おとうさんは愛ちゃんの誕生日に毎年メッセージを書いて渡します。
今年の誕生日に渡した17通目のメッセージです。
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愛、16才の君に
愛、16才の誕生日、おめでとう。
父さん、わたし普通の学校に行かないからね。
ん?!
普通の大学に行かないってこと。美術系の学校に行くから。
美大か?
うん。美術大学か、美術系の専門学校に行く。
そうか、わかった。
これは君が通っている高校の来年度のカリキュラム選定に関して、学校側から保護者に対しての説明会が持たれる数日前の父さんと君の会話でした。
君が通っている高校は実験高校としてさまざまな試みをしています。その最たるものが2年、3年の授業のカリキュラムを自分の進む方向を考え、自分で組み立てるというものだと思います。父さんは2年間の授業のカリキュラムを自分自身で組み立てるということを聞いた時、えっ? と少なからず驚きました。そのあと、思い切ったことをするもんだ。と感心しました。
来年度のカリキュラムは君が入学して2ヶ月目の6月には決定しなければなりませんでした。父さんは会社を休んで学校の説明会に出席しました。説明会に出席する前に君がクラス担任の鹿野先生から渡されていたカリキュラム選択内容に目を通していましたから話されていることについての疑問はありませんでした。
家に帰ってきてから早速来年度のカリキュラムを考えてみました。カリキュラムは大きく分けて理系、文系、芸術系、の3パターンでした。君の希望通りに芸術系を選考すると2学年から英語、国語、歴史、科学、生物は選考できますが、美術やデッサンを選ぶ関係上、美術大学受験のためには数学は選択から外れます。数学Uは微分・積分の世界ですが、それを学ばなくても人生の中では関係ないと割り切りカリキュラムを考えてみました。
君が学校から帰ったあと色々話し合い二人で考えたカリキュラムを元にして担任の鹿野先生からの説明を聞き、最終的なカリキュラムを自分で調整し提出したようです。
芸術の基点は直感と感性と表現力だと思います。これは親が子どもに教えることは出来ません。いろいろのテクニックは教えることは出来ますが、個人の中から湧き出てくる感覚・感性はもって生まれてくる個性に関係あると思います。
そういう意味からいって人間は平等ではないと父さんは思います。才能には個人個人で優劣があると思います。個人が持っている才能がそのまま幸せに直結しているわけではありませんが、自分の持って生まれた能力は努力することによって開花します。しかし、その結果は評価される場合と全く評価されない場合があります。それは時代の運です。芸術家の多くが死んでから評価された事例が数あることを考えれば納得のいくところです。
しかしながら大切なことは人から認められることよりも、そのプロセスを通して自分の中へ入ってくるものを自分自身がつかむことによる自己自身の成長にあると思います。
というわけで君は15才にして早々と芸術系に進路を決めました。ま、一応、進路は決めましたが人生いろいろですからこれから紆余曲折がいろいろあるでしょう。そうでなくちゃ、おもしろくないからね。
夏休みには船橋美術学院の夏季講習コースに出かけ、9月からは土日基礎講習コースに積極的に出かけていきました。基礎をきっちり学ぶ上に応用があり発展があります。父さんも絵が好きですからよく絵画展にでかけていろいろな絵を観ていますが、例えばピカソの代表作とされる多くの絵は何がなんだか分からないような抽象画ですが、ピカソの展覧会に君と大と父さんが一緒に行ったのは2年前の春でした。その展覧会でピカソの初期のデッサンの正確さを見て君も大もとってもビックリしていましたね。美術にかぎらず全てのことに通じて言えることですが基礎をしっかり身につけることが一番大切なことです。今の君のとっても当てはまります。頑張って下さい。
