60歳の退職を迎えて

 

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10年目で花開いたチューリップの花

 

 二人の子どもが小学生の時に10粒ほどのチューリップの球根を庭に植えました。それから10年。毎年芽は出すのですが花が咲くことはありませんでした。今年も花は期待していなかったのですが、びっくりしたことに真っ赤な花が咲きました。あたかも私の退職と息子の卒業を祝うかのようでした。これから毎年花を咲かせてくれるでしょう。

 

2009年3月31日(火)、NTT−ME社を退職しました。思えばサラリーマン生活も40年を過ぎたことになります。1967年(昭和42年)4月1日に当時の3公社のひとつの電電公社に入社したのは18歳の春でした。途中、政府行革により日本電信電話公社(官公庁)から日本電信電話株式会社(NTT:民間会社)へと社名は変化しましたが、42年間に渡って一貫して通信産業に従事していたことになります。しかし昨年11月に満60歳を迎えたため年度末の3月に退職したわけです。

 31日の仕事を終え職場を退出するとき仲間が声をかけてきました。

「岩井さん、今日が最後ですね。家に帰ってからしんみりやるんですか?」

「いやーぁ。しんみりするのは趣味じゃぁないので。これから後楽園ホールに行ってボクシング観戦だよ」

と言って後楽園ホールに向かいました。

 

今年の新人王戦が3月30日からスタートしており、息子の大がエントリーしているスーパーフェザー級が30日に3試合、31日に2試合予定されていました。水道橋駅西口から徒歩3分の美味い「尾道ラーメン」を食べたあとに後楽園ホールに入ったため5試合目からの観戦でした。31日は13試合予定されていましたが2試合が中止され、11試合のうちの第5試合目からの観戦でした。観戦した7試合のうち4試合がKOまたはTKOで決着しました。3月21日の日本ミニマム級王座決定戦でTKO敗北した選手が試合後意識不明になり緊急手術をしましたが、残念ながら帰らぬ人となりました。そのため選手の安全面を考えて早めに試合をストップするのでTKOが増えました。7試合の中では目に留まる選手はいませんでした。


 話は戻り、私の42年間のサラリーマン生活の仕事内容は前半の26年間が伝送装置の保守であり、後半の16年間が専用回線の保守でした。社内の組織改変に伴い、私の勤務する組織名はしばしば変わりましたが、大きな意味での転勤は娘の愛が千葉市立幕張東小学校に入学した年の4月の1回のみでした。

 私は、1948年(昭和23年)11月13日に生まれました。以来、人生の終末である死に向かって一本の線の上を歩み続けているわけですが、その線は左に曲がったり右に曲がったり、あるいはユーターンしたり紆余曲折を経ていますが、確実に死に向かっての道のりであることに変わりはありません。死は全ての生物にとって避けて通れない宿命であり自然の一部です。どのような死を迎えるかを考えることは、どのような生き方をするかの裏返しであると思います。

 

1995年1月17日未明、阪神淡路大震災が発生し死者は6400人を超えました。私は地震発生6日後に復旧支援一次隊として現地西宮に入りました。その時、目に飛び込んできた被災地の状況は衝撃的でした。一夜にして多くの人が倒壊家屋の下で圧死したのです。前日まで元気であっただろう多くの方が「まさか」と思う間もなく亡くなられたのです。その破壊された夥しい家屋の風景を見て私の死生観は確実に変わりました。阪神大震災のように死は自分の想像を遥かに超えた次元で突然訪れてくる場合があります。大自然の猛威のような不可抗力の場合はきっぱり諦めることにして、いつ死んでも悔いが残らないよう生をまっとうするために一日一日をきちんと生きていこう、という考えが強く芽生えたのです。方向として「明日は今日と違う自分になる」ということでした。少しでも進化すること。毎日毎日、昨日より良くなることを目標に掲げて生きていくこと。そこに連続性としての生きる意味が出てくると思ったのです。

 

60歳でNTT−ME社を退職しましたが、引き続き同じ職場で契約社員として働いています。当然のこと、仕事の内容、責任の重さも異なってきますが、それは割り切って考えねばなりません。年金生活が始まるのは本来ならば64歳からですが私の場合、特例措置により62歳を迎えた2011年4月からとなります。それまで2年間はサラリーマン生活を続け、それ以降の準備過程と位置付けていこうと思っています。それ以降の生活の基本パターンは以下のように考えています。

 

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船橋・海老川沿いの夜桜見物は生憎の雨模様でした

 

NTT退職(62歳・2011年3月)後の基本的な生活について
 第二の人生は、まず基本設計から第一の人生とは別仕様にする必要があると思います。退職後というのは、会社員から離れ、本来、人間にとっては統一されたものであった、「働くこと、学び教えること、遊ぶこと」を分けてしまった生活をもういちど統合することを考えます。

1、基本的な生活について
 以下の諸点に注意し心身ともに健康な生活を送ることを目標にする。
  ・8歳違いの妻が退職するまで主夫として家事全般(料理、洗濯、掃除、室内整理、等々)を行い妻の生活を助けること。

(昨年4月、勤務地が東京に戻ってきてからは月曜日から金曜日まで実施しているので、その延長となります)
  ・ストレスを溜めないように最も自由で楽しい時間を過ごす生活をすること。
  ・時間にメリハリのある生活をし、昼間から酒を飲まないこと。
  ・健康で溌剌と暮らすため公的健康診断を必ず受診すること。

2、「労働・学び・遊びの一体化」について
 
@労働を会社員生活から自然との対話である農業生活に変える。
  ・退職までの2年間で農業についての知識を得ること。
  ・畑作業は幕張の地元で休耕作地を借用し自分の家族で食べる季節の野菜を作る。
  ・広さは1ヘクタール程度で1週間のうち月水金の3日間を基本とする。
 
A学びとして社会的ボランティア活動、地域コミュニティに参加する。
  ・小中学校のパソコン教室の補助をする。
  ・町内会役員になり地域コミュニティに参加する。
  ・青少年健全育成組織に参加する。
  ・三谷大和ジムのHPサイト管理とニュース「戦気」発行を継続する。
   (大がボクシングをしている間はボランティアで実施)
  ・水彩画講座を受ける。

・陶芸講座を受ける。
 
B遊び(趣味)は自分が好きなことをする時間と位置づける
  ・ハイキングと登山について
   (春山ハイキング、夏山3000m縦走、秋山ハイキング)
   平日のツアー登山に参加する場合でも必ずコースを自分で調べること
  ・スキーについて
   (家族スキー、棚田ツアー、中島ツアー、吉原ツアー)
  ・絵画について
   (1ヶ月に1枚の山の絵を描くことを目標に100枚で個展開催、CD作成)

・陶芸について

(今まで登頂した山頂の岩を砕いてぐいのみの作成ほか)
  ・マラソンについて
   (春の侍マラソン20km、秋の成田マラソン10km、湘南マラソン42km
  ・バードウォチングについて
   (主に木々の葉が落ちた晩秋から早春にかけて)
  ・旅行について
   (大人の倶楽部パスを有効に利用した計画)

3、生活を保障する生活費について
  ・基本は公的年金と私的年金の加算となりますが妻が働いているので一人の生活費としては十分です。


4、社会保険について
  ・NTT健康保険(2年間の継続手続き後は国民健康保険に加入)
   (愛は扶養から外れたが健康保険は現状維持、大の扶養と健康保険の関係を確認すること)
  ・がん保険(年間35千円)

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