母ちゃん
岩井 彰子
「かあちゃん」と呼んでも返事をする人はもういない。
私の母は、4月13日、入院先の病院で亡くなった。78歳だった。
昨年11月、自宅で倒れた母は、自分で起き上がることができず、家族は仕事や学校で家には誰もいなかったので、たまたま来たダスキンの人に見つけてもらって救急車で運ばれ、近くの病院に入院した。私のところに遊びにくるという前日のことだった。
そこで約1ヶ月間寝込んでしまった母は、自分で立つことが出来なくなってしまい、日中、誰もいない自宅に一人でいるわけにいかず、介護老人施設に入ることになった。
12月、母は『睦沢の里』に入った。
私は何が出来るわけではないが、施設に母を入れるというのは抵抗があったが、仕方のないことだった。私に出来ることは、こまめに顔を見せることだと思った。
約3年前になるが、祖母が98歳で亡くなった。とても丈夫な人で病気になることもなく、自分のことは自分でやっていたが、亡くなる前、数年は、母が何かと世話をやいていた。母のほうが身体も細く弱かったが、「おばあさんより先にはいけない。1日でも長生きしたい」と母は言っていた。
母は33歳で夫と死別してから、女手ひとつで私たち兄妹3人を育ててくれた。農家に嫁いで機械の操作も覚え、祖父、祖母と一緒に米作りにはげみ、農家が忙しくない時は“土方”に出かけ生計を立てていた。雨の日は“土方”は休みで母が家にいるので、なんとなく嬉かったことを覚えている。
私が結婚・出産・子育てで忙しい時、母はこの頃から一人でやってきたのかと思い感心することが度々だった。
母は、私が高1の時、町の検診で胃が悪いのが発見され、千葉大で胃の手術を受けた。胃の殆どを取ってしまったのだ。長いこと入院し、母のいない家でさみしかったことを覚えている。
男まさりの母の体はどんどん痩せていった。食事をとる時、いつも苦しそうな顔をしていた。食べ物がのどを通っていくのが辛いのだ。でも、細い体で田んぼに、畑へと出かけ頑張っていた。和裁ができたので着物を縫ったりもしていた。とにかく“働き者”の母だった。
「人さまから何か言われることのないように」と育てられた。いろんなところで父方、母方のおじさん、おばさんが助けてくれた。本当に感謝している。そして母が頑張ってくれたから今の私たちがいると思う。
祖母を看取ってからの母は、めっきり弱くなってしまった。
「おばあさんの面倒をみなくちゃ」という気持ちが、随分“はり”になっていたらしい。家に一人きりになってしまった母は、食も細くなり、喋る相手もいなくなり、ガクッときてしまったようだった。病院通いが多くなっていった。この頃、体重は35Kg位だった。やっとゆっくりしてもらえると思ったのに・・
『睦沢の里』は4人部屋だったが、周りの人は耳の遠くなった人たちで、それぞれ話すこともなく横になっていることが多かったので、私たち身内が行って話しをしたり、車椅子で散歩したりするのが一番いい刺激になるようだった。母の状態はリハビリを受けながら、少し良くなったり、又、悪くなったりといった具合だった。
2月28日の夜、母の夢を見た。母が死んでしまった夢だった。
母は、3月1日のリハビリ中に意識がなくなり、病院に移された。兄から連絡を受けた私は驚いた。兄の話では、母は「誰が誰かも全く解らなくなってしまった」という。
4日前に私は、ベットに座れるようになったり、歩くリハビリも始めたと喜んでいた母に会っていたからである。この時、食べたいといって買ってあげた「のりせんべい」と「りんごジュース」をうまいと言った嬉しそうな母の顔を今も思い出す。
3月2日、仕事後、母の様子を見にかけつける。そこには点滴を取ってしまうということで両手をしばられ、話も全くかみ合わない変わり果てた母がいた。
3日、4日と母が昔の話やおかしな話をするのを相槌を打ちながら聞いていた。母と親しくしてくれた私の友達がお見舞いに来てくれて、何も解らなくなった母を見て「子どもに戻っていくのかね」と言っていた。今までも“まだらボケ”はあったが、すっかりボケてしまったのかとショックだった。
ところがそれから2,3日して、母は又、元気になった。見舞いの人が誰なのか、ちゃんと解るし話もしっかりしてきた。3月1日からの1週間近くの記憶は全くないらしいが、よかった!でも、母は、このことがあってからいろいろ考えたらしい。義務的な病院の対応に、体調が良くなったら、早く睦沢の里に戻りたいと言っていた。
4月8日、午前中、母のところへ一人で行く。
ベットに一人で寝ているせいか、随分ボケたことも言っている。点滴していて「取れたら2人で寿司を食べに行こう」と言っていた。何よりも寿司の好きな母だった。5月の連休には増田でも幕張でも外泊できるといいなと思っていた。
4月13日、母は、ひとりで逝ってしまった。
1週間がバタバタと過ぎていった。とてもさみしく忙しい日々だったが、家族のありがたさが身にしみた日々だった。
不思議な話があるならば、母は3月1日に倒れたが、あの世からみんなに会いに戻って来たのかもしれない。いろんな人と会い、挨拶を済ませ、安心して旅たっていったのだろう。そう思いたい。
ふと母を思いだし涙ぐんでいる。
“支え”がなくなってしまったような気がする。
でもそんな弱気なことを言ってはいられない。
母に喝を入れられそうだ。
母との思いではいっぱいだ。
思い出に浸りつつ、心の中で母と話していこうと思う。
母は、簡単な日記をつけていた。
最後の頁は“兄妹なかよく”となっている。
2001,7,15、