25年振りのフルマラソン完走
5時間25分17秒でゴール
12月10日〜16日の7日間の日程でハワイ・オアフ島で開催された『第42回JALホノルルマラソン』に参加してきました。
1日目 ゼッケン受取りとワイキキ散策
「65歳になったらホノルルマラソンを走ろう」という小中学校同級生の発案から本来ならば昨年2013年12月のホノルルマラソンに参加予定でしたが、発案者に初期癌が見つかり放射線治療とその後のリハビリのために1年間延期した経緯がありました。1年後の今年に私が旅行のコーディネーターとなって参加メンバーを募り、日程、宿泊ホテル、オプション等を決めて旅行会社と交渉を進めました。しかし、元気になった発案者は残念ながら仕事の都合がつかず涙のリタイアでしたが、参加者は男性3人、女性3人の6名でホノルルに行ってきました。
真冬の成田空港発のデルタ航空で7時間の空の旅の着陸地は一気に常夏のハワイ。入国審査と税関を抜けた後、ゼッケン番号を受取るためにハワイコンベンションセンターへ向かう。バスの中でHIS社の現地担当者から渡された滞在期間中の各種資料やオプション関連資料を確認すると、オプションで入れた前夜祭コンサートのチケットが入っていないのでコンベンションセンターのHISブースに到着しゼッケン交換前に会場担当者に確認。担当者はパソコンデータを確認しながらチケットは金券だったので渡しておりませんでしたとのことで、改めて6名分のチケットを手渡してくれた。もし確認が漏れていたらコンサートの入場が出来なかったことを思うと常に冷静にしていることの重要さを感じた。
コンベンションセンター1階の会場にはスポーツ関連グッズやハワイのお土産の店も沢山出ていて賑やか。女性陣は10kmウォーク参加ゼッケン、Tシャツ、団扇を受取り、男性陣はゼッケン番号のみの受取りで、参加できなくなった友達のゼッケンも交換。ホノルルマラソンの場合は42kmを完走しないと記念の貝の首飾り、記念Tシャツ、記念メダルはもらえない。会場でハワイキルトの小物入れを買い、ボールペンと扇子をゲット。メッセージボードに「フルマラソン42km完走V」と記入し写真撮影。また、フルマラソンにエントエリーした3人の合計年齢が150歳以上の場合は団体登録が出来るので、合計196歳の私たち3人はチーム「エイトマン」で登録。
ハワイコンベンションセンターでのゼッケン受取り
ゼッケン番号の受取りを終了すると時刻は丁度お昼ご飯となったのでコンベンションセンター近くのアラモアナ・ショッピングセンターに行き、フードコートで昼食を摂ったが昼どきのため凄い混みようで6席確保するのも大変だった。沢山の店が出店しているが初めてなので勝手が良く分からない。とりあえず出来あがった弁当ではなくオーダーで盛りつける店に行き、ご飯、鯖の塩焼き半身、餃子6個、野菜の煮物、野菜炒め、を頼んだところ量が多いと感じたが値段は10$だった。
ワイキキは初めてなので食後はホテルまでトローリーバスに乗るのではなく、情報収集のためワイキキのメイン道路を約2時間の散策をして宿泊ホテルまで向かった。100m〜200m間隔に日本のコンビニエンスストアと同じようなABCトアーがあるが、日本と違う点は衣料品も売っていること。私は早速、貝の首飾りを購入した。アルコール類も売っているのでホテル近くのABCストアでワインを買った。カルフォル二ア・ワインだった。ハワイは観光業でもっており、農産物を除き特にこれといった産業はないので殆どの品物は輸入されてくる。
宿泊指定したアストン・ワイキキ・ビーチホテルはワイキキビーチから50mの立地で、前夜フェスティバルやマラソンフィニッシュ会場のカピオラニ公園脇の好条件だ。20階の部屋からはダイヤモンドヘッドから昇る朝日が綺麗でした。
2日目 ハワイ島溶岩ウォーク
