたいので大丈夫かなぁ」と連絡を受けると、すぐに「いいよ」と軽く請け負ったのが10月上旬のことだった。その裏には、私は幕張に住んで22年になるが、まだ1回も7年祭を観たことがなかったので1度は体験したいと思っていたので渡りに舟だった。
七年祭とは以前子守神社の祭礼パトロールのところでも書いたが、数え年で7年ごとに行われる祭りで起源は今から遡ること670年前の文安2年(1445年)に始まる。正式には式年連合大祭と呼ばれ、幕張で行う磯出安産神事と三山(船橋市三山)の二宮神社への御礼参り神事の二つから成り立っている。
文安2年(1445年)千葉介十七代幕張城々主、陸奥守平康胤は、奥方が懐妊した時、十一カ月が過ぎても出産の兆候がないのを案じ、9月16日に子守神社(幕張)二宮神社(三山)子安神社(畑)三代王神社(武石)の各神主を馬加の磯辺に呼び寄せ、産屋を設けて出産祈祷を執行させたところ、その夜、海中より龍灯が揚がり、子守神社へ飛来し、翌日、七つ時(午前4時頃)に無事男児を出産した。
康胤初め家臣共は大いにこれを喜び、御礼として三山の地に四社を集めて祭りを挙行した。更に享保12年(1727年)からこの安産神事自体も祭事として同時に執行するようになった。いつの頃からか、時平神社(大和田・萱田)、八王子神社(古和釜)、高津比盗_社(高津)、菊田神社(津田沼)、大原大宮神社(実籾)の五社が新たに加わり、それぞれの役割を持った現在の形になった。このように現在は九社が集まる御礼参りを先に行い、その後、幕張に四社が集まる磯出安産神事を行っている。
各神社の役割については、二宮神社(父親)・子安神社(母親)・子守神社(子守り)・三代王神社(産婆)・時平神社(息子)・八王子神社(息子)・高津比盗_社(娘)・菊田神社(伯父)・大原大宮神社(伯母)となっている、というものである。
七年祭磯出式会場準備
事前の打ち合わせが10月25日と31日の2回にわたって幕張5丁目会館で開かれた。6年振りに開かれる祭りなので事前打合わせ資料もまとまったものが出ておらず、会議進行もチグハグ感が拭えなかった。結論は幕張5丁目自治会として、7年祭りの1日、2日の両日は交通整理を行い、時間ごとの場所と担当者を決めるというものだった。そのために一連の祭りの流れを説明し、あとは時間ごとの担当者と担当場所の確定だった。
祭りは3部に分かれていた。第1部は二宮神社参向で1日9時〜19時30分まで、第2部は幕張磯出式で1日22時〜2日7時まで、第3部は花流しで2日12時〜20時まで、という肉体的にかなりハードなものだった。私は第2部と第3部が出番だった。
両日とも雨模様だったので防寒対策を充分にし、雨合羽の上に反射ベストを着こんで交通整理に臨んだ。磯出式に集まるのは二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社の4社であり、地元の子守神社関係者には道案内は不要だが、残り3社の関係者には待機場所の案内が必要だった。1日22時から2日の1時まで道案内に立ち、その後、三代王神社神輿の交通整理員となり磯出式会場に向かった。神輿が会場に入場したのを確認後は会場前の交通整理員となった。
子安神社入場
既に会場に通じる旧14号線は交通規制が実施されており一般車は通行できなかったが祭り関係者の車両が入ってくるので見物者を度々整理した。交通整理場所は各神社宮司休憩場所前となっていたので磯出式が始まる前の2時前後から各神社関係者が会場に入って行った。宮司以下の関係者が入場する道案内を終え一段落だった。
式典執行時刻は3時47分だった。この時刻は干潮の時刻に合わせてあるという。従って6年ごとに行われる月日によって干潮時刻も変化するので、執行時刻は未明という表現になっているのだが、今回の7年祭は2日3時47分がスタート時刻だった。裸電球の下での神事は照明度が暗くて何をやっているのかよく分からなかった。そのうちに電気が消え、真っ暗の中でも何やら神事は続いており、再び電燈がともったあとに真榊の枝が配られた。昔は真榊の枝を取るための争奪戦が激しかったようだが、今回は穏やかなもので、竹矢来の隙間から枝が欲しい人には分け与えるような場面が展開されていた。榊の御利益は子宝祈願と家内安全とのことで子どもが欲しい婦人に優先的に配るようだった。磯出式の式典は4時30分に終了し、各神社神輿は順次会場を退場して行ったのだが、会場外に出た父親役の二宮神社神輿と母親役の子安神社神輿が2度合体したあと、それぞれの神社に向かっていった。
私たち交通整理員は6時30分に子守神社に集まり、神輿が神輿殿内に安置されたのを確認し、午後の花流し時刻に再集合することになり一時解散となった。午後の花流しは、親子で参加する稚児行列を始めとした幕張1丁目から5丁目までの神輿渡御のことで、私は担当場所を4か所移動したので結構忙しかった。雨模様の中で行われたので和服に盛装した婦人や紋付き袴姿の子どもたちが傘をさしての行進だったので可哀そうだった。