君は高校に入学した当時はサッカー部のマネジャーになると一所懸命に努力したようですが、いろいろの人間関係から断念したあと弓道部に入部しました。父さんはまだ1回も君の練習をしているところや君の部活動に応援見学に行っていませんから弓道部の実情を知りません。昨年の夏合宿は2泊3日で高校内の合宿所で行われました。父さんも高校時代にラグビーの夏合宿に参加しました。真夏の太陽がギラギラ照りつける7月下旬から8月上旬にかけての一番厳しいシーズンでの合宿は、朝食前の朝練に始まり午前中のフォーメイション練習、午後3時から日没までのOBとの練習試合が連続1週間続くとバテバテになり、心身ともに疲労困憊しましたが不思議なもので高校生の体力は一晩寝ると復活していました。父さんはフランカーでしたからスクラムを組むと同時にグラウンド狭しと走り回る動的ポジションだったので君の精神統一をして標的を射るという静的な弓道とはちょっと違いますが、いい体験ができたと思っています。そこで連帯意識を基礎とする「一人一人がみんなのために、みんなが一人のために」というチームプレー精神やフェアプレー精神を学んだのです。そして群馬県大会で優勝し北関東大会で勝ち、花園ラグビー場の全国大会へ出場したのです。30数年前のことですがあの当時のことは今でも鮮明に覚えています。それほどラグビーに入れ込んでいました。ラグビーは15人のスポーツですから一人だけ優れていてもだめです。お互いの協力があって初めてなりたつ競技ですから弓道とは違いますが、自己自身のベストを尽くすという点は共通しています。自分自身の持てる力の限りを出した先に次の目標点が現れてきます。そのうち君が試合に出るようになったら応援見学にでかけますから思い切り燃焼してください。
11月12日の寒い夜のことでした。
「愛ちゃんが車にはねられ頭から血を出して救急車を呼んでいます」
「ん? 何?」
大と夕食中のところへ君の友達の‘うえっち‘から電話が入ったのは7時40分頃でした。母さんはジャズダンス教室へ行っていて留守でした。
「救急車? 事故? 場所は? 」
「イトーヨーカドー前の交差点だって」
「お母さんのところへ電話を入れたのだけれどつながらないので家に連絡しています」
「わかった。ありがとう」
どうやら君が下校途中で事故にあったらしいことがわかりましたが状況が全く不明です。
すぐに事故発生交差点近くの健生病院に電話を入れて救急車で運ばれた君がいるかどうか確認したところ、いません、との返事でした。すぐさま今度は119番に連絡し状況を確認すると、救急車は事故現場へ到着し応急処置をしている最中です、とのことです。
続いて母さんに連絡をとりました。母さんのところには救急隊員から君の携帯電話で連絡が入り、搬送先の病院を探しているとのことでした。
父さんから君の携帯電話を呼び出すと2度目に救急隊員が出て、搬送先の病院は「習志野第1病院」で両親のどちらかが来て欲しい、というのですぐに駆けつけると伝えました。
母さんも家に帰って来ましたから地図で病院の場所を確認し、父さんが連絡を受けた時は晩酌中で酒を飲んでいましたから母さんの運転で病院へ向かいました。習志野第1病院は家から15分ほどの距離の大きな病院でした。
病院に着くとCTスキャン室からストレッチャーに寝かされた人が出て来て手術室に運ばれて行くところでした。それが君でした。左頬に傷があり、左側頭部が血に染まっていました。父さんと母さんも一緒に手術室に入りました。CTスキャンの写真が運ばれてきましたので、父さんはすぐにその連続写真を注意深く見ました。頭蓋骨は変形しておらず丸い正常の形をしていました。傷口を確認していた医師がカルテへ症状の記入を終えたのでCTスキャンの写真を見ながら状況の説明をしてくれました。