オアフ島ホノルル空港から40分ほどのフライトでハワイ島ヒロ空港に到着した。空港には日系3世のアンディ・イトウさんが出迎えてくれました。アンディは祖父母が日本からの移民1世で日系2世の父親がハワイ出身の母親と結婚してアンディが生まれた。そのせいかアンディは不自由なく日本語を話す。米国本土の大学を卒業後IT関連企業で働いていたが、母親の病気を契機にハワイ島に戻り、そのまま観光ガイド業で生活をしているという。毎日ジムに出かけ身体を鍛えているというようにレスラーのような身体つきをしていた。顔もいかついのでちょっと見では怖いお兄さんと言う印象を受けるが実際には気配りのいい若者だった。
私たちが案内されたのは、現地の人が利用する市場やスーパー、カメハメハ大王公園、サーストン溶岩洞窟、キラウエア火山、ジャガーミュージアム、マウナウル山から流出凝固した溶岩上の散策、CAFE100、蒸気の噴気口、赤く染まるハレマウマウ火口噴煙、夜空の星座鑑賞、等でした。
ハワイの火山マグマは粘着力が弱いため噴出後もだらだらと流れ、噴火があっても周りの人々は慌てることなく避難でき危険性はないとのこと。草木も生えておらず見渡す限り溶岩台地が続いて行く風景はハワイ島が火山島だという認識を改めて実感させてくれました。地球の地下からマグマが噴き出し、太平洋プレートは毎年数センチずつ西に向かい日本海溝でユーラシアプレートの下にもぐりこみ、北米プレートは東に移動してアメリカ大陸にぶつかるなかにあって、そのマグマの吹き出し点が現在のハワイ島であり、新しい島が生まれて行く原点としてホットスポットがありプレート対流の出発点であることなどを説明していた。その島が生まれているマグマの吹き出し口は夜になると真っ赤な噴煙を上げ続けるキラウエア火山ハレマウマウ火口でより実感させてくれました。
ハワイ島溶岩ウォーク
アンディに渡された地図にはトレッキングコースが点線で表示されていたので火口トレッキングについて質問すると、キラウエア火山のカルデラ内トレッキングは2008年に禁止されたまま現在まで続いており火口周辺には立入ることが出来ません、との回答だった。ジャガーミュージアム(火山博物館)にはキラウエア火山の女神ぺレに関する伝説も紹介されておりましたが、英語の説明なので残念ながら理解できませんでした。ハワイ島の火山爆発による島民避難の大きな絵が飾られており、その絵を右から見た場合と左から見た場合では舟の進む方向が違って見えるトリック絵になっていたのが面白かった。ジャガーミュージアムの駐車場からはハワイ島第1の高峰であり天文台が設置されているマウナケア山(4205m)や第2の高峰であるマウナロア山(4039m)が展望出来た。裾野を長く拡げた穏やかな山容であるが、いずれも富士山よりも標高が高い山である。
サーストン溶岩洞窟にも入りました。シダの大木が鬱蒼と生い茂るジャングルの中に細い道が付けられており、溶岩洞窟へと続いていました。洞窟内には電燈が灯されており懐中電灯を持たなくても歩くことに支障はありませんでしたが、途中で何箇所か頭上注意の低い場所がありました。私は韓国の済州島にある溶岩洞窟にも入ったことがありますが規模は済州島の方が大きかったです。周りのジャングルは映画『ジュラシックパーク』の風景と同じだと感じましたが、アンディによるとジュラシックパークの撮影もハワイ島で行われたとのことだった。
夜空の星座鑑賞はネパールのアンナプルナ内院に出かけた時と同様に、周りには一つの明かりもないので天の川がはっきり判別でき、天空にはこんなにも沢山の星が輝いているのかと再度実感しました。私たちの仲間に中学校の理科の先生だった人がいるので岩石や星座の知識をことあるごとに披露・説明してくれました。
キラウエア火山ハレマウマウ火口
