兵馬俑と古代中国
兵馬俑の発掘現場写真と将軍像
1月20日 金曜日
自宅で購読している東京新聞に昨年秋から一週間に一度は上野の森美術館で開催されている『兵馬俑と古代中国』展の案内が載っていた。東京新聞やフジテレビジョンが主催者の催事案内だった。以前から気になってはいたのだが、時間が空いたので予約を取って妻と一緒に出かけることにした。予約は30分単位に割り当てられたもので、朝一番の9時30分から10時の枠で予約が取れた。
発掘された歩兵俑
宇宙からも見える構造物として有名な『万里の長城』を完成させたのは秦の始皇帝であるが、始皇帝の前の戦国時代と始皇帝の後の漢の時代の三つの時代の兵馬俑が一度に見える催しであった。兵馬俑とは王が死んだ時に陵墓に一緒に埋めるために兵士や馬をかたどった陶器で作った像である。兵馬俑の変遷を含めて、当時の武器、通貨、酒器、香炉、金印、犬、豚、鳥などが見られる催しだった。
馬車
現在は西安という名前だが、昔の名前は長安である。弘法大師と言われる前の空海が、遣唐使の学僧として渡った中国の都・長安の周りに兵馬俑は埋められていた。秦の始皇帝陵の兵馬俑の発見は20世紀最大の考古学的発見とされ、長い間地下に眠っていたが、農作業中に偶然発見され、始皇帝陵には約8000体が埋蔵されていると推定されており現在も発掘は続けられている。その兵馬俑の発掘現場を西安まで出かけるのは大変なので、今回の上野の森美術館での展示会を見ることによって、その実物の一端を自分の目で確かめたいと思ったのである。
将軍像(左)と兵士像(右)
会場には三つの時代の兵馬俑が時代ごとに並べられていたが、秦の時代より前の群雄割拠の戦国時代のものは小さいもので、秦の時代になると巨大になり、後の漢の時代になると再び小さくなっていった。 実際に見た秦の時代の兵馬俑の人物は私の背丈をはるかに越す180cmを越える大きなもので彩色もされてあった。馬も馬車も実に立派なもので、それらは陶で出来ており実に写実的なものであった。この兵馬俑をどのように作ったのだろうかという疑問がわいてきた。私も5年ほど陶芸教室に通って轆轤や手ひねりで作陶した経験から制作過程に興味が湧いたのである。軍馬のところに制作過程が書かれていた。それによると頭部、胴体、脚を別々に作り、それを合体して全体像になったという。陶器のため粘土で形づくった像を約1000度の火で焼いて完成したとのことだった。
180cmを超える兵士俑
この兵馬俑が作られたのは紀元前の時代から紀元後の時代にかけての約2000年前のもので、日本では狩猟採取の縄文時代から稲作の弥生時代へと移行中である。当時の日本では、社会的にあまり貧富の差は無かったと考えられているころである。だが中国では厳然たる階級社会が存在したことを物語っている。当時の日本と中国の文化的な違いをまざまざと見せつけられたものであるが、この兵馬俑を作るためにどのぐらいの人力が使われたのかということを考えてしまった。
復元彩色された兵士像
この兵馬俑を見て感じるのは当時の権力者の絶大な力の大きさである。秦の始皇帝は中国大陸に史上初めての統一王朝を樹立したが、わずか15年という短さで滅亡してしまい、漢の時代へと変わっていった。権力闘争の非情と儚さである。