「頭蓋骨にヒビなどの症状は確認できませんし脳内出血もなく脳は大丈夫のようですが、左側頭部の傷は小さいのですが皮下の血管が切れているのと打ち身で腫れ上がっています。頭は血管が多いところなのでこのような症状になります。回復までに2〜3週間かかりますが、腫れ上がっているところの血が時間の経過と共に下に降りてきますから、瞼が腫れ上がり黒ずんでくることがあります。しばらくすると元に戻ります。腫れがこのまま大きくならなければ大丈夫です」との説明を受け、父さんは本当にホッとしました。医師の説明通りCTスキャンの写真には笑っちゃうくらい大きなタンコブが出来ていました。
傷口の処置をするというので父さんと母さんは廊下の長椅子で30分ほど待ちました。処置が終了したので再度、手術室に呼ばれ、側頭部の傷口を縫われ頬にバンソウコを張られ右手に点滴をされた君がストレッチャーの上に横たわっていました。君はまだ事故のショックから抜け出していないようでボーッとしているように見えました。
5階の515号室に入院となり母さんが付き添うことになりました。母さんはとりあえずのものを家に持ちに戻りました。その間に大分落ち着いてきた君と話をしてみると、青信号で横断歩道を渡っていた時に事故にあったのだが事故の瞬間は思い出せない、とのことでした。1時間ほどすると母さんが戻ってきたので父さんは家に帰ることにしました。
家に戻る途中に君の自転車を持ち帰るため事故現場に行きました。交差点脇に置かれていた自転車フレームの前輪側は大きく折れ曲がりサドルもひどく傾いていました。乗って帰ることは不可能でしたから押して帰りました。タイヤのこすれる音を聞きながら寒空に輝く白い月を眺め、大事にならなくて本当に良かったとしみじみ思いました。
翌日の午前中に脳外科の先生の回診があり、脳の中は異常ないでしょうとのことでした。君はまだ頭がくらくらしていると言っていました。縫い合わせた傷のこともあるので次の日の外科の診察を受けることにしました。君もだんだんと元気を取り戻してきました。
その後の状況も良く、君は2泊3日で退院し、その後の1週間の通院治療で元気印の君に戻りました。事故に遭ったのは不運でしたが幸いにも脳に打撃を受けずに軽症だったことは幸運でした。たった1秒違っていただけで状況は随分違うことになっていたろうと思います。当たりどころが悪ければ君は短い生涯を閉じていたかもしれないのですから…
自分が注意していてもどうしても避けられない事故というものはあると思います。もし、そのような状況に直面した場合はしかたのないことだと父さんは思います。このことを痛感したのが阪神大震災で一瞬の間に崩壊した家の下敷きになって亡くなっていった多くの人たちの現場を見たときでした。人間の生命がこんなにも脆く儚いものなのかを感じると同時に今の瞬間瞬間をきちんと生きていくことの大切さを学んだのでした。
父さんは若いときから色々のことを体験し周りからはかなりユニークな人と見られているようですが、阪神大震災の復旧支援をしながら一面の焼け野原や崩壊現場を前にして改めて人生観が変わったのでした。
父さんはあと何年生きられるか分かりませんが、いつ死んでもいいように日々自分の思うことが実現できるよう努めることが大切であり、自分の心に忠実に相手には誠実に対応していく真摯な生き方をこれからもやっていきたいと思っています。
その積み重ねが個人個人の人間を作っていくと思うのです。君には君の16年の積み重ねがあります。これからの君の生き方の積み重ねによって「岩井 愛」という人間が出来上がっていくのです。それはやはり、「自分の心に忠実に相手には誠実に」という生き方を根本に押さえたうえで、さまざまなことに精一杯チャレンジしていくことだと父さんは思います。父さんは君が大好きです。応援していますから思いっきり行動してください。
父さんの54歳の誕生会は君の交通事故騒ぎで吹き飛んでしまいましたが、3日遅れで君の退院祝いを兼ねてお祝いをしました。ケーキは用意しなかったけれど4人家族の遠慮ない会話と笑顔が何よりの誕生日プレゼントでした。飲んだビールとワインの酔いがいつもより早く感じたのは安心した結果かもしれません。
ではこれで父さんからの17通目の手紙を終わりにします。
2003、1、8、記