私が市場で買ったパパイヤは5個で2$でした。バナナを買った人。フルーツを買った人。それらをホテルに持ち帰ってお互いの人数でシェアして食べたら、とても美味かったです。地産地消が新鮮で一番うまいですね。スーパーで買った100%コナ・コーヒーは12$でした。ちなみにコナ・コーヒーはブルーマウンテン、キリマンジャロと並び、世界3大コーヒーとされていますが、ハワイ出身のオバマ大統領もホワイトハウスで毎日味わっているとのことです。帰国してから飲みましたが美味いですね。
ハワイ島には3か所にカメハメハ大王像が立っているとアンディは言って、そのうちの一つを紹介してくれましたがカメハメハ大王像は金色の衣装を纏って立っており、オアフ島のカメハメハ大王像に比べて派手でしたが見学者は少なかったです。ガイドのアンディは3人いた観光客を見て、今日は多い、と言っていました。アンディは面白いギャグをよく言っておりました。アンディは定点設置の観測カメラ映像やピンポイント天気状況をiPhoneで確認しながら分刻みのスケジュールで各観光地を案内してくれました。若いけれどとっても豊富な知識を持った優秀なガイドだと思いました。
3日目 ダイヤモンドヘッド登山と前夜祭コンサート
ダイヤモンドヘッドはワイキキビーチの東側に聳えている232mの火山クレーターです。ホテルから登山口までトローリーバスに乗って行き、入り口で1$の入山料金を支払ってから登山開始です。登山口から山頂まではトンネルや階段を昇って40分ほどで到着しました。トンネルや階段はアメリカ軍の軍事要塞基地として使われていたものの名残で、現在は登山道に使用されています。山頂からはワイキキビーチやホテル群が一望のもとに見渡せ、誰でも登れる標高ですから山頂は観光客でごったがえしていました。
ダイヤモンドヘッド山頂からワイキキ方面を望む
大阪の興国高校アスリート・アドバンス・コース生103名が先生に連れられてホノルルマラソン参加の修学旅行に来ていました。ラグビー部の顧問と話しながら下山しましたが、サッカーコースはスペインに出かけてサッカー観戦と現地チームとの交流試合を実施中とのことでした。下山後、ボクシングコースの生徒と握手し、彼を激励しました。彼らはマラソン当日には迷彩色に日の丸をつけたTシャツで走っていました。
午後はロイヤルハワイアンセンターの決起パーティに参加し、夜はホテル隣のカピオラニ公園で16時〜20時半まで開催された前夜祭への参加でした。前夜祭はカーボローディングを兼ねたコンサートで、私はビールを飲みながらの参加でしたが、ハワイでは公園やビーチでの飲酒は禁止されているため、特例の印として手首にテープを巻かれました。そのテープを巻いていないとビールが飲めないのです。違反すれば罰金です。道路横断の際にも横断歩道を通らないと罰金です。その辺りは徹底しています。
コンサートでは、初めて見たエレキウクレレ演奏は三角の赤いサンタクロースの帽子を被った女性演奏者でしたが素晴らしい演奏テクニックでした。世界で一人しかいないエレキウクレレ演奏者で白いロングスカートをなびかせながら素足での演奏は素晴らしかったです。カメハメハ・フラダンススクールの逞しい男子生徒の踊りは今年の世界フラダンス選手権で優勝したチームの踊りで、カメハメハ・フラダンススクールには現地ハワイアン人しか入学できる権利がないとのことでした。高校生くらいの年齢でしたが逞しい体つきをしており、特に太ももの筋肉の盛り上がりは素晴らしかったです。3組登場したバンド演奏のなかでは最後に1時間ほど演奏した地元バンドが良かった。トランペット、サクソフォン、クラリネット、トロンボーンの管楽器と、ギター、ドラム、エレクトーンのコラボレーションに歌が足され、次々に演奏された曲はコンサートを大いに盛り上げました。そして最後はEvery Little Thingのコンサートでした。今年のホノルルマラソンのテーマソングをEvery Little Thingが歌っているとのことで、ボーカルの持田香織さんは42kmのフルマラソンに参加とのことでした。最近は浜崎あゆみのコンサートにも出かけなくなったので生コンサートを見るのは久しぶりでした。
