新雪にはまり裏返った亀

 

ホテルで酩酊状態のスキー仲間

 

 2月4日、群馬県の尾瀬岩鞍スキー場から幕張の自宅に戻るのではなく群馬の生家に帰った。理由は今年のスキースケジュールが2月1日から8日まで群馬県と新潟県の二つのスキー場に連続して出かけるようになっており、幕張に帰ったとしても1日空けるだけで2月6日には再び新潟県の石打丸山スキー場に出かけるというものだったからである。尾瀬岩鞍から帰る2月4日から降り出した雪は9日まで降り続き、やがて関東地方では45年ぶりの大雪となり交通機関の大混乱を生んだのだが、そのはしりは2月4日にあった。それまでのスキー場には雪が降らずに雪不足状態であった。上越線沼田駅から高崎駅で信越線に乗り換え松井田駅で下車したが、上越線沿いでは雪が降り続き翌日も浅間山から上越県境の空は雪雲が覆っていた。2月6日、列車で石打に向かったが上越線は大雪による列車トラブルにより越後湯沢で運転中止となったが、運良く「ほくほく線」に乗り換えることができ10分ほどの遅れで石打駅まで辿り着くことが出来たのである。

 

 スキー幹事が石打駅まで車で迎えに来てくれ、石打丸山スキー場観光口のリフト正面にあるホテル・エルム石打に到着するやいなや宅急便で送ってあったスキー道具をホテルから受け取り、早速スキーウェアに着替えてゲレンデに飛び出した。いつものようにリフトを乗り継ぎ山頂ゲレンデまで登った。山頂に向かうリフトで下のゲレンデを眺めると見慣れたウェアを着た者がスキーの両板を外して前方5mほどの所に倒れており中々立ち上がらない姿が目についた。果たしてそれはスキー仲間の関根だった。山頂から滑り降りてくると倒れていた関根は同じ仲間の尾篭の補助によってようやく立ち上がったところで、状況を訊ねると朝1本目の山頂からの滑降時にギャップにスキーがひっかかり、両板ともに外れて身体は前方に飛ばされ左肩を強打したとのこと。痛くてたまらないからこのまま昼食予定のレストランニュー丸山に入るとのこと。この時は肩の強打ほどに考えていたが、その日は地元の病院で簡単な診察を受け夜に自宅まで電車で帰宅し、翌日医者に出向きレントゲン撮影をしたところ左腕3か所の骨折が判明した。関根にとってはスキー初日から全くの骨折り損のくたびれ儲けという結果となってしまったのである。

 

新雪から必死に脱出する中島

 

 一方、他のメンバーは昼食時にはレストランニュー丸山に続々と集まっており、私が13時に行った時は既に全てのメンバーが集まり酒盛りをしている最中だった。私も遅ればせながらビールから日本酒へと進んでいった。この時の一升瓶は「雪男」という地酒だった。一升瓶が空になり次は地酒「鶴齢」を注文しようとすると、幹事があまり飲みすぎるといけないので次の一升瓶は明日にしてください、と釘をさす。ま、仕方ないかと発泡酒を飲みながら談笑し、いよいよ14時半にホテルに帰ることになり、まだ滑っているという仲間を残し、私、井上、中島の3人が一緒に滑走して下っていくが途中まで一緒だった中島が離れてしまう。観光口下で随分待ったが中島が降りてこないので私と井上は再びリフトに乗って中島を捜しに行くことになった。2人は二手に分かれ私は中央口方面を、井上は観光口方面を捜すことになった。その結果、中島は観光口に降りずに中央口に降りてしまい、しかも新雪に突っ込んで転倒、裏返った亀のように深い新雪の中でもがき苦しんでいる状態だった。リフトの上から中島の姿を確認した時は笑ってしまった。その後、中島を助け出すのだが新雪は股まで潜る深さで、中島の履いているスキー板を両足脱がせゲレンデコースまで運び出したが、そのスキー板を酔っている中島は履くことが出来ない。暫く見守っていたが急斜面でスキー板を履くことは無理と判断し、私がスキー板を抱えて斜度の比較的になだらかなところまで滑り降り中島は尻セードで降りて来た。私と井上の二人が中島を捜しに行かなかったら中島一人では新雪から脱出することができず危ないところだった。同じように私は数年前の石打丸山ゲレンデで今回の中島のように酔い過ぎて一人で滑り降りることが出来ず、田崎、尾篭の二人に助けられたのだが、今回は私が逆の立場の救助者だったとはいえ歴史は繰り返したのである。