前夜祭コンサート
4日目 オアフ島一周観光
オアフ島内観光は東側半分の観光でした。西側はサトウキビ畑やパイナップル畑、それにゴルフ場のため観光地はあまりありません。私たちはハナウマ湾や潮吹き岩等の美しい海岸線を見ながら要所要所でバスを降りての見学でしたが、時間にゆとりがあったなら澄んだ珊瑚礁の海に入りたいと思いました。季節は12月ですがあちこちの白浜で思い思いに海水浴を楽しんでいる家族連れがいました。
コーラル・キングダムというレストランと土産物屋を兼ねた場所で、蘭の生花とバナナの葉を使ってのレイを作る体験をしました。私は以前から裁縫をしていましたから作業は簡単でしたが、なかなか作業が進まない男性もいました。レイは首から掛けるものではなく頭に飾ったり、帽子に飾ったりする小さめなもので10個の花を使って作るものでした。作ったレイは生花でしたから輝いているのは2日から3日ですので、有効利用するためにマラソン当日に帽子にピンで留めて走り、打上げ会にもそのままレイを付けた帽子を被って行きました。昼食時に庭で焼いていたチキンの丸焼などをツマミに地元ビールを2本飲みましたが美味かったですね。小瓶1本が5$でした。スーパーだと2$です。お土産を覗いてみると珊瑚や真珠で作った装飾品の脇にバナナや様々な葉っぱで作ったアルバムや写真額が目に留まりました。アルバムを手に持つと軽く手軽なので今回のマラソンツアーのハイライトシーンを20枚ほど入れた写真集を作ろうと思っていたので一つ買いました。
コーラル・キングダムでのレイの作成
ハワイは1年中ウエットスーツを着なくてもサーフィンが出来るところですが、特に12月〜1月はアラスカからの風により最大10mの高い波が出来る人気の時期とのことでした。オアフ島の北部海岸は風が強く吹き付けており、私たちも結構高い波を見ることが出来ました。残念ながらサーフィンをしている人の姿を見ることはできませんでしたが、砕け散る波やいわゆるチューブ波は見ることが出来ました。
西部劇の馬の代わりが車となったようなハレイワの町では松本商店のレインボウアイスをヤシの木陰で食べましたが美味かったですね。観光客が増加したためなのか、町並みや道路は整備されて間もない感じを受けるました。平屋の木造家屋が並ぶところなどは全く西部劇のワンシーンのようでした。松本商店の店員は日本語が上手で確認はしませんでしたが、日本人アルバイトのような感じを受けました。記念にレインボウアイスの絵が描かれたウイスキーショットグラスを買いました。2$でした。
パールハーバーでは広い敷地の中に様々な記念館や海軍施設が建っていました。とても30分程度の見学時間では回ることはできませんから、私と友人は第一線から退いた潜水艦内部を公開しているので12$を払って見学しました。内部設備はピカピカに磨かれていました。1940年12月8日、当時の日本海軍は真珠湾に停泊しているアメリカ海軍を急襲し、「トラ・トラ・トラ」の暗号電文によって「我、奇襲二成功セリ」と喜んでいましたが、以後、アメリカ海軍の「リメンバー・パールハーバー」という合言葉は、日本海軍を壊滅させるための精神的な旗印になったのです。その歴史的な場所であるパールハーバーでは当時沈没させられた艦艇から70年を経過した現在でも燃料重油が漏れ続けているとのことでした。当時の日本軍部が完全に状況を見誤っていたことが歴史の教訓として分かる場所がパールハーバーです。1940年の日米開戦から1945年8月に広島・長崎に原爆を落とされ、日本の無条件降伏までの5年間でアジア各地を含めて多数の人間が無駄に死にました。現在の日本を取り巻く環境は覇権主義に基づく領土問題が日常的に発生し、それに対抗するための集団自衛権行使の問題等を通して非常にキナ臭くなってきており、パールハーバーの教訓が忘れ去られるような状況にきていると感じられる今日この頃です。潜水艦の見学後、外部展示の魚雷に腰掛けて写真を撮っていたら関係者に注意されてしまいました。いやはや・・・
CMでおなじみの、この木なんの木・・・
日立製作所のCMで評判になったモアナルア・ガーデンの「この木なんの木・・・」も見学に行きました。日本だけで流されたCMだったため、見学者のほとんどは日本人とのことで、枝張りは40m、樹高は25m、幹周りは7mの太さとのことでした。枝から垂れ下がりながら実る木の実の形が木の枝にぶら下がっている猿の形に似ているところからモンキーポットツリーという名前が付いた合歓の木で、年2回ピンクの花を咲かせます。私たちが見た時は未だ蕾でした。日立製作所ではモアナルア・ガーデンを維持するために年間数千万円の援助をしており、来年度は援助を打ち切る話が出ており地元からは来年度以降も援助続行を希望しているとのことでした。モンキーポットツリー自体は珍しい木ではなく、あちこちの公園で見ることのできる木でした。
8時間のオアフ島内観光には、一つひとつ手作りで作っているチョコレート工場見学やパイナップルのドールプランテーション見学などもありましたが、ホテルに戻ってきた時に見たワイキキビーチからの夕陽がとても綺麗でした。
5日目 ホノルルマラソン本番
今回の旅行での私の痛恨のミスは、ホノルルマラソンを走るために新調しトレーニングしていたランニングシューズを自宅に忘れてしまったことでした。成田空港で出国手続きを終えた後、シューズを忘れたことに気づいた時は頭の中が一瞬爆発しましたが、悔やんでも仕方ないので普段履いている靴で走りました。
マラソン当日は午前2時に起床し簡単な食事。3時にホテル1階に集合しトローリーバスで会場へ移動。4時からストレッチで身体をほぐしアメリカ国歌が歌われた後にハワイ州歌が歌われました。いよいよスタート間近です。5時になると打上げ花火が次々に打ち上げられランナーおよび応援者の歓声の下でフルマラソンのスタートでした。私にとって25年振りのフルマラソンのスタートですが緊張感は全くありませんでした。周りはまだ真っ暗で雨が降り続いていました。
フラ娘も一緒に、さぁスタートだ!
私は完走予想タイム5時間の場所にいたのでスタート地点まで行くのに15分かかりました。車いすランナーの1番がバイクと自転車の先導で戻ってきたのに出会ったのはマラソンスタートから約10km地点の公園内コースから沿道に出て1車線幅に道幅が狭まるところで、私は左側のランナーとの接触を避けるため右側に傾いたところ今度は右側にランナーとの接触を避けた途端にバランスを失い雨でぬれていた道路に滑ってダイビングしてしまった。幸いにも顔面を打つことなく右掌と左手を擦りむいただけで大事にならなくて良かったと思いました。28km地点までは5時間のペースランナーと一緒でしたが、足が疲れて来たためスピードが出ず、徐々に遅れだし30km地点で歩き出しました。降り続いていた雨は35km地点まで続き、おまけに横殴りの強風が吹きつけるというダブルパンチでした。ゴールまで残り5kmとなった37km地点で5時間30分のペースランナーがやってきたので、これに遅れてはならないと再び走りだしました。幸いにも7kmほど歩いたので足の疲れも回復し、快調にゴールまで向かうことができ、完走タイムは05時間25分17秒のゴールでした。
帰国してから各チェックポイントの通過時間を確認すると、
10km:1時間09分59秒
21km:2時間26分48秒
30km:3時間32分11秒
40km:5時間09分39秒
でした。
私は、ゴール正面にテレビカメラが設置されていることを知っていたので、ゼッケン番号が見えるようにザックバンドを外し、両手を挙げてフィニッシュしました。放送席から私のゼッケン番号と名前が読み上げられ会場内の大型スクリーンにゴール場面が映し出された、と一緒に参加した女性陣が話してくれました。フィニッシュ後に地元の若い女性から完走記念の貝の首飾りを掛けてもらい、完走できた喜びが自然と沸き上がってきました。大切な完走記念の首飾りは一緒にハワイに行かれなかった私のお袋にプレゼントすることにしました。
ホノルルマラソン・デジタル完走証
私は自分のゼッケンをランニングシャツの表側に、参加出来なかった同級生のゼッケンを裏側につけて走ったので、まず私の完走記念Tシャツと完走記念メダルをもらい、シャツを裏返して今度は代走した同級生の完走記念Tシャツと完走記念メダルをもらいました。完走記念Tシャツや記念メダルは2重取り出来ないように受取り時にゼッケンにマジックで受取り済みの印を付けていました。私と同級生の2人の記録は当然ながら同一タイムです。帰国した日に同級生宛てに、ゼッケン、完走記念Tシャツ、完走記念メダル、ホノルルマラソン2014扇子、ボールペンを宅急便で送りました。翌日、同級生から宅急便が届いたとお礼と喜びの電話がかかってきました。
完走・完歩でお疲れ様!!
一緒に参加した2人の友達の記録は06時間04分12秒と08時間22分35秒で、チーム記録は19時間52分04秒(平均タイム06時間37分22秒)でした。女性陣3人の10kmレディースウォークも余裕の完歩だったようです。今回参加した6人のメンバーがそれぞれ完走、完歩できて良かったです。フルマラソンの個人完走証とエイトマンで登録したチーム完走証は来年2月頃に自宅に郵送されてくる手はずになっています。
ゴール後にHISブースで着替え、軽食を摂って休んでいると、元コニカミノルタ陸上部に所属し、ケニア代表のマラソン選手としてアトランタ五輪銅メダル、シドニー五輪銀メダルを獲得したエリック・ワイナイナ選手が写真撮影とサイン会をブース入口で行っていたので完走記念Tシャツにサインをしてもらいました。20歳から何年も日本で生活していたのでワイナイナ選手は日本語が上手でしたね。
私が42kmのフルマラソンを走ったのは25年振りで、25年前に河口湖マラソンを走った時の記録を確認すると完走タイムは4時間18分32秒でした。今より1時間早かったですね。今回は雨の中の苦しいレースでしたが、人生の楽しい思い出の1ページとして記録されました。今回のフルマラソンを走るために8ヵ月前の4月からトレーニングを開始しました。トレーニングと言っても1週間に2〜3回ほど花見川沿いのサイクリングロードを5kmジョギングする形でした。4月18日からスタートしたトレーニングの走行距離は、4月:25km、5月:45km、6月:45km、7月:74km、8月:75km、9月:53km、10月:15km、11月:50km、というものでした。10月の走行距離が落ちているのは幕張町民家族運動会の前日準備で入場門の設置を行うため脚立の上で作業中に突風により入場門の柱4本が倒れ、脚立の最上位で作業していた私も柱と共に地上に落ち、柱の下敷きになると同時に左腰、右肩、右鎖骨、首を打撲し、暫くトレーニングが出来ない状態だったためです。今も右肩は完治しておらず肩を動かすと痛みが走ります。
完走、完歩のお疲れさま打上げ会は、アラモアナ・ショッピングセンター3階の「鮪ざんまい」に出かけました。店に入ろうとしたら6人の席がなく4席と2席に離れてしまうため、2人で4席を使っているカップルがいたので2席を私たちに渡してくれるよう店員に依頼したら、気の弱そうな女性店員は私は話せないと言う。6人一緒に話しながらの打上げ会にしたかったので、片言ながらの英語とボディーランゲージによって私がアメリカ人と思われたカップルに直接交渉したところ、すんなり気持ちよく2席を譲ってくれ、6人同席でのお疲れさま打ち上げ会になりました。私は情けない店員を叱咤しましたが、決してカップルを脅したりはしませんでしたよ。ハワイに来て初めて寿司を食べました。美味かったです。メデタシ!メデタシ!
お疲れさま会は、鮪ざんまいへ
今年のマラソンにはソシャールダンスを踊りながら13時間でフィニッシュしたカップルがいたとのことでした。ホノルルマラソンは、誰でも楽しめるお祭りです。今年のエントリー数はフルマラソンが30,434名(内、日本人は13,454名)、レディースウォークが2,983名(内、日本人は2,330名)でした。Every Little Thingの持田香織さんは6時間42分56秒で完走しました。なお、ホノルルマラソンは前夜祭を含めて、2015年1月12日(成人の日)9時55分〜10時50分までTBS系列5局ネットで放送されます。来年の第43回JALホノルルマラソンは2015年12月13日に開催予定です。時間制限なしのフルマラソンですから果敢にチャレンジし、人生の記念の1ページに加えてみてはいかがでしょうか。
6日目 ホノルルマラソンで感じたこと
今回の旅行は、HIS社のホノルルマラソンツアー7日間を使い、その中に以下のように私たちのオプションを組み込みました。
1日目、成田空港離陸、ホノルル空港着陸、ゼッケン番号受取り、ワイキキ散策
2日目、ハワイ島溶岩ナイトツアー
3日目、午前にダイヤモンドヘッド登山、昼に決起パーティー、夜に前夜祭コンサート
4日目、オアフ島一周観光ツアー
5日目、ホノルルマラソン本番
6日目、ホノルル空港離陸
7日目、成田空港着陸
ダイヤモンドヘッドの夜明け
2日目のハワイ島溶岩ナイトツアーに大阪から参加されていた76歳の女性がいました。2年前の74歳時に初マラソンを完走し今回が2度目の方でした。前回同伴した夫は今回は辞退したため単独でハワイに来ていました。私より10歳年配ですが、いい根性していると思いました。重要なのは、好奇心を旺盛にし、自分自身が何がしたいかを考え実践することだ、ということを改めてその女性から教えていただきました。女性は7時間30分で完走しました。
大阪の女性の行動から私はアメリカの詩人サミュエル・ウルマンの『青春』という詩を思い浮かべました。ウルマンが78歳の時に作った有名な詩です。
「若さとは人生のある時期のことではなく、心のあり方のことだ。
・・・・
人は歳月を重ねたから老いるのではない。
理想を失うときに老いるのである。」
この詩は、私が妻と結婚した時の結婚記念文集『絆』に載せてあるものです。
ワイキキビーチの夕陽
HIS社の担当者が行き帰りのデルタ航空の席を6人がまとまるような予約確保や各種のオプション手配をしてくれたので、帰国後2日目にお土産を持ってお礼の挨拶に伺いました。担当者は、随分きついスケジュールを組んだけれど大丈夫かな、と心配していました、とのことでしたが、今回一緒に出かけたメンバーは毎年海外に出かけている連中なので、これくらいのスケジュールは海外登山に比べればずっと楽でした。HIS担当者は旅行の苦情や文句を言われるのが常ですが、わざわざお礼を言うために訪れてくれたかたはいないとのことで、転勤する時は挨拶の電話を入れますとのことでした。
マラソンを走った翌日、8時間のフライトで雨の成田空港に到着し今回のホノルルマラソンツアーは解散となりましたが、今回仕事の関係で参加できなかった小中学校の同級生がもう一度ホノルルマラソンにチャレンジしよう、と言った時は5年後の70歳時に再度ホノルルに出かけようと話し合いました。大切なのは何歳になっても好奇心を旺盛にしたチャレンジ精神だと思います。来年はネパール・ヒマラヤのゴーキョ
ピーク5483mとカラ パタール5545mに登る25日間の山旅を予定しています。(^_^)v